「ハロー、私の……」
「……18××年3月……」
最後の一文を読み終えて、マリーは目を閉じる。熱くなった額を押さえ、息を静かに吐き出した。
「さようなら……私のセージ」
足がふらつき、マリーは思わずテーブルに手を突く。
それだけで埃が舞い上がる。そうなってはじめて、マリーはここが廃屋同然となったかつての屋敷だったことを思い出した。
「……ああ。長い……とても長い旅をしていたよう」
マリーはすっかり老いた手で、鍵と日記を抱きしめる。日記も、紙も空気もすべて、懐かしい香りがする。何十年と、閉じこめられた香りだ。
自分と同じく、この家は年を取っている。
「そう……家を出る日の朝、私は最後の日記を書いたのだった……」
最後の朝、マリーは一文だけ日記を書いてすぐに庭へ潜ったのである。
幼い時代の軌跡を記したこの日記は泥棒に襲われることもなく、数十年の時を経てマリーを迎えてくれた。
しかし、日記の中に鍵があったのは意外なことだ。
おそらく犯人はケイトだろう。彼女はとうに、ここに日記が隠されていることを知っていたのだ。
だから屋敷を出る前に、彼女は庭の鍵をマリーの元に返してくれたのである。マリーの思いの詰まった日記の中に。
(……ケイト)
マリーは目を閉じてかつてのメイドを思い浮かべる。屋敷を出たあと、彼女はマリーの母であり、姉であり、友でありつづけた。
少し早めに寄宿学校に入ることとなったマリーを支え、学校を出て女医を目指すと言ったマリーを応援してくれたのも彼女だ。
彼女はマリーが成人すると黒いドレスを脱ぎ捨て、青やブラウンの美しいドレスを着るようになった。彼女の笑顔も泣き顔もたくさん見た。
そんな彼女も、父の跡を追うように10数年前に逝った。
最期にヤグルマギク色の手紙が、マリーのもとに届いた。彼女の半生を振り返るその長い手紙は、穏やかで優しく、それでいて一つのミスもない完璧な……彼女らしい手紙だった。
(あの人ほど完璧でやさしく、淑女で……素晴らしい人はいなかった)
今はもう会うこともできない、ケイト。
しかし、こんな懐かしい部屋にいると、いまにもブナの扉をあけてケイトが顔を出しそうな気がするのだ。「マリーまた勉強をさぼっていましたね」などと言いながら。
マリーは含み笑いを手で押さえる。
この年まで生きてきて、ようやくマリーは色々なものがみえてきた。世界で一番恐ろしいと思っていた人は、世界で一番優しい人である。
「懐かしい。でももう、私は子供じゃないわ。お勉強もたくさんした。そしてあなたやお父様、おじさまのおかげで私はこんなに立派になった……」
誕生日プレゼントなんていらない。と父に宣言したというのに、結局父はその年からずっと……生きている間は……毎年マリーにプレゼントを贈り続けた。
マリーの誕生日のちょうど、その日に届くように。
それは本であったりペンであったり、様々なものだ。もうどこへ行ったのか分からなくなった物も多い。
しかし、思い出はすべて、胸に残っている。
(……セージ)
マリーは古くなったテーブルを見つめ、壁を見つめ、ベッドを見つめ、心の中で、彼の名をつぶやく。
久しぶりに見たその文字は、マリーの心を締め付ける。
屋敷を出てすぐは、しばらく泣いて過ごした。
寄宿舎に入ってからはがむしゃらに勉強をした。その合間に、屋敷のことを調べようと幾度思ったことだろう。
新聞を見ても爆発どころか火事の記事もない。父やケイトは屋敷が残っていることを知っていたのだろうが、そのことについて触れることは一切しなかった。
大人になるにつれ、思い出は思い出として消化されていく。
資格を得てからは父をまねて世界を駆け回った。医者として独り立ちをした時、世界を旅する時、屋敷を見に行くチャンスはなんどもあったはずだ。しかし、マリーはその方角に足を伸ばすことさえなかったのである。
帰ってどうなるのだ。仮に屋敷が残っていたとしても、マリーの一番大切な人はもういないのだ。
故郷の屋敷は彼の墓だ。そして母の墓だ。
