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あの……天使さん、もう帰っていいっすか? ‐天使に主役を指名されたけど、戦いたくないので帰ります‐  作者: 清水さささ
第1章・始動編

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第2話・君は女神様

 彼女へと、右手を伸ばしていた。


 フェンス越しに駆けてきた、体操服の女子生徒。


 その容姿はアイドルか、お嬢様か。

 アッシュ色の縦ロールがしっかりと胸に乗っている。


 僕は高校の外周の擁壁ブロックに足をかけ、野球ボールを掴んだ右手をフェンスへと近づけていた。


「あっ! 今受け取りますね!!」


 女子生徒はフェンスに指をかけてしゃがみこむ、胸から髪がバネのように滑り落ち、たっぷりの水滴が空中に舞った。


 彼女の白い手が、花のツボミのように網目にねじ込まれ、僕の目の前でヒラリと開いた。


 これは僕にとって超常現象だった。

 僕がここまで女子と接近するなんて、ありえない事だった。

 直視したい欲望に抑えが効かず、手を見るフリしてその先に目を細める。


 やってる事が気持ち悪い。


 それは分かってる。


 ボールを手渡す瞬間に指先が触れ、顔がにやけそうになるのを、口を結んで必死に抑え込む。


 これ以上はイケない。


 取りきてくれたこの子に悪いと思い、その指先から視線を逸らし、擁壁にへばりつく苔を眺める。



 すると、女子が話しかけてきた。


「あれ? もしかして……クヅカ君?」


 違和感を覚えて顔を上げた。

 雑誌の表紙のような、キョトンとした瞳が、僕に視線を集めている。

 在学アイドルと言われても疑わないような良く出来た分かりやすい顔。


 彼女は僕の名前を確認したが、彼女は初めて会う人だ。明確に知らない顔だった。


「ええっと……?」


「やっぱりそうだよー! クヅカ君だ!」


 なぜか覚えられている。

 こんな可愛い子が話しかけてくれていること自体が異常だったが、実際のところ嬉しい。


 ただ、名前は間違っているので先に修正した。


「あの……僕はクヅカじゃなくてヒサヅカです。久しい石塚の塚で、久塚ヒサヅカです。クヅカって読めるんで、よく間違われますけどね」


「あっ! そうだったんだぁ、珍しい名前だから初めて知ったよ。ごめんねえ!」


 彼女は屈託の無い笑顔で軽くあやまった。

 謝罪と言うよりは、好奇心が満たされて喜んでいるように見えた。


「まあ……そうっすよね。間違えて当然だと思いますよ」


「私のこと覚えてる? 姫神ヒメガミだよ、中学で一緒だったよね!」


 その問いに対して僕は言葉を失った。


 何も返せない。中学が一緒?

