譚之参 春の嵐 その伍
「なぁにぃおを すぅるぅんですかぁっ! 私のっ拓磨さんにぃぃっ!! この性悪っ!! あなたみたいなかたは、拓磨さんの前から私が排除いたしますっ!!」
”おーいっ、いつから僕があんたのもんになった?”
そのさっきまでのしとやかな声とはうってかわった彼女の声に、初めてもう一人の存在というものに気づいたふうで、漆黒を纏った女はそれでもすかさず鈴音との間合いをとり、その顔に余裕の笑みを浮かべた。 「できるもんなら、やったんさい♪」
ひゅいんっ!
「えっ!?」襲い来た鈴音の爪を彼女は躱し損ねた。驚愕が彼女を襲った。女の右頬から顎先にかけて赤い血の跡が流れだした。
「痛い目に会わないうちに帰るんでしたら今 のうちですわよっ」言って肉食獣の笑みを浮かべた彼女を見据えた漆黒の女は、自分の頬の血を不思議そうにぬぐってそれを見つめると、指先に着いた赤い液体を己が唇に疾らせた、ただでさえ紅い女の唇がさらなる朱に染まる。
「ふんっ、そういう事っ、人間としての気配が強いんで読み違えたよ、次はこううまくは いかないよっ♪ おいでっ、猫娘っ!!」 女の唇が血の赤をもって妖艶に歪んだ。
「乱暴な言葉づかいは殿方に嫌われましてよっ!!」叫んで彼女は自身の三倍の身長を飛んだ。
”うーんっ、さすがに元 猫っ。”
「だぁーかーらっ♪ 素人が玄人に勝とうなんて 思いあがりなんだよっ!!」
『負けたなっ、空で、体の向きは変えられない』
落下速度を武器にしようとした彼女は僕がそう思った時には既にその体に後から飛び上がった女の拳がその身にめり込んでいた。
はあふうっ!! という彼女の悲鳴、それと同時に魔力の制御を失った彼女の白い肢体は黒い猫へとその身を戻しつつあった。
す、とんっ、とそれでもきちんと四本の足で地に降り立ったのは流石に猫というべきか。
「ふふっ、ますます気に入ったよあんた、その身に力を取り戻しつつあっても、知り合いが目の前で酷いめにあっている中で、じっと私の隙をうかがっているなんてねっ♪」
けほ、けほっと可愛らしい咳をして猫へと変じた彼女は気を失ったらしい、それを視界の隅で確認し、僕は彼女の瞳の奥を覗き込むようにして、「最近、僕の回りが騒がしいんでね、用心は怠たらないようにしているんだ」と目標を僕へと戻した女に言った。「ふふっ♪ まぁ いいさね、自己紹介が遅れたわ、あたしは浅霧 乙音”狩人”を生業としている」
「乱暴な女はあまり趣味じゃないんだ」
「何言ってんのさ、あれはあたしのせめてもの思いやりってもんさ、例え”猫又”言えどもあんたの傍に居るためには強くなくっちゃ ぁね、そうだろ? 拓磨、鬼にいつ変わり果てるかわからないあんたの傍らに居続けるためにはね」
「その割りには、彼女の初撃をもらっていたようじゃないか?」
「うるさいわねっ! 誰にだって失敗はあるわよっ!!」
「まぁ それはともかく、さっきの質問、返事、まだなんだけど… ま、急がないわ、できるなら鬼になりきる寸前の方が私としては嬉しいんだけど…、 なーに、しけた顔してんのさ、こーんな美人自お誘いかけてやってるんだよ、女に恥かかせる気かい、おーしっ!! こうなったら村のじいちゃんから教わった人生に一度の秘奥義を使ってやろうじゃあないの♪」
艶然と微笑み、彼女は僕の耳にその唇を押しつけると
「ちなみに、わたし処女だよーん♪」と言い放って去っていった。