譚之八 神の箱庭 その壱 サトリ抄その壱
「やれやれ、逃がしたか、これは…ちょっと予想以上だ。もう、一仕事…あるん…だが…、やばいか…な、目が霞んで…き…や…がっ…た」ずるずると、側の幹に埋もれるようにして背中を預ける。
「そこまでして、貴方は何を求めるというのですか」ふゆり、と木霊する声は優しく、言の葉とともに、梢の揺り篭が彼を抱くようにして包み込む。
「…約束を果たす、それだけの事だ」絶え絶えな息の下から男は、そう言葉を紡ぎ出す。
「小さな一つの、その約束は、たぶん忘れ去られていると言うのにですか」
「覚えてなくとも、彼は約束を果たしてくれた。それで十分だ」柔らかな腕に抱かれ、そして、男は眠りに落ちる。
そうして青年は夢を見る。彼女の夢を、それは哀しく儚い女の物語。ああ、これは彼女の夢だ。それは、鮮烈なる印象を持ってあらわれた彼女の夢だ。
*
唐突に道が開いた。誘うようにそれは、一つの道を、彼女へと至る道を差し示す。後ろを振り返り、自分を追いつめる番犬達を見遣り「さて、鬼が出るか、蛇が出るか、行ってみますかね」軽口を叩く自分を客観的に見られるのは、そう、これが彼女の夢だからだ。
そして僕は、彼女に出会った。
たおやかなるその姿はあまりにも儚げで、生きているという実感さえ微塵も感じられなかった。
閉じられた瞳はそのままに、しなやかなるその指は、外界へと続く、道を指し示す。
「助けるのは此度、一度」紗のような声でそれは言った。
「…緑祐」呆然としたその声は自身の発した声とは思えなかった。カゲロウのようにその姿は儚く、その声は幽幻のように遠い、微風の中にゆるやかに泳ぐ絹のように細い髪は、そのほっそりとした貌の右半分を隠すようにして、ようよう見開かれたその瞳は、澄んだ湖面のような碧。
「…お行きなさい」再度促すその声はくゆるように、けぶるようにして彼の元へと響く
彼の魂はその時、すでに彼女に打ち砕かれていた。