ただ遠くで、マリーは二人を思い続けた。そんな頃に……。
(国からの手紙が、私を引き寄せるなんて……夢のない話)
マリーは鞄に差し込んである茶焦げの封筒をみて笑う。
その手紙を見たとたんに、マリーの中に屋敷の風景が広がったのだ。悩んだのは数日の間だけ。
美しい庭を、屋敷を、祖父の絵を、マリーの絵を、食堂のテーブルを、マリーは繰り返し夢にみた。
これは帰る合図だ……誰かが背を押した。祖父か、父か叔父かケイトか母か。それともセージか。
(セージ……)
マリーはあの、優しい笑顔を思い出す。その唇から漏れる優しい声も、物語も、すべて覚えている。
普段は思い出さないよう、心のどこかに封をしていた。しかしここにきて、マリーはすべてを思い出す。
「こんなお婆ちゃんになってからここへ来るなんて……」
マリーはテーブルに手をおいたまま、目を閉じる。
「遅すぎたのかしら、それとも、まだ早すぎた……?」
ああ。目を閉じるだけで、時の流れが戻っていくようだ。数十年の時を超えていくようだ。
屋敷に戻ろうと思い立った夜、今は居なくなってしまった人たちの声を確かに聞いた。
だからマリーは戻ってきたのだ。もう二度と、戻るまいと誓ったこの故郷へ。
「……生」
声が遠くから聞こえる。その声は、先生。といっているようだ。
「先生……」
先生とは誰のことだろう?
寄宿学校の先生は、それは恐ろしい女だった。意地の悪い紳士もいたし、わけもなく意地悪をしてくるクラスメートもいた。
しかし、どんな嫌味にもマリーはめげなかった。マリーは、医者になりたかったのだ……。
「先生ってば!!」
「あ……ごめんなさい、ぼうっとしていて」
体を揺すられ、マリーは、は。と顔をあげる。目の前に、少年が……ボーグが立っている。
痩せぎすで、目の下には二度と消えない黒いクマと古傷を作った少年だ。彼は心配そうにマリーを見上げている。
マリーは額に浮かんだ汗を指先で拭い、腕時計をみる。
この部屋に入って、1時間も経っていない。
(こんな短い時間……)
それなのに、目の前のボーグが不思議と懐かしく、マリーは胸が詰まる。思わず抱きしめその細い肩に額を押しつけると彼は驚いたように、それでもマリーの肩を抱き返した。
「先生、泣いているんですか?」
「……違うの。いろいろと、思い出して、それで」
ボーグの体は細く、強く抱きしめると折れそうだ。だというのに、こんな時しっかりと抱きしめ返してくれる。
一本の筋が彼の真ん中をしっかりと貫いている。それがマリーには心強く、そしてうらやましいのだ。
「辛い事が……? もしかして、強盗団でも鉢合わせに?……そんなの、俺がそんなの退治してやりますよ」
多くの苦渋をみてきたはずの少年の手が、マリーの肩を撫でる。マリーは浮かんだ涙をそっと拭って彼の体を離した。
「ありがとう。違うの。思い出が……ありすぎて、哀しみも、楽しかった思い出も、なにもかも」
「思い出……」
思い出という言葉に、ボーグは寂しげにほほえむ。
彼が持つ思い出は、薄暗い水路と戦いと、仲間の死だ。おしゃべりな彼だが、その時代の話を詳しく語ることはない。
「俺の思い出は先生の助手をしてからですよ。まあ、水路時代の思い出はどこかに閉まってありますけどね」
「それでいいの。いつか……あなたもお爺さんになるころ、開けてごらんなさい。きっと、今の私のように……」
窓の外を駆け抜ける鳥の羽音に驚いて、マリーは息をのむ。外を見れば、もうそこは闇が広がっていた。
先ほど聞こえた羽音は、この地方に飛ぶ「夜を告げる鳥」の音である。彼らは夜が更けてから一度だけ飛ぶのである。
「あらいけない。もうこんな時間ね」
マリーは荷物を隅において、腰を叩いた。
屋敷の探検はまだ終わりそうもない。しかし暗くなってしまえば、探検どころの話ではない。冬に向かうこの季節、気温は遠慮なく下がっていくのだ。
「そんなことよりボーグ、どうしたの? 冒険はもうおしまい? もうすっかり暗くなってしまったわね……村に降りて……夕ご飯でも、いきましょうか」
