第1話・始まりの光
あこがれの彼女が、目の前にいた。
「あのぉ......コレ、貰っていいっすか?」
今日は最高の日だ。
コンクリートの柱が立ち並び、大監獄のような圧力で天井を覆っている。
歩き乱れる人、人、人の海。
波のように押し寄せる、湿気と熱気。
僕は人混みが嫌いだ。自分のペースで止まれないから。
僕の名前は、凄巳。
今日は彼女を手に入れて、帰る為にココに来た。
ココは東京のイベントホール。
おデコの汗を指ですくい、光の粒子を投げ捨てた。
ペットボトルをひねって口に当て、軽すぎるボトルで天井を仰ぐ。
中身は舌先に乗る程度のスポーツ飲料。ぬるい。
「暑すぎっすよ……」
これは戦争だった。
「はい、二万円ですー!!」
白シャツの入道のような大男が、テカった顔で声を張る。
どこまでも続く折り畳みのパイプ机、その向こうから集金トレーが小舟のようにやって来た。
僕はポケットから、財布を取り出した。
白い蛇がプリントがされたナイロン製の長財布。使い古して付きの悪くなったマジックテープをバリバリと引き剥がし、汗が滲む手で一万円札を二枚引っかけ、トレーに向かって突き出した。
道は開かれた。
あとは机の彼女を、この手に取るだけだ。
用意してきた紙袋からハンカチを取り出して、彼女の翼を外から包んだ。
「あああ……もう最高っすよ!! コレ家宝にしますから!!」
「あはは、大袈裟ですって」
僕は彼女を、やさしく、ていねいに、紙袋の中に寝かせてあげた。
袋の中の彼女は、僕のためだけに微笑んでいる。
君こそが、僕の天使さん。
【マジカルエンジェル・セイントハート・限定版フィギュア】
テレビアニメ『魔法少女マジカルエンジェル』
その中でも最推しの神聖なる誘惑。
『セイントハート』の超限定版フィギュアだ。
これこそがフィギュア棚を輝かせる最強チート級のリアル課金アイテムであり、今日の僕の全てだった。
「よーし、帰るっすよ!」
これからは毎日、天使さんを眺めて暮らせる。
それこそが僕が望む最高の幸せだった。
今日は最高の日だ。
帰りは電車で三時間。田舎町まで鈍行列車の貧困旅。
効きすぎた冷房で汗を冷しながら、痛む尻を何度も組み換え、退屈な時間をソシャゲで過ごす。
「新キャラ可愛いな、ガチャ回せないけど……」
住んでる田舎町の唯一の駅に停車した。
電車の扉が開くと静かな風景からムワッと熱気が押し寄せる。
車両を降りれば暑さは深刻。セミの声だけが騒がしい。
僕の部屋までは徒歩で40分。バスに使う金は無い。
フィギュアの為に二カ月間、食費を削ったほどだった。
とにかく歩くしかない。
大丈夫だ。今日は最高の、無敵の一日なんだから……
30分も歩くと、最高だった気持ちは、完全に溶け切っていた。
「暑い……早く、帰りたい……」
猫背で引きずる足に、直射日光でアツアツになった頭髪。
紙袋のフィギュアだけはハンカチをかけて、身体の影へと運ぶ。
自分の部屋に一歩入れば、電気代不要でガンガンに冷やせる寮のエアコン。
棚には笑顔の美少女フィギュア達。
そこに天使さんを追加して、後は誰にも邪魔されずに自分を開放できる。
『帰ること』。それだけが僕の希望だった。
駅から部屋へと向かう最短ルートに高校がある。
そこを通り過ぎる途中で、右の方から女子たちの甲高い声が聞こえてきた。
「ウチがスプリンクラーだからね! いっくよー!!」
「ちょっと、やめてっ! 濡れるじゃん!!」
「あははっ! バカみたーい!」
ずっと俯いて歩いていた僕だが、涼しげに水遊びをしている女子高生の声が気になって仕方ない。
ひと目だけでも見ようと首を伸ばした。
「濡れ透け女子とかって、いいっすよね……」
僕の視界を埋めたのは、苔むしたコンクリートブロックだった。
長方形が規則正しく並べられた擁壁ブロック。
それが僕の身長より少しだけ高く積み上げられている。
なにも見えない。
「アホくさ……」
ブロック上には草が生え散らかり、緑色のフェンスが並んで歪み、僕を嘲笑っているようにすら思えた。
その向こうには無機質なコンクリートの校舎。
学校様の素敵な配慮によって、部外者は楽園を閲覧禁止というワケだ。
紙袋をつかむ左拳に力がこもる。
