第一章 『“神”との取り引き』②
外観から予測はしていたが、施設内は黒崎の想像よりも広かった。前を歩く女性にしっかりついて行かなければ、迷子になってしまいそうな広さだ。
遠くまで続く長い廊下の途中、黒崎は女性に話しかけた。
「なぁ、どこまで行くとね?」
女性は歩みを止めて振り向き、
「突き当たりの会議室までです。皆様そちらでお待ちです」
と、進む廊下の先を指差した。
「ふーん」
自分から聞いたにも拘らず、黒崎は不機嫌そうに返事をした。原因は、彼を待っている“皆様”にあった。
小さく溜め息を吐くと、彼は話題を変えた。
「それにしても、暑苦しかねぇ」
「え? 施設内の温度は二十六度に保たれて……」
「いや、そうじゃなか。暑苦しかとは、あんたの服たい」
「すみません。黒崎先生に失礼のない服装で出迎えるよう、申しつけられていましたので……」
頭を下げる女性に、黒崎は尋ねた。
「まさか、あんたにそう申しつけたとは、日本で一番の、あの人ね?」
「一番? えっと、あ、はい」
「ということは、あの人も、ここにきとると?」
黒崎は眉をひそめた。
「はい」
さらりと肯定する女性の返事を聞いた途端、急に彼は声を荒げた。
「そげんな話、聞かされとらんかったばい!」
「話せば黒崎先生はこちらにいらっしゃらないだろうから、と」
「……当たり前たい」
不貞腐れながらそう言ったあと、黒崎は何かを考えるように黙りこんだ。
女性は静かに回れ右をし、再び歩き出した。
渋々といった様子で、黒崎もその後ろに続いた。
二人は、廊下の突き当りにある会議室前に着いた。
傍らにあるドアを示し、女性が、
「こちらです。では、私はこれで失礼いたします」
と会釈する。
「え? あんたは一緒じゃないと?」
黒崎は、少し寂しげな顔をして見せた。
「はい。あ、ですが、私も、あとでくるよう言われています」
「そうか、それはよかった。それじゃ、次に会う時はもっと涼しか恰好でおいで」
「え? どんな?」
「そうやねぇ……、東京ももうすぐ夏本番やけん、水着がよかばい。今年は、ピンクのビキニが流行りらしいけん、それがよか」
「……」
無言、無表情で、女性は冷ややかに黒崎を見つめた。
「じょ、冗談たい」
慌てて笑いかけるが、女性は何も言わずにその場を去ってしまった。
小さくなっていく後ろ姿を見送りながら彼は、「……嫌われたかいな」と、残念に思った。
会議室のドアへと向き直り、一度深く呼吸する。
それから、黒崎は呟いた。
「さて、と。お遊びはここまでばい」
その表情は、軽口を叩いていた先ほどまでとは打って変わり、とても険しいものになっていた。
この板一枚を隔てた向こうには、日本で一番の、つまり、この国の頂点に立つ人間がいる。日本の行く末を自在に操ることができる、言わば“神”がいるのだ。
「まぁ、“神”との対面は避けられんとしても、なるだけ早く話ば切り上げて帰ろう」現状においての最善だと思われる目標を胸に秘め、黒崎は軽く二度、ドアをノックした。
「入りなさい」
中から声が聞こえた。
嫌味なほどに落ち着いたこの声は、間違いなく“神”のものだった。
静かにドアを開けると、黒崎は、会議室へと足を踏み入れた。