譚之参 春の嵐 その弐
日常は表面上 何事もなく過ぎ去っていっていた。
その中でのとりとめのない僕の思考が、一つの視線によって中断させられた。見ると、見知らぬ黒猫が一匹、じっとその左右の銀と金の瞳で朝の掃除を終えかけた僕を ”じっ”と見つめていた。
そいつの魔眼と僕の視線がしばし絡み合い。
そいつはにいっと『見ぃつけた 』と言うかのように笑ったように見えた。
するするとそいつの二つの瞳に魔力が凝縮しその両の瞳が黒に染まるとともにそいつは一人の女性へとその姿を変えた。
よくよく見れば妖しの本性、妖力の形を見れる者がだが彼女の尻と腰の境目あたりに二又に分かれたしっぽが動いているのが見える。 ”猫又か”思うと同時、僕は体内の鬼を抑えつけている力、俗に”気”と呼ばれているもの、の一部を右掌の内に隠すようにしてピンポン玉状に凝縮させた。
あの事件以来、
鬼が身体に棲みついて以来、僕は僕の内部にあるエネルギーの奔流とでもいうものを使える事に気づいた。
彼女は閉じた瞼をそっとひらき寝ぼけ眼であたりをきょときょとと見回すと、「あらあらっ!? わたくしまたやってしまいましたわ、私しったらなんて寝相の悪い娘なんでしょう…」
『おいおいっ!?』
「あら、あらっ!? これは恥ずかしいところを 殿方に見られてしまいましたわ、どうしまし しょう?」
そこで初めて僕の存在に気づいたといったふうに彼女はそう言うと、可愛らしいしぐさで小首を傾げた。
「まぁ初対面の方にはまず挨拶が肝心ですわねぇ、私し音無 鈴音と申します。初めまして」
深々と下げられた彼女の頭越しに見える二本 のしっぽが親愛の情を示しているのを見て僕 は少しだけ警戒心を緩やかにした。「拓磨といいます」
「拓磨さんですか、今こちらで働いていらっしゃるんですの?」
「ええ」
「それで、こちらの方には長くいらっしゃるんですの?」
たたみかけるような質問、間近に近づいてきて僕を見上げる彼女の両目に邪気はない、ただあふれんばかりの好奇心。
その瞳に見つめられて、僕の掌の内か”気球”は霧散した。 「ええ、たぶん、一応…」 軽くその問いに答え、僕はその場にひしゃげた蛙の声を発してうずくまった。
「拓磨さんっ! 大丈夫ですかっ? どうしたんですかっ!?」
その声が自分の発したものだと気づいた時には彼女の心配そうな顔が目の前にあった。彼女のその心配そうな声の中で、僕は僕の内側で自己主張を始めたものと闘っていた。