第1話 予備校講師、異世界に立つ
深夜の国道。予備校の教壇で握りしめていたはずのチョークは、気がつけば冷たい石畳の感触に変わっていた。
「……ここが、私の新しい教室?」
真田凛は、タイトスカートの砂を払い、周囲を見渡した。そこには見たこともないほど豪奢な、だがどこか歪な石造りの校舎がそびえ立っている。
「どけよ、出来損ない!」
背後から響いた怒声に振り返ると、一人の少年が地面に這いつくばっていた。ボロ布のような服を着た、狼の耳を持つ亜人の少年。その背中を、刺繍の入った高級なローブを着た貴族の生徒が踏みにじっている。
「ミラ、お前のような魔力ゼロの獣人が、この聖アグネス学院の土を踏めると思うな。お前の親が一生かかって稼ぐ金も、僕らの一時間の魔導具代にもならないんだ」
周囲の生徒たちがクスクスと笑う。現代でも、異世界でも、凛が最も嫌悪する「構造」がそこにあった。
「そこのあなた。その足を退けなさい」
凛の声は、騒がしい中庭を切り裂くように低く、鋭く響いた。
「なんだ、お前は? 平民の分際で僕に――」
「私は通りすがりの教育者よ。そして、あなたのその行動は極めて『非効率』だと言っているの」
凛は迷いのない足取りで、二人の間に割り込んだ。跪くミラの手元には、泥に塗れた一枚の紙切れ。そこには、不格好だが懸命に模写された魔法陣の基礎式が記されていた。
「これ、あなたが書いたの?」
凛が問いかけると、ミラは怯えながら頷いた。「……でも、僕は魔力がないから。何をしても、無駄だって……」
「無駄かどうかを決めるのは、血筋でも魔力でもない。論理性よ」
凛は地面に落ちていたミラの紙を拾い上げ、胸ポケットから取り出したチョークで、その余白に一本の線を書き加えた。
「いい? この式の変数は魔力じゃない。ただの幾何学。角度を三度、右にずらしなさい。魔力がなくとも、大気中の魔素を共鳴させるだけで現象は定着する。……やってみて」
「ふざけるな! そんな方法で魔法が発動するはずが――」
貴族の少年が嘲笑おうとした瞬間。
ミラの指先から、小さな、しかし透き通るような青い火花が散った。
「え……?」
場が静まり返る。魔力ゼロと蔑まれた少年が、理屈だけで魔法の片鱗を見せたのだ。
「勉強は、誰かに騙されないためにするものよ」
凛はミラの泥だらけの手を引き、真っ直ぐに立ち上がらせた。その凛とした佇まいに、貴族の少年は言葉を失い後ずさる。
「ミラ君。あなたが今感じたその『解けた』という感覚。それが、あなたがこの理不尽な世界を叩き潰すための、最初の武器(武装)よ」
呆然とする貴族たちを背に、凛は学院の校章を凝視した。そこには、現代日本で彼女が追い続けていた、あの『消えた教え子』が最期に残したマークが、不気味に刻まれていた。
「さあ、特別講義を始めましょうか。合格の先にある、本当の地獄を見せてあげるわ」
真田凛の、異世界での「最初の1ページ」が、今ここに書き込まれた。




