第2話・君は女神様
僕は右手を天に掲げていた。
フェンス越しに駆けてきた体操服の女子生徒の姿は、アイドルか、それともお嬢様か……アッシュ色の縦ロールが水を含みながら胸にしっかりと乗っかっている。
僕は高校の外周の擁壁ブロックに足をかけ、野球ボールを掴んだ右手をフェンスへと近づけていた。
「あっ! 今受け取りますね!!」
女子生徒はボールを受け取るため、フェンスに手をかけてしゃがみこむ、傾けた胸から髪が滑り落ち、その髪にたっぷりに含んだ水が水滴となって空中に舞った。
彼女の小さな手がフェンスの網目にねじ込まれ、僕の目の前に差し出された。
僕にとって、ここまで女子と接近するなんて事は異常事態だった。近いし、可愛いし、濡れて透けた体操着を直視したい欲望に抑えが効かない。
ボールを手渡す瞬間に指先が手のひらに触れ、顔がにやけて崩れそうになるのを必死に抑え込む。
自分が気持ち悪いと自覚できていた。それ以上直視出来ないと思い、その細い指先に視線を落としていると、女子が話しかけてきた。
「あれ? もしかして……クヅカ君?」
違和感を感じて顔を上げた。キョトンとしたぱっちりの目が僕を見つめている。アイドルと言われても疑わないような良く出来た顔だったが、さっき見たのが初めてだ、明確に知らない顔だった。
「ええっと……」
「やっぱりそうだよー! クヅカ君だ!」
なぜか覚えられている。こんな可愛い子が僕を認識して、話しかけてくれていることに高揚したが、とりあえず名前が間違っているのだけは先に修正したかった。
「あの……僕はクヅカじゃなくてヒサヅカです。久しい石塚の塚で、久塚です。クヅカって読めるんで、よく間違われるんだけどね」
「あっ! そうだったんだぁ! 珍しい名前だから初めて知ったよ! ごめんねえ!」
彼女は屈託の無い笑顔で軽く謝った。謝罪と言うよりは、知らなかった事を知って嬉しい、そんな感情の発信に思えた。
「まあ……そうっすよね。間違えて普通だと思いますよ」
僕は気のない返事を返す。あまりに慣れない状況に、それが精一杯の返しだった。それでも彼女は明るい態度で会話を続けてくる。
「私のこと覚えてる? 姫神だよ! 中学でクラスは違うけど一緒だったんだよ!」
その問いに対して僕は言葉を失った。何も返せない。そんな事を僕が絶対に覚えているわけがない。
「ああ、ええと……」
「あ、ごめん! 覚えてるわけないよね。だってヒサヅカ君って学校……あっ……」
ペラペラと次から次へ話を進めようとして、口が滑ってから気づくヒメガミさん。少し気まずい空気が分かった。でも、こんな子が自分を覚えていてくれて、話しかけてくれる。
今日はいい日だ。きっと何かが起こる日なんだ。
こんな機会は、きっともう無い。だから一歩で良い。歩み寄る勇気をもって話しかけろ。そう自分に言い聞かせる。
「あの……別に気にしなくて、大丈夫っすよ」
一つ許した。
僕に手を差し伸べてくれていて、僕なんかに笑顔を向けてくれるヒメガミさんに対して、すると彼女の顔はパァっと明るくなり、遠慮なく次の一言を放った。
「ヒサヅカ君って、学校に来てなかったもんね!!」
「ははは……そうっすね」
それは想定の威力を越えた容赦ないストレートパンチだった。彼女の言う通りだった。僕は小学二年の夏にイジメにあってから今日まで九年間、全く学校に行ってない。
僕の名前は久塚 凄巳。
イジメられた時のあだ名が『クズ・カス・ゴミ』だった。久塚をクヅカと読むと、綺麗に『久塚 スゴミ』になるからだ。それは僕にとってのトラウマの記憶でもある、なのでクヅカと呼ばれると反射的に訂正したくなる。
ヒメガミさんは、新しいオモチャを貰った子供のようなテンションだった。
「ヒサヅカ君ってね、有名人なんだよ! 卒業の集合写真で四角い枠の中の人って話題になってね! 私、それで覚えてたの!」