「あ! いけね。それどころじゃないんですよ! そうだ。これを伝えなきゃって、走ってきたのに!」
ボーグに手をさしのべると、彼はぱっと目を輝かせた。
「え……?」
「先生、すげえや……庭に……秘密の通路があったんです!」
「通路……?」
ボーグの声に、マリーは思わず目を見開く。ふらついた足がテーブルにあたり、マリーの日記が床に落ちる。
埃まみれの床に落ちた日記は振動を受けて、はらはらと開く。
黄色の紙の上、青い文字が踊っている。
『奇跡だわ』
幼い文字は、そう刻んでいる。
『昨日のあのひとは、夢なんかじゃなかった。あの人は、とてもすてきな物語を知ってる。おじいさまのことも知ってる……誕生日にこんな奇跡がおきるなんて』
「庭に、秘密の通路が?」
「俺。ずっと水路で暮らしてたでしょ? 抜け道は大体、似たようなもんでね。隠し方なんかも、だいたい同じようなもの。まあ、鼻が利くんですよ」
落ちた日記に気づきもせず、ボーグは興奮したように語る。
マリーは日記をさりげなく拾って、埃を落とす。その指が小さく震えていた。
「庭の隅っこにあやしい井戸があって、これは、どこかに繋がってるぞ。と……やだな。べつに盗みとかそういうのじゃないですよ」
「……それで?」
「まあ、ほじくってみたら随分埋もれてたけど、体を押しつければギリギリ通れる穴があった。あ、危ないから先生は駄目ですよ。中を覗けば……梯子があって……まあこれは崩れて使い物になりませんけど……飛び降りてみると道がある。10フィートそこそこかな? そこを抜けたらまた壊れた梯子」
「……それで……」
せかすようにマリーはボーグに詰め寄る。頭の中に、かつての風景が広がった。壊れた梯子、闇、香り、そしてまた梯子。それを上がった先に。
「よじ登って、びっくり! すっごいハーブの楽園ですよ!」
ボーグが大きく腕を広げる。マリーはまた、日記を取り落とした。指が震え、もう何も持っていられない。
「庭が……あったの?」
「たぶんあそこは、この屋敷の地下になるのかな。それとも隠された一階? とにかく家の中のくせに、窓から夕日が差しこんで、ハーブがどれもこれも綺麗に花まで咲いててさ。それで、それで」
床に落ちた日記は、また先ほどのページだ。
……いや、違う。
もっとずっとあとの……クリスマスに書かれた日記だ。その日、マリーの文字は照れている。
『私はたぶん、セージに恋をしてるんだわ』
「……そこに、庭師がいた」
マリーは立っていられなくなり、テーブルに腰を落とす。小さなテーブルはそれだけで悲鳴をあげたが、奇跡的に壊れはしない。
ボーグはマリーの手を握り興奮したように上下に揺らす。
「俺、すっかり強盗団かと思って身構えちまったんだけど、でも振り返ったらすっごい綺麗な顔の男なんですよ。聞けば庭師だっていうじゃないですか。背が高くって……なにか……昔の軍服なのかな? 濃い緑色の服を着てた」
マリーはボーグの手を強く握ったまま、彼の目をみて息を吸い込む。
「それは……赤い……髪の?」
「そうです先生。それに、緑の瞳」
「立っていたの?」
「もちろん」
「服を着て?」
「当然ですよ」
「……そして、名前を」
二人は目を見合わせ、そして同時にその名前を言った。
「セージ」
「来て」
「えっ先生。なんでその名前……」
「いいから。ボーグ。あなた、苔とツタまみれの扉を開ける自信は?」
「どんな扉だって、開ける自信はありますよ」
「その答えを聞いて安心した。さすが私のボーグ、心強いわ」
ボーグの手を引き、駆けつけたのは階段脇。何度みても、その薄い壁にはツタが這い、完全に苔むしている。
震える手でマリーは扉に手を這わせる……無い。何もない。
(落ち着いて、マリー……)
息を整え、マリーはゆっくりともう一度、扉に触れる。先ほどよりも、もう……ずっと下を。
幼い頃より体はずいぶん大きくなったのだ。目当てのくぼみはもっと下の方にある。探り当て、そっと引く。
