14.氷の魔王、現る
真と一之瀬は並んで歩いていた。さっきまで放心状態だった真も調子を取り戻したようで、お互いの間には和やかな雰囲気が流れている。ちらりと一之瀬が隣に視線をやり、口を開いた。
「良かったですね。千里ちゃん、無事お家に帰ることができて」
「うん。千里ちゃんのお兄ちゃんも借りてたゲームを返しに友達の家に行っただけで、千里ちゃんとの約束を忘れたわけじゃなかったみたいだし。仲直りできて良かった」
いなくなった妹を探しに家を飛び出したところに、真たちがちょうど出くわし、行き違いにならずにすんだ。仕事から帰って来ていた母親に感謝の言葉を尽くされ、そして有名人である一之瀬に気づき、サインまで求められたのを律儀に応えて。千里たちと別れを済ませ、二人はお昼ご飯へと再び釜飯専門店に向かう。
「そういえば真さんもお兄さんたちと仲が良いですよね。頻繁に連絡を取り合っているようですし」
明るい表情の一之瀬とは対照的に、真の顔が渋いものになる。
「仲が良いなんて言われるほどじゃないよ。こっちの大学に入る条件として、週に1回は皐月お兄ちゃんと真也お兄ちゃんに近況を綴ったメール最低200字以上を送らなきゃいけなくて。1度でも忘れたらこっちまで来るからなって脅されてて」
「とても大切に想われているんですね。僕もお兄さん達の気持ち分かります。もし真さんが僕の妹だったら、そうしますよ、きっと」
「いやいや、行き過ぎた監視もどうかと思うけどな……ん?奈緒子から電話だ」
ショルダーバッグから震え続ける携帯を取り出した真は一之瀬に一言侘びをいれ、携帯を操作する。
「もしもし、奈緒子?」
〈ああシン。ごめんね、一之瀬君と熱い愛を育んでいるところに水を差すようなことしちゃって。もしやキスの邪魔しちゃった?〉
「ば、馬鹿!変なこと言うな!そんなことするわけないだろ!」
からかい混じりの奈緒子に対し、顔を真っ赤にした真は怒鳴りつけた。突然の怒声に驚いている一之瀬にハッとし、何でもないと取り繕って声を潜める。
「で、何の用だよ」
〈そうそう。さっきね、真にお客さんが来てるって管理員のおばさんが電話かけてきて〉
「あたしに客?誰?」
〈それが……〉
女子寮の管理員室にいたおばさんは『女子寮に何か用かい。ここの寮生の父兄かい?』と現れた来訪者に受付へと顔を出して尋ねた。
来訪者は柔和な顔つきで微笑み、丁寧に挨拶をした。
『こんにちは。真がお世話になっています。お礼にとはなんですが、これフランスの美味しいお菓子なので、ぜひ召し上がってください』
菓子折り持参で面会に来る学生の家族はめったにいないらしく、機嫌よく受け取ったおばさんは真と奈緒子の部屋に電話をかけて呼び出そうかと言った。女子寮に外部の人間を入れることは例外を除いて禁止されているからだ。了承した来訪者に少しの間そこで待つように伝え、おばさんは電話をかけた。
その時、部屋にいた奈緒子が『真なら今出かけていますけど』と言うと、
『あ、そうだったそうだった。真ちゃん、今日はデートだったね。忘れてたわ』
おばさんは陽気に笑っていた。年を取るとあちこちにガタがきて物忘れがひどくなる、これだから若い人が羨ましいなどと小言を言いながら振り返る。
だが、
『あら?』
そこにいたはずの来訪者が、忽然と跡形もなく消えていた。
まだ電話中だった奈緒子がおばさんに来訪者の外見について尋ねると心当たりのある人物がひとり思い浮かんで真に連絡したというわけだ。
「嘘だろ、まさか……」
「真さん?」
今度は顔が真っ青になった真に、一之瀬が心配そうに声をかけた。
〈というわけで逃げた方がいいかもめ。今頃、血眼になって街中走り回ってシンのこと探してるよ。一之瀬君、死なないといいね〉
語尾に星マークがつきそうなほど軽い調子の奈緒子に、携帯を折れるくらい握り締めて叫ぶ。
「死なないといいね、じゃねーよ!他人事だと思っ……切りやがった。くそっ」
携帯をショルダーバッグに押し込んだ真は一之瀬の手を掴み、ヒールのある靴を履いているのにもかかわらず勢いよく走り出した。
「うわっ!真さん、いきなりどうしたんですかっ!?」
「いいから走って!店、どこにあんの!」
「え、えっと、次の角を右に曲がってすぐです!」
「よっしゃぁ!逃げるが勝ち!」
逃げるって何からです、という疑問に答える隙も与えられず、有り得ない速さで走る真についていくのが精一杯だ。
角を右に曲がり、出会い頭に散歩中のおじさんと衝突しかけて何とか回避し、看板を通り過ぎて残り数歩。
到着したも同然。安堵したその時だった。
「やあ。久し振りだね、真」
それは優しくも穏やかな声が前方から届いた。店の入り口を塞ぐかのように、人が立っている。
「ちくしょう!」
「真さん?」
急ブレーキをかけ、悔しがる彼女に一之瀬が首を傾げ、顔を向ける。
そこにいたのは一之瀬より4、5cm背が低く、色素の薄い髪を襟足まで伸ばして下ろしている20代後半の男だった。細い体格をしていて、整った顔と肌の白さに中性的な魅力を感じさせた。
「しばらく見ないうちに随分女の子らしくなったんじゃない?真がスカートだなんて、高校の制服以来だよ」
男はにっこりと微笑みながらこちらに歩み寄ってくる。真は険しい顔で後ずさった。
「真さん、僕の後ろに隠れてください」
とっさに一之瀬は真を自分の背後に庇った。その光景に男はすうっと目を細め、足を止める。
「そちらの君は……真の何?」
「あなたこそ、彼女に何の用ですか」
氷のように冷え切った視線を向けても毅然とした態度を保つ一之瀬に、男は「へぇ……」となぜか感心する素振りを見せた。
一之瀬が警戒して見守る中、男は口元に笑みをたたえ、大きく踏み出した。眉目秀麗な顔が間近に近づき、体を引いて身構える。それに構わず、男は一之瀬の耳元に口を寄せ、囁いた。
「僕は可愛い妹に会いに来ただけだよ、一之瀬夏クン」
「どうして僕の名前を……え、妹?」
「初めまして。君のことは文月達からそれなりに聞いているよ。僕は真の──」
ひゅんっ、と風を切り裂く音がしたのと同時に、一之瀬の顔の横から白い何かが飛び出してきた。
「えっ!?」
顔面に直撃するかと思われたのを見事な反射神経で男が受け取る。それは真の携帯だった。
「危ないじゃないか、真。他の男はどうでもいいけどお兄ちゃんには物を投げたらいけないって、皐月兄さんにも言われてたはずだよね?」
「知るか!一之瀬君に近づきすぎだ!それよりなんでここにいるんだよ、真也お兄ちゃん!」
「お兄ちゃん?」
怒りを露にする真に、目を丸くする一之瀬に、男は無邪気に笑った。その表情は真にとてもよく似ている。
「改めまして、真の兄の佐伯真也です。よろしくね」
そう言って差し出された手を一之瀬は取ろうとしたが、真也が続けて言った。
「……で、君は真とどんな関係?」
その瞳は笑っていなかった。