一切の悪気のない言葉のラッシュが、グサグサと突き刺さってくる。「大丈夫」と許したら、本当に容赦がなかった。彼女にとっては楽しいんだろうが、欠席枠で話題の有名人とは笑えない。
いや、むしろ逆に乾いた笑いだけが出てくる。
「はは……楽しそうで良かったっすよ。なんか......ミイラ取りがミイラにされた気分っすね」
「え、なになに、ミイラ……!? お化け屋敷好きなの? もしかして……肝試しの話かな!?」
「…………まあ、そんな感じかも」
つい出てしまった皮肉の一言、しかし話が噛み合わなすぎて皮肉だと気づいてすら貰えない。そんな話のすれ違いに、次第に居場所を見失い、日差しの暑さを思い出して来た。
出過ぎた真似は怪我の元だ、イジメの原因も僕が出しゃばったからだった。
僕は今日がいい日だと思って、出過ぎた真似をしてしまったんだ。左手に握った紙袋に向かって目を逸らすと、袋の入口から天使フィギュアの羽の部分だけがちらりと見えた。
そうだ、僕には帰るべき場所がある。早く帰ろう。
今日はコレだけ手に入れて、最高の日だったはずだ。
手を伸ばせば届く学校の擁壁の上、彼女にボールを手渡す所で固まったこの高さが、今の僕には高過ぎる。
僕の話から話題を逸らそう。
「そういえば、このボールって、フェンス通らなそうですね?」
二人の手の中にありながら、どちらの手の中にも無いボール。渡す途中で話しかけられて、どっちが持ってるのかも曖昧なままだった。僕は伸ばした手の中のボールを、もう一度しっかりとつかみ直した。するとヒメガミさんもボールに意識を戻す。
「あれ? そうかな、そうかも!」
僕は元々、ボールがフェンスを通らないのは知っていた。学校のフェンスはボールが通らないように設計されている。そんなことは分かっていた。 ただ彼女を近くで見たくて、手渡しに誘ったんだ。
これは自分が蒔いた種であって、それによって彼女との会話が芽吹き、綺麗な地雷が咲き誇ってしまった。
ただ、それだけの事だ。
「やっぱり僕が上から投げますよ、一度もらいますね」
「そうだね! お願いしまーす! でもそれ、うちの学校のボールじゃないかもね!」
「そうなんですか?」
ボールを彼女の手中から引き戻した。右手の中には赤い縫い目の普通の野球ボール。
「うん、うちのボールは赤い糸は入ってないからね! でも気にしないで。たまに違うの混ざってるし、赤い糸って運命っぽくて縁起良さそうだもんね!」
「…………そうだったんすね。」
運命、か……
確かにこんな無邪気で可愛い子と至近距離で話せたのは奇跡的な幸運だったかもしれない。でも彼女は遥か高所の柵の向こうの存在だ。僕の本当の運命の人は、左手にぶら下げた紙袋の中で転がっている。
ボールを投げ入れて帰ろう思い顔を上げると、ヒメガミさんはフェンスの網目に指をかけて停止、さらに話しかけられた。
「ねえねえ、ヒサヅカ君って、高校はどこに行ったの?」
高校……元々通う気はなかったけど、席だけは入れてあった。それによって寮室という完全無敵空間も手に入れた。
「ああ……多分、ここっすね。」
僕は目の前のフェンスの向こう、ヒメガミさんの背中にそびえる校舎を指し示した。この学校に入って入学式にだけは出た。そして緊張で潰れそうになって教室に行く前に帰った。
それを聞いてヒメガミさんが目を丸くする。
「そうなの? 一緒だよー! 私もこの高校なんだよ!」
フェンスの中に居るんだから、それは見れば分かります。なんて皮肉は口にしない。この子は何か抜けてるけどとにかく優しさだけがあった。もうトゲのあることは言いたくなかった。
「それは奇遇ですね。」
「うん、奇跡だねー!」
その時、後ろから別の女子の声が飛んできた。
「ねぇー! マリアン! なにしてんのぉー?」
