第4話・君は女神様。
フェンス越しに駆けてきた女子生徒は、アイドルか、それともお嬢様か……
アッシュの縦ロールがうねって、胸の上にのっかっている。
スゴミは擁壁ブロックに足をかけ、野球ボールを掴んだ手をフェンスへと近づけた。女子生徒も受け取るためにフェンスに手をかけ、しゃがみこんで手をねじこんでいる。スゴミは近づいた女子の足を、濡れて透けた体操着を眺めていた。
ボールを手渡す瞬間、指先が手のひらに触れる。その感触に顔がにやけ、崩れそうになるのを必死に抑え込む。自分が気持ち悪いと自覚できていた、細い指先に視線を合わせていると、女子が話しかけてきた。
「あれ? もしかして、クヅカ君?」
ハッとして顔を上げた、女子の近距離で目が合う、しかし知らない顔だった。
「えっと……」
「やっぱりそうだよー! クヅカ君だ!」
なぜか覚えられている。しかし、とりあえず名前が間違っていた。
「クヅカじゃなくて、ヒサヅカです。久しい、石塚の塚で、久塚です。クヅカって読めるんで、間違われますけどね。」
「あっ! そうだったんだぁ! ごめんね! 珍しい名前、初めて知ったよぉ!」
「まあ…そうですよね。」
「私、覚えてる? 姫神だよー! 中学一緒だった!!」
覚えているわけがない。言葉も出ない、何しろ僕は……
「ああ、ええと……」
「あ、ごめん! 覚えてるわけないよね。だってヒサヅカ君、学校……あっ……」
口が滑ってから気づくヒメガミさん。
でも、こんな子が自分を覚えていてくれて、話しかけてくれる。今日はいい日かもしれない。
「気にしなくて、大丈夫ですよ。」
───ここは一歩、歩み寄る。
すると途端にヒメガミさんの顔が明るくなった。
「学校、来てなかったもんね!!」
容赦ないストレートパンチが炸裂した。
僕は小学二年の夏にイジメにあってから、九年間、学校に行ってない。
イジメのあだ名が『クズ・カス・ゴミ』だった。
久塚をクヅカと読むと、綺麗に『久塚 スゴミ』になるからだ。なので、クヅカと呼ばれるのは反射的に訂正したくなる。
「ヒサヅカ君って、有名人なんだよ! 卒業の集合写真で四角い枠の中の人ってね! 私、それで覚えてたの!」
悪気のない言葉のラッシュが、グサグサと突き刺さる。「大丈夫」と言ったら、本当に容赦がなかった。欠席枠で有名人とは笑えない。いや、逆に乾いた笑いが溢れ出てくる。
「はは、なんだか……ミイラ取りがミイラにされた気分っすねぇ。」
「え、ミイラ……? お化け屋敷? もしかして、肝試しの話かな!?」
「まあ……そんな感じかも」
やばい、話が噛み合わなすぎる。出過ぎた真似は怪我の元、イジメの原因もそれだった。今日は出過ぎた真似をしてしまった。すぐにでも帰りたい。
話題を逸らそう。
「そういえば、そのボールって、フェンス通らないですよね?」
ヒメガミさんの手に収まるボールを指さした。
「あれ? そうかな、そうかも!」
ボールが通らないのは知っていた。学校のフェンスはボールが飛び出さないように設計されている。そんなことは分かっていた。 ただ、この子を近くで見たくて手渡しに変えたんだ。
これは自分が蒔いた種。
そして会話が芽吹き。
綺麗な地雷に成長してしまった。
それだけの事だ。
「やっぱり上から投げますよ、一度もらいます。」
「そうだね! お願いしまーす!でもそれ、うちの学校のボールじゃないかもね!」
「そうなんですか?」
ボールを彼女の手から受け取った。ボールを眺めてみる。赤い縫い目の普通の野球ボール。
「うん、うちのボール、赤い糸入ってないし!でも良いよ、気にしないで!たまに混ざってるし!」
「そうだったんすね。」
ボールを投げ入れて去ろうと顔を上げると、さらに話しかけられた。
「そういえば、ヒサヅカ君って、高校はどこに行ったの?」
「ああー……多分、ここっすね。」
目の前の校舎を指さした。元々通う気はなかったけど、席だけ入れた。入学式だけは出た。緊張で潰れそうになって、教室に行く前に帰った。
ヒメガミさんが目を丸くする。
「ええー! そうなの! 一緒だよー! 私もこの高校なだよ!」
……それは見れば分かります。
とは言わない。この子は何か抜けてるけど、とにかく優しい。トゲのあることを言いたくなかった。
「それは奇遇ですね。」
「うん、奇跡だねー!」
その時、後ろから別の女子の声が飛んできた。
「ねぇー! マリアン! なにしてんのぉー?」
ヒメガミさんは振り返り、声を上げた。マリアンは多分あだ名だろう。
「あ! ごめん! 戻るねー!!」
そのまま、また振り返り、僕と目を合わせる。
「ごめんね! 私は戻るから! ボールは投げといて! あと、ヒサヅカ君も、また学校おいでよ!」
「はあ、善処します。」
スゴミは頭をかきながら返した。
「ぜんしょ? よいしょみたいな感じだね!」
グッと両手でガッツポーズを取るその笑顔は、何を言ってるか分からないけど、とりあえず可愛い。
「じゃあ、またね!」
そして振り返り、走り出そうとしていた、スゴミの目はその透けた背中を横切る赤いラインと、お尻に誘導されていた。そしてヒメガミさんが上だけ振り返る。
「あと......じろじろ見てると、女子は気づいてるからねぇ!」
その一言にドキッとした。どこからどこまで見透かされてた?
「は、はいっ! すみません……!」
目は合わせられない。
「大丈夫だから、気にしないで! 学校で待ってるね!」
そう言うと、校庭の奥へと駆けていった。
手に握った紙袋を見下ろす。袋の中の暗闇で、天使の姿をしたフィギュアが動かない笑顔を続けていた。
ポツリとつぶやく。
「ヒメガミさんか……女神様って、天使より格上なんだっけ?」
ボールを投げる構えを取る。肩が少し、軽くなった気がした。
「だったら......よいしょ!みたいな感じで!」
腕を振り、ボールを手放した。
多分それが、スイッチだった。
投げ込んだボールは思い通りの軌道を描いて、真っすぐ校庭の奥に消えていく。それを眺めていると、全ての音がなくなって、視界が七色に歪んだ。
「あれ、熱中症!?」
目眩がしたような感覚だったが、すぐに収まる。そして顔を上げると、フェンスの上に人が立っていた。
白い髪をなびかせて、極彩色の羽を持ち、空の光を歪める天使さん。その圧倒的な存在感に気圧されて、呆気に取られていた。
「すごい…...綺麗だ...…」
そして天使さんの虚空の自己紹介が幕を開けた。
「こんにちは! 君の天使さんの、登場だよ!!」
そして、僕が帰れない物語の始まりを、宣言されてしまうのだった。