 絶対に覚えているわけがない。


「ああ、ええと……」


「そっか、覚えてないよね。だってヒサヅカ君って学校……あっ!」


 彼女はペラペラと次から次へ話を進めようとしてくる。

 そして結果、口が滑ってから失言に気づくヒメガミさん。


 少し気まずい空気だ。


 でも、今日はこんな子が自分を覚えていてくれて、しかも話しかけてくれている。


 今日はいい日だ。

 今日は何かが起こる日なんだ。

 こんな機会は、きっともう無い。

 だから一歩で良い。

 歩み寄る勇気をもって話しかけるんだ。


「あの……別に気にしなくて、大丈夫っすよ」


 ひとつ、許した。


 すると彼女の顔はパァっと明るくなり、今度は遠慮なく一言を放った。


「しょうがないよね、ヒサヅカ君って、学校に来てなかったもんね!!」


「ははは……そうっすね」


 それは想定の威力を越えた容赦ないストレートパンチだった。


 彼女の言う通りだった。

 僕は小学二年の夏にイジメにあってから今日まで九年間、学校に行ってない。


 原因は単純だった。

 友達をイジメてる奴がいたから、助けるために殴りかかった。

 そして報復を受けてボコボコにされてからイジメられた。

 イジメられた時、主犯格がつけた僕のあだ名は『クズ・カス・ゴミ』だった。


 僕の名前は久塚ヒサヅカ 凄巳スゴミ

 久塚をクヅカと読むと、綺麗に『久塚クヅカ スゴミ』になる。

 それは僕にとってのトラウマの記憶だ。なのでクヅカと呼ばれると反射的に訂正したくなる。


 僕は過去の傷をえぐられた気分だが、ヒメガミさんは、新しいオモチャを貰った子供のようなテンションだった。


「ヒサヅカ君ってね、有名人なんだよ! 卒業の集合写真で四角い枠の中の人って紹介されててね! 私はそれで覚えてたの!」


 一切の悪気のない言葉のナイフが、グサグサと胸を突き刺さしてくる。

 欠席枠で有名人なんて、完全に奇人枠じゃないか。


「はは、楽しそうで良かったっすよ。なんか、ミイラ取りがミイラにされた気分っすけどね」


「え、なになに、ミイラ……!? お化け屋敷好きなの? もしかして、肝試しの話!?」


「まあ、そんな感じかも」


 つい出てしまった皮肉の一言。

 しかし話が噛み合わなすぎて皮肉だと気づいてすら貰えない。


 そんな話のすれ違いに、二人だけの会話なのに居場所を見失い始めていた。


 出過ぎた真似は怪我の元。


 良かれと思って行動して裏目にでる。

 それが僕だ。僕の人生だ。

 ずっとそうだった。いつもそうだった。


 イジメの原因も、元はと言えば僕が出しゃばったのが悪かったんだ。


 左手に握った紙袋に向かって目を逸らすと、袋の入口から天使フィギュアの羽の部分だけがちらりと見えた。


 僕には、帰るべき場所がある。早く帰ろう。

 土の中で眠るセミの幼虫のように人目につかず生きよう。


 彼女にボールを手渡すポーズのまま時が止まっていた。

 この高さが、僕には高過ぎる。


 僕の話から話題を逸らそう。


「そういえば、このボールって、フェンス通らなそうですね」


 二人の手の中にありながら、どちらの手の中にも無いボール。

 渡す途中で話しかけられて、どっちが持ってるのかも曖昧なままだった。


「あれ? そうかな、そうかも!」


 僕は元々、ボールがフェンスを通らないのは知っていた。

 学校のフェンスはボールが通らないように設計されている。そんなことは分かっていた。


 ただ彼女を近くで見たくて、手渡しに誘ったんだ。


 これは自分が蒔いた種。

 それによって彼女との会話が芽吹いた。

 そして綺麗な地雷が咲き誇ってしまった。


 自業自得。

 ただ、それだけの事だ。


「やっぱり僕が上から投げますよ、一度もらいますね」


「そうだね、お願いします! でもそれ、うちの学校のボールじゃないかもね!」


「そうなんですか?」


 ボールを彼女の手中から引き戻した。

 右手の中には赤い縫い目の普通の野球ボール。

 ヒメガミさんは、しゃがんだままボールを指さした。


「うちのボールは赤い糸は入ってないからね。でも気にしないで、たまに違うの混ざってるし、赤い糸って運命っぽくて縁起良さそうだもんね」


「そうだったんすね」


 運命か。


 確かにこんな無邪気で可愛い子とお話しできたのは奇跡的な幸運だったかもしれない。


 ボールを投げ入れて帰ろう思い顔を上げると、ヒメガミさんはフェンスの網目に指をかけて停止、さらに話しかけられた。


「ねえねえ、ヒサヅカ君って、高校はどこに行ったの?」