マリアンはきっとヒメガミさんのあだ名だろう。ヒメガミさんは呼ばれる声に振り返って、高い声を上げた。
「あ! ごめん! 戻るねー!!」
そのまま立ち上がると、すらっと伸びた太ももが陽光で白く輝き、滴る水がその表面を撫でるように落ちていった。それを見て息を飲む僕に、彼女は振り向いて視線を合わせる。
「ごめんね! 私は戻らないと! ボールは投げといてね! あと……ヒサヅカ君もまた学校においでよ!」
下卑た妄想に取り憑かれた僕に対して救いあげる女神のような微笑みだった。僕は引き気味に視線を逸らす、正面が刺激的過ぎて見てたら返せない。
「はあ、善処します。」
「ぜんしょ? よいしょみたいなヤツだね!」
ヒメガミさんはグッと両手でガッツポーズを取ってウィンクをした。その笑顔で言ってる事の意味は分からないが、それまでが愛嬌に見える程、可愛かった。
「じゃあ、またね!」
そして振り返り、走り出そうとする彼女、僕の目は彼女の視線が切れたことで、その透けた背中を横切る赤いラインと、揺れるお尻に誘導されていた。
だがヒメガミさんは、そこに上半身だけ振り返る。
「あ、そうだ! あんまりじろじろ見てると女子は気づいてるからねぇ!」
その一言に心臓が跳ね上がり、一気に顔が赤くなった。太陽の熱も忘れるくらいに、内側からの熱が爆発していた。僕は両手を揃えて気をつけの姿勢を取っていた。
「は、はいっ! すみません……!」
とても目は合わせられない、視線は彼女の頭の上、フェンスの柱を見ていた。そんな惨めな僕だけど、ヒメガミさんは許してくれた。
「あはは! 大丈夫だから気にしないで! 学校で待ってるね!」
そう言うと、校庭の奥へと駆けていった。
彼女の姿が完全に見えなくなるまで、呆然と見送っていた。そして間を置いて、手に握った紙袋を見下ろす。袋の中の暗闇では、天使の姿をしたフィギュアが無機質な笑顔を続けていた。
僕はまた、ポツリと独り言を言っていた。
「ヒメガミさんね……女神様って、天使より格上なんだっけ?」
宗教的な格式なんて知らない、ただ彼女が僕と言う存在を許してくれた。そんな気がすると、ボールを投げる為の肩が少しだけ軽くなっていた。
今日は、何かが変わるかもしれない日。
「だったら......よいしょみたいなヤツで!」
僕は小さく笑って、腕を振り、ボールを手放した。
おそらく、それがスイッチだった。
投げ込んだボールは思い通りの軌道を描き、真っすぐと校庭の奥に消えていく。
それを眺めていると、次第とセミの声も野球部の掛け声も、ボールの落下とともに全ての音がボリュームのツマミを下げられたかのように聞こえなくなっていった。
それに伴い世界が七色に変色を繰り返しながら歪み、地面の方向すら分からなくなるような浮遊感が強まっていく。
「あれ、熱中症!?」
そしてボールがグラウンドに落ちただろうと思った……
そのタイミングで、爆音の雷鳴が轟いた。
目眩のようにふらついていた身体だが、その轟音の一撃で一気に気付けが入る。
そして視界の上に動きを感じた、それに対して顔を上げると、青空を覆うように極彩色の翼が広がり、その中心に人が立っていた。
その姿は正しく天使。
彼女は白い髪をなびかせて、白いまつ毛にルビーの瞳。ステンドグラスを砕いたような極彩色の羽が陽光を乱反射し、世界の光を7色に斬り裂いていた。
その圧倒的な存在感に、僕は呆気に取られていた。
「すごい…...綺麗だ...…」
素直な感嘆が溢れ出ていた。しかし、その姿には完全に見覚えがあった。それは僕が理想とする大好きな彼女の姿だ。その天使の姿は袋の中の天使のフィギュアと全く同じだった。
「マジカルエンジェル……セイントハート!?」
彼女に見とれたまま、左手の紙袋をぐっと持ち上げると、袋には確かに中身のある重さが残っていた。
今日この時をもって、僕の運命は明確に変更された。