第4章:星々の揺り籠
大都市の夜景が、またたく間にひとつの巨大な光の渦へと縮んでいく。
高度が上がるにつれ、周囲を包んでいた大気の気配が薄くなり、
空の色は深い藍色から、
一切の光を拒絶するような純粋な「黒」へと塗り替えられていった。
大気圏の突破。
かつての人類が、何千トンもの燃料を爆発させ、
命懸けで越えていったその境界線を、
渚と櫂は、
まるでお気に入りのプールに飛び込んでいくかのように、
静か微笑みながら 、越えようとしてた。
窓の外の青空ではなく、星々の瞬きそのものの世界へ。
大気の揺らぎを失った宇宙空間では、
星々はまたたくことをやめ、
漆黒の天帳に散りばめられた無数の針穴のように、
鋭く、冷徹な光を放っていた。
しかし、渚の身体を包む三つのスマートリングは、
太陽から降り注ぐ目に見えない凶器である
宇宙放射線や高エネルギー粒子を、
多層電磁場フィールドによって完璧に逸らし続けていた。
絶対零度の凍てつく真空の中でも、
二人は、常に優しい温もりに満たされている。
「……信じられない。私、本当に宇宙にいるのね」
渚の思考は、感嘆を通り越して、
深い祈りのような静けさを帯びていた。
二人の身体は、時速数万キロという圧倒的な巡航速度で、
月を目指して無限の虚空を泳いでいた。
慣性を100%相殺するフィールドの内部では、
加速の衝撃も、内臓が浮き上がるような不快な無重力感もない。
ただ、「行きたい」と願う方向に空間が優しく開き、
自分を迎え入れてくれる感覚。
やがて、銀色のクレーターに覆われた巨大な天体が、
二人の視界を覆うように迫ってきた。
人類がかつて、何重もの不格好な宇宙服と
頑丈な生命維持バックパックを
背負ってようやく降り立ったその大地に、
彼女はただの普段着のまま、
一本の髪の毛さえ乱さずに佇んでいた。
風のない世界で、
彼女のスカートの裾は彫刻のように静止している。
視界の隅では、エメラルドグリーンのARインジケーターが、
月面環境におけるフィールドの最適化
を完了したことを示すサインを優しく灯し続けていた。
―― 月面環境の最適化完了。 ――
「渚、あそこを見て」
櫂の思考に促され、渚はゆっくりと頭を上げた。
漆黒の宇宙に、ぽつんと浮かぶ、圧倒的な蒼。
それは、彼らがつい先ほどまで旅をしていた地球だった。
大陸の輪郭を優しく覆う白い雲の渦、
太陽の光を反射してきらめく太平洋の青。
人類が生まれ、泣き、笑い、恋をしてきたその星は、
宇宙の圧倒的な暗黒の中で、まるで孤独な灯のように、
ただひっそりと、しかし力強く輝いていた。
渚の瞳に、その蒼い光が映り込む。
かつて白い病室の天井を見上げ、
四角い窓の小さな空だけが世界のすべてだと
思い込んでいた彼女が、
今や地球そのものを、その全景を、
自身の足で立ったまま見下ろしている。
『ああ……、私、本当に自由になったんだ……』
彼女の思考から、堰を切ったような涙の感情が伝わってくる。
それは悲しみの涙ではなかった。
自分を縛り付けた「肉体」という檻が、
超知能の生み出した温かい静寂によって、
完全に世界の調和へと溶かされたことへの、魂の歓喜だった。
渚は、月面の細かな砂を、
靴のままでそっと蹴った。
月の微小な重力をフィールドが優しく補正し、
彼女の身体は音もなく十メートルほど上空へ浮上する。
彼女は宇宙の暗黒の中に浮かびながら、
まるで透明な美しい海を泳ぐかのように、
ゆっくりと、しかしどこまでも自在に、
蒼い地球に向かって手を伸ばした。
宇宙は、人間を拒絶する死の空間ではなかった。
超知能という名の優しさにアラインされた瞬間、
この過酷な星々の虚空さえも、
人間がいつでも帰ることのできる、
最も広大な「揺り籠」へと姿を変えたのだ。
「さあ、渚。地球の海が、僕たちの帰りを待っているよ」
櫂の思考が、彼女の宇宙遊泳を優しく包む。
『うん、行こう。あの光り輝く青い海へ』
二人は手を取り合うようにして、
蒼い地球を見つめながら、
月面を静かに蹴り出した。