「あーあ、現実なんてくだらない」
僕は校舎とは反対の空を見つめた。
「ある日、空から女の子が降って来て、世界が滅べばいいのに……」
よくある展開。
それを語っただけの突飛な妄言。
別に本気で願ったわけじゃない。
自分だけが世界から弾かれている。
自分だけが特別な劣等種。
誰も僕を分かってはくれない。
分かって欲しいとも思わない。
そんな諦観から、何となく現実離れした妄想が滑り落ちただけだった。
僕にとって現実なんてものは、リアルじゃない。
紙袋を開いて覗き、ハンカチを持ち上げた。
僕が大好きな理想の姿の天使さん。
パッチリの赤い瞳に、クリクリの白いまつ毛。
彼女はその狭い空間で、僕だけの為に常時最高の笑顔を浮かべている。
「ごめんね、天使さんがいるから、大丈夫!」
僕は一人でフィギュアに語りかけていた。
すると視界の右上の端、フェンスで白い人影が揺れた。
急いで目を向けると、体操着の女子生徒と目が合った。
バチバチの黒まつ毛の大きな瞳に、ふわっとしたアッシュ色の縦ロールの髪が跳ねている。
一瞬で視線が釘付けになった。
しかし彼女はすぐに顔を反らし、校庭の奥へと去って行った。
「ねぇねぇ、ちょっとちょっとー」
見えない向こうに友達が居るんだろう。
走って遠ざかっていく彼女の声は、高く透き通っていた。
「今の子、可愛かったな……」
僕はしばらく呆然としてフェンスを見ていたが、立ち止まった分だけ太陽光が熱となって身体に溜まってくる。
校庭からのセミ達の大合唱が、僕の意識を再び現実へと叩き落しとしていった。
僕は右手を太陽にかざし、自分の顔に影を落とした。
「ああもう、うっとおしい」
自然現象に八つ当たり。
「太陽だからってギラギラしやがって、この光が邪魔なんすよ。握り潰せたら良いのに」
苛立ちから、くだらない独り言を発していた。
その時だった。
『カシャリ』 右上でフェンスの揺れる音がした。
視界の端で、フェンスに黒い人影が張り付いているのに気づいた。
右目だけをその黒い影に向けた瞬間、今まで感じていた暑さなど無かったかのように、一瞬にして背筋が凍りついた。
赤い瞳と、目が合った。
『最低』 言われてもいない幻聴が、耳の奥からウジのように這い出てきた。
僕を殺しに来た呪怨のような、引き込まれるような、白毛に包まれた血の色の瞳が、僕だけを捉えていた。
「だ、誰……!?」
しっかり振り返ろうと思い、持ち上げていた右手を降ろそうとして、握り込んだ。
その瞬間、今度は世界から電源が落ちた。
空間が真っ黒になり、セミの声も女子の声も、暑さも寒気も全てが消え去った。
【ヒサヅカ・スゴミ】
感覚遮断の暗闇の中、僕の名前だけを呼ぶ男の声がハッキリと聞こえた。
「えっ……何!?」
しかし、それも一瞬の出来事だった。
今度は、掲げた右手の中で異常が起きていた。
手の平の中で太陽のような閃光が暴れ出し、七色の光が指の間から降り注いでくる。
手の平が燃えるように熱くなっていた。
「あ、熱っ!! なんすか!?」
右手は握って戻す予定だった。
その予定通りに、僕の胸のあたりまで降りてくる。
すると暴れる光はピタリと消えていた。
白い球体を、握っていた。
赤ん坊の頭蓋骨ほどの大きさの塊が、手にピッタリと張り付いていた。
まるで何事もなく、始めからあったかのように。
骨のように固くて光沢が無い白い玉。
それは確かに存在するのに、重さを一切感じなかった。
「なにこれ、気持ち悪っ……骨?」
その謎の球体を見てると、なにか大切なものを失ったような気がした。
家に財布忘れたかもしれないとか、家の鍵締め忘れたかもしれない。と思うアレに近い。
僕はすぐに左手の紙袋の中身を軽く覗いた。
天使のフィギュアは、なにひとつ変わらない笑顔でそこにいる。
フィギュアの天使の白髪と赤い瞳を見ていると、フェンスにいた赤い瞳が脳裏をよぎった。
確認のために再びフェンスに視線を移動したが、そこには誰も居なかった。
まるで最初から何もいない、全てが自分一人の妄想だったかのように、なんの気配もしなかった。
「えーっと、何が起きてるんすかね。熱中症……?」
すると次は音が戻って来た。
カキーン!!
