譚之四 ほつれあう 閑話 その弐
季節はずれの桜を見据え、翁は陽のそよぐ縁側に一人座し、静かに酒杯を傾けた。
「桜は神宿る。この世のどこに神が居るというのだ…鬼というのならばここに …」
「また 桜を見ておいででしたか、お館様」
翁の傍に漂うような女の気配がして、春の到来をつげる葉ずれに似た声が翁を現実へと呼び戻した。
「無駄なこととは、わかってはいるのだがな、枯れざる桜を造ってもう幾百、この樹に神が 宿るというのなら、私の魂はいつ救われるの だろうか…」 「お館様…」
「いや、詮なきことであったな、忘れてくれ緑祐。して、何用かの」気づかわしげな女の声をやんわりととどめ、翁は尋いた。
「鴉様と雀殿、このまま放置しておいてよろしいのでしょうか」
「良い、あれは好きなようにやらせておいて良いのだ、二人の結末のみがわかればよいのだからな…、この桜もあれらも呪いなのだ。私が私自身にかけた呪いなのだよ、緑祐 …」 後ろ半分は緑祐と呼ばれた女に聞かせるというよりも一人呟くように言って、ようやく翁は桜から女へと視線を移し、未だ下がらぬ女に「他に何かあるのか」とだけ尋いた。
「鬼の力を内包して未だ人間でありつづける者がこの町に来て居ります」
「ほう、間違いないのだな」
好々爺然とした老人の貼りついたような笑顔がそこで初めて揺らいだ。
「はい、鴉殿がそろそろ見物に行っております頃かと…」
「見物に、か…、その者、私の探し求めておる者だとよいな」
「とすれば、お館様の魂の救われる日も近いのかもしれません」
「はは、緑祐よ老人にあまり期待をもたせるものではない、私はお前よりも長い時間それを待ち焦がれていたのだぞ」乾いた笑い声をあげた老人の皺の中には、わずかに希望という名のものが埋もれているようにみえた。
「失礼いたしました、他愛もない女の勘というものでございます」
座した女は酒の替わりを杯に差し出し、恭しくそう言った。
「よい、たまにはそういうものにすがってみるのも一興…」
差し出された酒を一口含み、その透明の液体が心地のよい酩酊を運んでくるのを味わいながら、翁の瞳は ただ枯れざる桜だけを見ていた。