 高校……


 元々通う気はなかったけど、席だけは入れてあった。それによって寮室という完全無敵空間も手に入れた。


「ああ……多分、ここっすね」


 僕は目の前のフェンスの向こう、ヒメガミさんの背中にそびえる校舎を指し示した。

 入学式にだけは出た。緊張で潰れそうになって教室に行く前に帰った。


 それを聞いてヒメガミさんが目を丸くする。


「ええ、そうなの? 一緒だよー!  私もこの高校なんだよ!」


 フェンスの中に居るんだから、それは見れば分かります。


「それは奇遇っすね」


「うん、奇跡だよねー!」


 その時、後ろから別の女子の声が飛んできた。

「ねぇー! マリアン、なにしてんのぉー?」


 マリアンはきっとヒメガミさんのあだ名だろう。

 ヒメガミさんは呼ばれる声に振り返って、高い声を上げた。


「あ、ごめーん! 戻るねー!!」


 そのまま立ち上がると、彼女は高い目線からもの惜しそうに視線を合わせてきた。


「ごめんね! 私は戻るから、ボールは投げといてね。あとヒサヅカ君も学校においでよ!」


 下卑た妄想に取り憑かれた、下心まみれの気持ち悪い僕。

 それに対して彼女の微笑みは、遠慮も屈託もなく、救いあげる女神のようだった。


 僕は引き気味に視線を逸らす、正面の濡れ透け体操着が刺激的過ぎて、見る事が申し訳なくなっていた。


「はあ、善処します」


「ぜんしょ? よいしょ! みたいなヤツだね!」


 意味不明すぎて振り向いた。

 ヒメガミさんは両手でグッとこぶしをにぎり、胸に当てながらウィンクをしていた。


 自信満々の笑顔だけど、言ってることは意味は分からない。

 しかし、それが愛嬌に見えるほどに可愛かった。


「じゃあ、またね!」


 そして振り返り、走り出そうとする彼女。

 僕の目は彼女の視線が切れたことで、その透けた背中を横切る赤いラインに誘導されていた。


 そこでヒメガミさんは上半身だけ振り返る。


「そうだ、あんまりジロジロ見てるとね、女子は気づいてるからね!」


 その一言に心臓が跳ね上がり、一気に顔が赤くなった。

 太陽の熱も忘れるくらいに、内側からの熱が爆発していた。

 僕は両手を揃えて気をつけの姿勢を取っていた。


「は、はいっ! すみません……!」


 僕の視線は彼女の頭の上、フェンスの柱を見ていた。


「あはは、大丈夫だから気にしないで、学校で待ってるね!」


 そう言うと、校庭の奥へと駆けていった。

 僕は彼女の姿が完全に見えなくなるまで、呆然と見送っていた。


 こんな惨めな僕だけど、ヒメガミさんは許してくれた。

 そして間を置いて、手に握った紙袋を見下ろす。


 袋の中の暗闇では、天使の姿をした玩具が無機質な笑顔を続けていた。


 僕はまた、ポツリと呟いていた。


「ヒメガミさんね。女神様って、天使より格上なんだっけ?」


 宗教? 神話?

 天使も女神も、格式なんて知らない。

 ただヒメガミさんが、僕という存在を許してくれた。

 口もとが緩み、ボールを投げる肩が軽くなっていた。


 今日が最高じゃなくたっていい。

 今日は何かが変わる日。

 今日から何かが始まっても良いじゃないか。


「だったら、よいしょ! みたいなヤツで!」


 僕は小さく笑って腕を振り、ボールを手放した。



 おそらく、それが悪夢のスイッチだった。

 投げ込んだボールは思い通りの軌道を描き、真っすぐと校庭の奥に消えていく。


 それを眺めていると、セミの声も野球部の掛け声も、全ての音がボールの落下とともに、ボリュームのツマミを下げたように聞こえなくなっていった。


 そして世界が七色に変色を繰り返しながら歪み、熱が出た時のような浮遊感が強まっていく。


「あれ、熱中症!?」


 そしてボールがグラウンドに落ちた。


 その瞬間だった。



 雷鳴が轟いた。


 目眩のようにフラついていたが、その轟音の一撃でシャキっと背伸びをさせられた。


 そして視界の上に動きを感じた。


 フェンスの上に……


 何か、居る。


 顔を上げると、虹色が煌めいていた。

 視界を覆ったのは翼。

 巨大な翼が放射状に広がって空を埋めている。


 その中心に、人影があった。


 フェンスの上に人間が立っている。

  

 女性だ。真っ白な美脚に目を奪われた。

 その姿は、正しく天使だった。


 「綺麗だ......天使さん?」

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