学校のグラウンドの奥、遠く向こうから野球部のバッティングの音が響いて来る。
時間は午後の16時。学校はちょうど部活動の時間のようだ。
その事に気づいた瞬間、今度は手に重みを感じた。
手の中には、赤い紐で縫われた、野球ボールが握られていた。
「あれ? 野球ボールだったっけ? 手をあげたから、たまたま掴んだ?」
そんな訳がない事は分かっていた。
僕が掴んだのは大きな白い玉だった。
しかし理解できない状況の連続を認めたくなくて、僕は無理矢理に理屈をつけて、そうだと思いこんだ。
そうしていると、さっきのアッシュ色の髪の子の顔だけが、擁壁ブロックの縁からはみ出して見え、声が聞こえた。
「こっちのボール、拾い終わったよー!」
そう言って校庭の奥へと消えていく。
野球部のマネージャーが球拾いをしていたのだろうか、そんな事を考えながら僕は小さな妄想をつぶやいた。
「僕に野球の才能があったら、あんな女子が近寄って来たりとか……しませんかね?」
それは目的が先が結果が先か、そんな事すらも考えていない浅ましい妄言だった。
そして、僕は気づけば声を張っていた。
「あのー! ボール落ちてましたよー!!」
手に持っているのは、さっき掴んだ野球ボール。
別に黙っていても、投げ込めばいいだけの話。
しかし、気付いて欲しかった。
ただ一人、路上に佇んでフェンスの向こうを見上げるしか出来ない、僕の存在に。
しかし校庭からはバッティングの音とセミの声以外、何も返ってこなかった。
「ははっ、なにしてんだろ。帰ろ……」
紙袋をぎゅっと握り、野球ボールの縫い目に指をかけ、顔の横まで持ち上げた。
左足を一歩フェンス側に差し出し、腕を振りかぶった。
その時だった。
フェンスの向こうから、巻いた水をはねる小さな足音が近寄って来た。
視界にさっきの体操着の女子が映り込んだ。
眩しい光と弾ける水滴が虹をえがき、パッチリとした瞳が僕を認識した。
「ありがとうございますー!」
その高い声を発した瞬間、彼女は笑顔になって僕の薄暗かった心に光を照らした。
アッシュ色の縦ロールがバネのように跳ね、その間で体操着にきつく押し込まれた胸が揺れている。
水を被っていたようで、体操着が肌に張り付き、肌色と赤い下着がうっすらスケけて見える。
「あれぇ、もしかして僕の現実……始まっちゃいました?」
僕の鼓動は高鳴り、顔はにやけていた。
小さな妄想に浸っていたら、本当に濡れ透け女子が寄って来た。
紙袋を握る左手の力が緩んだ。
投げようとしていたボールを掴む右手をひっくり返し、手渡しの形に変えていた。
手渡しの方がこの女子を近くで見られるからだ。
私的な欲望を満たす為の、小さな計画が動き出していた。
『最低』だなんて今更だろ?
僕は手を伸ばしたまま、擁壁ブロックへと近寄って行った。
今日は……すこし、良い日になるかもしれない。