開かない。幾度も繰り返す。途中でボーグが代わり、やがて扉はゆっくり開いた。
開けたとたん、むっと緑が香る。土と、水と、緑の香りだ。
暗い廊下に、みっちりと草とツタが絡んでいる。
壁も、床も、土が浸食してハーブや雑草が密林のように覆い茂っているのだ。
それを見て、ボーグが大仰に驚いてみせる。
「うひゃ。こいつはすげえ。草まみれだ……なるほど、あの庭の裏がここに繋がってるんですね」
「どちらかといえば、こちらが正門よ」
「それは腕が鳴りますね。こそこそと抜け穴を探るより、正門をこじ開けるほうが俺の好みだ」
ボーグはにやりと笑って腕をまくる。そして腰にぶらさげていた小刀で、太い草の枝を切り刻み進む。
枝を切り、草をはじきとばす。地面に穴などないか身長に足先で探り、ボーグは一歩一歩進む。彼の後を続くマリーは、頭をぶつけないよう必死に身を屈める必要があった。
幼い頃は走り抜けることもできたこの場所は、なんと小さな隠れ家だったことだろう。
「ん……奥にもう一つ、扉がありますね。あれも引き戸ですか?」
「鍵があるわ、ここに」
日記から転がり落ちた鍵はしっかりと握ってきている。それを差しだせば、ボーグは下手な口笛を吹く。
「これは楽な仕事だ」
部屋は暗く狭い。草が覆い茂っているせいで昔よりもまだ狭くなっているようだ。壁に手を突くとぐらぐらと揺れる。けして安全な道ではない。
それでも進むのを止められなかった。
腰を屈めて膝をつくように進めば、ボーグはすでに庭に繋がる扉の前にいる。
彼はどこが鍵穴なのか、すぐに悟ったのだろう。小刀で鍵穴をつついて草と土を落とし、彼は鍵を差し込む。そしてふと、マリーを見上げた。
「先生」
その力強い目が、年相応の笑みを見せた。
「俺、先生の初恋の人が誰だかわかっちまった」
鍵は、あっけなく開いた。
マリーは、転がりそうになりながら、そこに足を踏み入れる。
……思い出より少し小さく見えるその庭は、まるで記憶から抜け出してきたように、そのままだった……あまりにも、そのままだった。
中は外よりも整理をされているようだ。
力強い香り、濃いグリーン、湿った空気、ハーブには花も咲いている、赤や薄紫、ピンクに、オレンジ!
庭の真ん中には昔よりも苔むした巨大な石碑、その向こうには、白いあずまや。白いテーブル。
そのテーブルの上には……なにもない。
「……ああ」
ただ、その横には一人の青年が立っている。
「……マリー?」
その青年は……彼は……記憶の中にあるそのままの声で、マリーの名を呼んだ。
「……マリーなの?」
透き通るような、美しい声で。
「奇跡だ!」
そして叫ぶ。手に持っていた水差しを放りなげて、駆けてくる。祖父の軍服を身に付けた彼は、まるで子供のようにマリーの体をきつく抱きしめる。
シャツから見えた彼の腕は、銀の輝きをもっている。
マリーは唇が震え、もう言葉にもならない。
「なぜ……こんな奇跡が……」
「ジョージの話はいつでも片手落ちだ。ジョージは僕にちょっとした罠を仕掛けていた」
彼は……セージはマリーを抱きしめる手をゆるめ、まっすぐに顔を見つめてくる。
たしかにそこにいるのは、セージなのである。
赤い髪、白い肌。グリーンの瞳。一度も、忘れることなどなかったマリーの思い出の人。
ただ昔と異なるのは、体があることだけだ。
随分と背の高い……かつてのマリーが想像したとおりの立ち姿。思わずその顔にふるえる指を沿わせる。冷たい皮膚だ。最後に触れた時と同じ温度だ。しかし悲しい温度ではない。
「爆発は……」
「したよ」
セージはあっさりと返した。が、その顔に悲しみはない。楽しげにほほえむのだ。
「正確には、僕の中で。あの日僕は、自分で死ぬことを選んだんだ。そうすれば、被害が少なくてすむとジョージの日記にあったからね。やり方は言わないよ、気分が悪くなるといけないから……ともかく自分の抱えたものを、自分の中で爆発させてしまう、というやりかただ」
昔出会った時と同じく、彼は饒舌だった。
