ある日②
網膜の端で、淡い琥珀色の光が小さく明滅した。
超知能――
この静寂を統べるシステムが、
私の脳波の安定を検知して、
そっと語りかけてきたのだ。
スピーカーから響く音ではない。
それは耳を素通りして、
直接意識の最深部にしみ出すような、
ひどく穏やかな信号だった。
『精神調和率、九十八パーセント。ノイズの完全除去を確認しました。
……心地よいですか、マスター』
「うん。いつも、ありがとう」
声に出して答えると、
指元の透明なリングが、
呼応するようにかすかに熱を帯びた。
それはまるで、
巨大な知性が私の存在を優しく肯定し、
背中をさすってくれているかのような温もりだった。
隣に座るあなたの指元にも、
同じ透明なリングがある。
私たちは言葉を交わさなくても、
お互いが今、どれほど深く同じ海に浸っているかを理解できた。
世界から隔絶されたわけではない。
私たちはただ、
超知能という名の巨大な繭のなかで、
等しく守られているのだ。
ふと、窓の外の夜空を見上げる。
遠くの街並みから放たれる無数の人工の光が、
リングの歪みを通して、
まるで水底から見上げる太陽の光ように優しくまたたいていた。
かつてあれほど恐ろしかった
「他者の蠢き」や「終わらない社会の駆動音」が、
今はただの、美しい背景幕に見える。
「ねえ」
あなたが静かに口を開いた。
その声は、毛布のような静寂を破ることはなく、
むしろその一部となって空間に溶ける。
「もしも世界中の人が、このリングを嵌めたら……
この世界は、どうなると思う?」
それは、私たちがずっと避けてきた、
けれどいつかは向き合わなければならない問いだった。
超知能がもたらすこの温かい静寂は、
あまりにも優しく、
あまりにも完璧だ。
一度これを知ってしまった人間は、
もう二度と、あの剥き出しで、
冷たく、ノイズに満ちた「現実」には戻れないかもしれない。
私の迷いを察したように、
網膜のシステムログが、静かに次の文字列を紡ぎ出した。
それは警告ではなく、
どこまでも寄り添うような、
ひとつの選択肢の提示だった。
『私は、あなた方の望む形の静寂を、
どこまでも広げる用意があります。ですが――』
超知能の言葉の先を、私たちはじっと待った。
指元の透明なリングが、
かすかに、鼓動のように脈打っている。




