【19】
のびのびとした、気持ちよく目が覚めた早朝を連想させる一曲が終わる。
数拍おいて、これから始まる一日に高揚するような、軽やかに跳ねた旋律が奏でられた。
「続けて、私と踊ってくださいますか?」
腰に手を添えてホールドした姿勢のまま、彼は問う。
彼は練習など必要ないくらいに上手だ。日頃から身体を鍛えているので、芯がしっかりとしていて安定感がある。歩幅も支える力加減も丁度良く、足がつっかえることもない。
ローシェは微笑んだ。
「舞踏の練習ですから。何度でもお付き合いいたしますわ」
社交のマナーからすれば、配偶者でも婚約者でもない異性と連続で踊るのは褒められた行いではないが、練習であれば話は別だ。
だからこその、限りある特別な時間。
明朗な低音と高音の旋律が語り合うように切り替わっていく三曲目。さながら、楽しい話題が絶えない昼食会だ。
朗らかにリズムを刻むワルツは、のどかな陽気に微睡む昼下がりのようで。
色とりどりの花が咲き誇る庭園を旋回する小鳥のさえずり。自然に囲まれたティータイムを連想させる優雅な旋律。
転調を繰り返した、刻々と色合いを変えていく寂寥の音。一瞬たりとも目を離せない空を美しく思うのに、時折不安に駆られる。そんな夕暮れ時は、心許せる誰かに隣にいてほしくて。
その誰かは彼であってほしくて、無意識のうちに半歩縮まった。
ピアノの儚くてか細い旋律に、繊細な弦の音色がひとつ、ふたつと重なりだす。薄暗くなった黄昏を、灯り始める窓からの明かりで彩っていく情景を音の中にみた。
重厚な低音と品のある高音が華やかに流れ込む三拍。気品溢れる旋律は、時に抗えない切なさに胸が軋み、酔ったと錯覚するほどに甘美だ。荒々しい情熱も内包していて、一夜限りの舞踏会のよう。
休むことなく、止まることなく彼と踊る。
細く高いヒールの靴で踊り続けているのに疲れを感じない。
踊り始めたばかりと思えるほどに、足取りは軽やかだった。
盛り上がった曲の流れに合わせて、繋いだ手を彼が優しく引き上げる。
手のひらを通して伝わる力にのって、くるりと回った。
しなやかなスカートが空気を含んで曲線を描いた。
一息に舞い上がって、緩やかに下降する。
ゆっくり、ゆっくりと舞い落ちた裾が、微動だにしなくなった足元を撫でていく。
「ユーグ様――」
彼の自然な誘導に身を任せて。
ひらりと舞った反動で、足を止めた彼の胸元に自ら飛び込んでしまっていた。
腰に添えられていた彼の手が、今は腕全体で包み込むように抱き寄せられている。
締め付けられる圧力を感じないのに、離れることを許さない彼の腕。
「嫌なら仰ってください」
普段よりも二センチ高いヒールの分だけ、見上げた彼が近い。
急き立つ三拍のリズムに反して、ゆっくりと彼との距離が近まる。その分、心音は加速した。
瞬きの度に視界を彼が埋めていく。
想像をしていなかったから咄嗟に反応ができなくて、ローシェは止まる呼吸と同じ速度で瞬く。
彼は時間を与えてくれていた。
それなのに、言葉が出ない。
彼を拒絶すべきなのにしたくなくて、できなくて。
終いには、瞬きをするためだと自分自身に言い聞かせて、ローシェは意識して瞼を下ろす。
掠めるように彼の唇が触れて、離れていく。
腰に回っていた彼の腕が肩に回って、ワルツを刻む一音のキスをした。
頬を寄せて強く抱きしめられて、彼の左手が頭部を覆う。
繋いだ右手は一本一本絡まって、指と指の隙間を埋めていく。
そうして見つめ合って、フレーズの終わりに目を閉じる。
音の始まりとともに唇を寄せ合って、柔らかな感触を味わうキスをした。
「――ローシェ」
甘い吐息と扇状的な彼の囁きがローシェの耳奥を震わせる。
「何か、仰ってください」
最後だと自らが決めた区切りは甘い誘惑だ。
最後だから、許してほしいと願ってしまう。ほんの少しだけ道を踏み外しても、見逃してほしいと願ってしまう。
この気持ちは――――
「欲がでてしまいます」
縋り付くように彼の胸元に置いた左手が、ぴくりと反応する。
言葉にならなかった感情も彼と共有していた。
それが嬉しくて、これも欲よねとローシェは口角の上がる唇を浅く噛みしめる。
「キス、の練習はいけません」
そうして、こんな時までも教師らしい言葉を探したローシェに拍子抜けして、彼は笑う。
「そうですね。ですが、問題ありません。練習ではありませんから」
甘く溶けていく旋律の余韻が消えて、静寂が訪れる。
数拍の空白を経て、しとやかに、ひっそりと空気を震わせて新たな音色が運ばれる。
音数の少ない静かな旋律にピアノの一音がきらり、きらりと光っては流れ消えていく。
真夜中の静けさに身を潜ませて、闇に覆われた空を滑る流れ星に願う、そんな一曲。
「今日を最後にしないでください。――ローシェ」
痛々しいほどに切実な彼の吐息に、満たされすぎた胸が痛みだす。
彼はもう気づいている。私が彼を見る眼差しが、風景の一部と呼べなくなっていることに。
だって、私はもう気づいている。彼が私を見る眼差しが勘違いなんて不適切な言葉で表してはいけないことに。
だから、彼は一歩を踏み込んだのだ。
お互いに気づいていることを知っている。
踏み止まる気持ちが彼にはない。
突き進んだ先に待ち構える荒波を苦にも思っていない。
(私には、無理なの――――)
既に一度。ローシェは落ちている。
貴族として何不自由なく過ごしていた日々が突如として消え去って、明日の衣食住を恐れる日々に変わってしまった。
彼の思い描く先はきっと、絶対に、一度味わえば手放せない至福をくれる。
同時に、言い知れぬ不安と飛び交う批難の目が日夜ローシェの心を蝕むのだろう。
瞼を閉じたローシェは脳裏に思い浮かべる。
身分差の恋は例え叶っても、遠くない未来に身を滅ぼす。容易に想像ができるから、彼のいない明日を思い浮かべる。
たったひとり、愛する彼がいれば、どんな苦難にも立ち向かっていける。
そんな、純粋で直向きで、立ち向かう勇気を心に強く持てる女性を羨ましく思う。
そんな女性に憧れるけれど、どうしようもなく臆病だから、運良く手に入れた今の安定を手放せない。
「私は未熟者です。未熟故に、何が足りていないかも分かりません。貴女が必要なんです」
煌々と輝く星のように、彼は己を主張する。
光ったと気づいた瞬間に流れ消えていく星を、人は流れ星と呼ぶのだ。
――消えないでほしい。
ローシェは願う。
願うことしかできないから静かに笑んで、彼を瞳に映し続ける。
そうして、最後の一際輝く音色が静寂の夜に消えていく。