セージは興奮が押さえきれないようにマリーの体を軽々と抱き上げて、その場でくるくると回る。まるで、ダンスのように。
ふわふわと足が浮かび上がる恐怖よりも、セージに出会えた衝撃にマリーは必死に言葉をせかす。
「でも、それで、なぜ……」
「そのやり方は、僕に死を与える方法じゃなかった。僕の体と頭を再度くっつけるスイッチになっていたらしい。あの後……馬車の音が遙か遠くに去った後、僕はその恐ろしい方法を選んだ。衝撃があって、僕は死んだとおもったし、目を開けてまたこの庭が見えたとき、混乱した。失敗したんだ……やっぱり周囲を巻き込む方法でしか僕は死ねないんだ、ってね」
マリーは想像する。誰もいなくなったこの庭で一人孤独に命を絶とうとしたこの人のことを。
そして目覚めた混乱を。
「そのあと、気づいたんだ。僕の視線が高くなってることに。これまで動かせなかったものが動かせる。自分だけで動ける」
セージは掌を大きく開き、握る。鋼鉄でできたその体は、まるで生きたもののようにやすやすと動く。
「よくみたら、僕に体がついていた……もちろんすぐに動けるようになったわけじゃない。随分と苦労もした。何年もかけて、僕は立つ練習をして歩く練習をして……小さな子供が大人になるように……そして僕は、今ではこんなふうに、じゅうぶんに体を動かせるようになった」
「……なぜ?」
「石碑の苔を落として……そこに謎は書いてあった」
セージは庭の中央に位置する石碑に目線を送る。もう、そこは音の一つも奏でることはない。
マリーは確信した。この石碑は、セージの体に命を送り続けるための、何らかの装置だったのだろう。
それはセージの体に繋がっていた。この石碑の音は、セージの心の声でもあったのだ。
「もう、今じゃ文字はかすれてみえないけれど……これはジョージの作戦だったんだ。僕に仕込まれた爆弾は本当だった。いつか爆発することも本当のこと。自殺の方法も本当のこと。でも、この自殺には、秘密があった」
「秘密?」
「僕の中の悪意や……兵器としての心が消え去って、善意が育っていれば……きっと誰にも迷惑をかけないように一人で死のうとするだろう。それが頭の中の爆弾を無効化する唯一の手段であり、体と、頭をくっつけるスイッチなんだ。つまり、僕は生き残ることができる」
ボーグは二人をぽかんと、見つめている。セージの腕から見えた銀の輝きに驚いたのだろう。彼の持つ体は、明らかに人のものではない。
しかしボーグはや何も言わずその場に座り込み、二人の話にじっと耳を傾けている。
「そもそも兵器としての僕なら、自殺は選ばない。そうなれば、時がくれば僕は死んでいた。この屋敷と一緒にね。もちろんジョージが僕に命じてくれてもよかったんだけど……でもジョージと出会った頃の僕は不安定で、本当のことを言えば暴走する可能性だってあった。あまりにも不安定な装置すぎるから、僕が自身の意志で、死を選択する必要があった」
祖父の抱いた不安と悲しみと苦しみはどれほどのものだったのか。マリーは想像する。
それでも、セージを救いたいという意志だけは揺るがなかった。
「ジョージは自然と僕の善意が育つことに、賭けたんだ。だから君と僕を会わせることを考えていた……危険をおかしてまで、この屋敷の中に僕を置いた理由がそうだ。君は屋敷から出られないから」
「私と出会わせる……?」
「だって、僕は君と出会えば、必ず君に恋をした」
セージの瞳がマリーを見つめてほほえむ。
「そして、君が僕に出会えば、必ず僕に恋をする」
冷たい掌が、マリーの頬を包んだ。
「君を守るために、きっと僕はなんだってする……ジョージは、全てをそこに賭けたんだ」
マリーはセージの腕をつかんだまま、目を閉じる。
かつて祖父が口を酸っぱくして言っていた『マリー勇気を持ちなさい』。
祖父はきちんと、セージが生き残る手段を残していたのだ。
そして祖父の仕事は、彼の善意を育てることだった。怒りを持てば彼はただの殺人兵器に戻ってしまう。
だからこそ本を与えた、庭を与えた、美しい風景と香りと知識と物語。
