第五章 『合宿』⑥
海を見つめたまま、レオはゆっくりと口を開いた。
「僕に召集令状が届いたのは、母さんがそれを望んだからなんだ」
「何故?」
「僕が、……父さんを殺したからだよ」
「え?」
亜依は思わず息を呑んだ。
「今から六年前、僕が九歳の時のことだ。当時、僕の父さんは“Aモバイル”という携帯電話の会社を経営していた。“Aモバイル”は、早坂さんのお祖父さんが会長をしている“早坂カンパニー”の孫会社にあたるんだけど、それでも年商は三百億近くあった。そんな会社の経営者だからね、僕の家は豪壮な邸宅だったよ。周りの人たちは僕たちのことを、何の不自由もない幸せな家族だと思っていただろう。でも、実際は違った。父さんには、裏の顔があったんだ。……DV(ドメスティック・バイオレンス)だよ。家での父さんは、母さんに暴力を振るうだけの存在でしかなかったんだ。毎日のように殴られたり蹴られたりしている母さんを、僕は助けたかった。でも、九歳の子供の力では、どうすることもできなかった」
DVの意味は知っていた亜依だったが、実際にそんな話を聞くのは初めてだった。自分の家族からは想像できない話に、彼女は言葉をなくしていた。
「その年のクリスマスイブのことだ。その日も父さんは母さんを殴った。父さんはいつも以上に荒れていて、テーブルの上にあった皿やグラスは床に落ちて割れ、料理やクリスマスケーキが部屋中に散らばった。それを泣きながら片づけている母さんを見た時、僕の中の何かが音を立てて破裂した。僕は、離れにある納屋へと走った。納屋には、暖炉にくべるための薪と、それを割るための鉈が置いてあった。迷うことなく鉈を手に取り、僕は家へと戻った。部屋にいる母さんは、もう片づけはしていなかった。何故なら、馬乗りになった父さんから殴られていたからだ。何度も、何度も……。僕は、静かに父さんの背後に立った。そして、手に持っていた鉈を、頭めがけて振り下ろした」
ガスランプの灯りでは分からないが、話を聞く亜依の顔は青ざめていた。
しかし、それ以上に顔色が悪いのは、話をしているレオだった。彼の額に浮かぶ大粒の汗は、夏の気温のせいでないことは明らかだった。
「父さんが動かなくなったのを確認して、僕は鉈から手を放した。これで母さんを守ることができた。その時の僕は、心から安堵していた。助けてくれてありがとう、って、母さんが優しく微笑みかけてくれると思っていた。だけど、崩れ行く父さんの身体の向こうに見えたのは、顔中に返り血を浴び、恐怖におののく母さんの姿だった。立ち尽くす僕の前で、母さんは悲鳴とも叫びともつかない声をあげて泣いた。泣かされている母さんを助けたつもりだったのに、それ以上に泣かせる結果になってしまったんだ。僕は、そのまま電話口へと向かい、警察を呼んだ。母さんを泣かせる僕は、父さんと同じ存在だ。だから、僕なんか刑務所に入れられて母さんの前からいなくなったほうがいい。そう思ったんだ。だけど、法律がそれを許してはくれなかった。……山瀬さん、刑法第四十一条を知っているかい?」
レオは、海から亜依へと視線を戻した。
「え? い、いいえ」
急な問いに、亜依は慌てて首を横に振った。いくら成績優秀な彼女でも、法律にまで詳しいわけではないのだ。
「十四歳に満たない者の行為は、罰しない。それが、刑法第四十一条に書かれている条文の全てだよ」
「え? それだけ?」
「そう。たった一行の法律によって、僕の犯した罪は、法律上、罪ではなくなってしまったんだ」
「じゃあ、そのあとはどうなったの?」
「警察に通報したあとのことかい?」
「そう」
「駆けつけた警察官に補導され、僕は児童相談所に送られたよ。児童相談所では、僕のような触法少年、つまり、十四歳未満で刑罰法令に触れる行為をした子供を、家庭裁判所に送致するかどうか決めるんだ。家庭裁判所に送致され、審判が行われることが決まれば、その結果次第で児童自立支援施設等での保護処分もあり得る。僕は、それを望んでいたよ。だって、そうなれば僕は施設で暮らすようになり、母さんを泣かせることもなくなるからね。でも、児童相談所が出した結論は、不送致だった。保護処分はもちろん、家庭裁判所に送られることすらなかったんだ。あとから調べて分かったことなんだけど、殺人を行った小学生が家庭裁判所に送致されるというケースは、極めて稀なんだ。僕の場合は、当時九歳という年齢に加えて、父さんのDVが事件の発端にあるとの理由から、家庭裁判所不送致の決定をしたんだそうだ。そうして、僕は、母さんの許へと帰された」
亜依に自分の過去を語るうちにレオは、神父に懺悔する罪人のように、その心に落ち着きを取り戻していた。
「渋谷区に居を移して、僕と母さんの二人での生活が始まった。母さんは、できるだけ普通に接しようとしていたみたいだけど、僕には何となく分かったよ。僕を怖がっているんだ、って……。そして、あの日、路地で黒服の男から召集令状を見せられた時、それは確信に変わった」
「お母さんの名前が、書いてあったの?」
「そう。予想どおり、母さんは僕を手放したがっていたんだ。仕方がないことだと思ったよ。僕は父さんを殺したんだから、母さんを泣かせるようなことをしたんだから、自業自得だ、とね」
「それが、レオ君があの施設にくることになった理由なのね」
「うん。だから、僕は、母さんへの贖罪のつもりで召集に応じたんだ」
「そう、だったの」
言い知れぬレオへの哀傷の念が胸に押し寄せ、亜依は顔を伏せた。
そして、俯いたまま彼女は、申し訳なさそうに頭を下げた。
「ごめんなさい。私、レオ君にそんな過去があるなんて、全然知らなかったから」
「気にすることはないよ。いや、それどころか、今、僕は、山瀬さんに感謝しているんだ」
「え? どうして?」
顔を上げ、亜依は不思議そうにレオを見つめた。
「僕が犯した許されざる罪を、当時の関係者以外の人に話すのは、これが初めてなんだ。当然だよね。僕は父さんを殺した。そんなこと、簡単に告白できるわけがないんだから。日々罪の意識にさいなまれながら、重い十字架を背負って生きている気分だったよ。自分の罪過について話すのはつらいことだけど、黙して語らないのはもっとつらいんだ。今日、山瀬さんに話ができたことで、そのつらさが少し和らいだような気がする。だから、……ありがとう」
レオは亜依に微笑みかけた。
その笑みは、物悲しげで、ともすれば夜の海に吸いこまれてしまうかのように儚く、亜依の瞳には映っていた。