それでもそれは、ただの対症療法でしかない。
だから祖父は、いつかマリーが彼に出会い謎を解くことを期待した。
「私と出会わせて……二人で謎を解いて……」
「君に出会って謎を知れば、僕は自分で死ぬことを選ぶ……選んだ」
「爆発物は?」
「消えた」
にこりと、セージはほほえむ。
「消えたんだよ、マリー。そして、僕の体が……それはもちろん、生きていた頃の体とは異なるものだけど……帰ってきた」
「なぜ……おじいさまは、先に言ってくれなかったのかしら」
マリーは幼い頃から、幾度も祖父のことばかり考えている。祖父に近い年齢になった今も、彼の気持ちを完全に理解することは難しい。
ただ、この年になって思うのだ。
死というものが親しい隣人になると、却って死の足音に鈍感となる。まさか自分が明日死ぬとは思わず、時間ばかりをかけたがる。
「おじいさまは、すべて片手落ちね。先に亡くなってしまったことも……私たちが屋敷を捨てる羽目になることも、すべて想定できていなかっただなんて」
ボタンが掛け違ってしまったのだ。
いつか、マリーはケイトにそういった。その通りだった。すべては少しずつずれていき、そして悲しい別れとなった。しかし、ゆるやかに、ボタンはもとの場所に戻ろうとしている。
「私はあなたが死んでしまったと思いこみ、二度とこの屋敷に戻るまいと決めたの」
「僕は君が遠いところに去って、二度とここに戻ってくることはないだろうと思っていた」
「ほら、掛け違い」
マリーはセージの額に自身の額を押しつけて、笑う。笑う先から涙がこぼれる。この庭で何度泣くはめになるのだろう。しかし、うれし泣きは初めてのことだ。
「ねえ。セージ」
セージの目を見据えて、マリーはゆっくりと、祖父の声色をまねる。
「……ハロー、私の……大切なひと。お目覚めの気分はいかが?」
「その……言葉は……」
いつか、祖父がセージに向かって話しかけた最初の言葉。マリーは彼の頬を両手で包む。
セージは驚いたように目を見開いて、そしてその目の縁に、一滴の涙を浮かべる。
彼の涙は、まるでハーブに浮かぶ朝露のよう。それは昔からひとつもかわっていない。
「言ったはずよ。私はけして、あなたの言葉を一文字も忘れない。絶対に。おばあちゃんになっても……本当に、こんな、おばあちゃんになってしまったけれど」
「そんなこと。マリーはいつでもすてきだ」
セージは首を振り、今度はゆっくりと両手でマリーの体を抱きしめた。
鋼鉄の体から、じんわりと冷たさが広がる。しかしそれはすぐに暖かさにかわった。
「……やっと君を自分の手で抱きしめることができる」
「セージ。あのときのお話の続きを、聞かせて」
「ね。先生。壮大な物語がありそうですね」
すっかりあきれたように、ボーグがいう。振り返れば、彼は苦笑して二人を見上げていた。
「それは、どんな物語なんです?」
「ええ。とても一日や二日じゃ話切れない物語がね」
「聞かせてくださいよ。先生。そのセージって人からでもいいや」
ボーグは足を投げ出し、すっかりくつろいだ風だった。
落ち着いて周囲を見渡せば、庭はあのころよりもずっと整っていた。
窓が破れているので、光が前よりよく入るのだろう。ハーブには花もついているし、花壇のように整えられてもいる。
そのハーブの一本を嗅ぎながら、ボーグが口をとがらせる。
「俺はいいところで物語を止められて、その先がずっと気になって仕方がないんだ」
ボーグには、少しずつ物語を聞かせていた。しかし、それも途中まで。物語は、まだ終わっていないのだ。
「……続きは君が考えたんじゃないの?」
「あなたほど良いお話が浮かばないのよ」
セージがマリーの首筋に頬をあてて、笑う。
「じゃあ、一緒に考えよう。そしてその子に聞かせてあげよう」
しっかりと抱きしめられた腕の中、草と土の香りにつつまれた秘密の庭の中、マリーは目を閉じる。ハーブの香りを胸いっぱいに吸い込み、庭に咲き揺れる、赤い花をみる。
マリーは確かにこの庭へ、帰ってきたのだ。




