第1話・始まりの光
憧れの彼女が、僕の目の前にいた。
「あのぉ……コレ…………貰っても良いっすか?」
うだるような暑さの中、並び、並び、並んで背を焼かれた。歩き乱れる人、人、人波と熱気。張り付くように光る汗を指ではらい、ペットボトルのフタをひねった、中身は既に舌先に乗る程度の量になったスポーツ飲料。これは僕にとって戦争だった。
「はいっ! ありがとうございます! 二万円ですー!」
僕はポケットから安物の財布を取り出した。汗が滲む手で一万円札を引っかけて二枚抜き、パイプ机の向こうの狭いスペースに収まる男に手渡した。そして用意してきた紙袋からハンカチを取り出す。
優しく包むように、僕は彼女をこの手に掴んだ。
「あああ……! 最高です本当に! 家宝にしますから!!」
「あはは、大袈裟ですって」
僕は彼女を紙袋の中にゆっくりと収める。白い紙袋の中で微笑む彼女こそが、僕だけの天使さん。
【マジカルエンジェル・セイントハート・限定版フィギュア】
天使をモチーフとした魔法少女のアニメ『マジカルエンジェル』その中でも最推しのキャラクター『セイントハート』の超限定版フィギュア。
それをついに手に入れたのだ。今日の僕の戦果はこれ一つだけだったが、これこそが僕の部屋のフィギュア棚をより一層輝かせる最高のリアル課金アイテムだった。
これからは部屋で彼女を一日中眺めていられる、幸せな日々が待っている。
「よし、すぐに帰って飾るぞ……!!」
僕の名前は凄巳。今年の春から高校生になった。
今日は最高の日だ。
フィギュアを手に入れた感動で、ここまでの道のりの全てが報われていく。僕はこれ一つの為だけに朝早くから電車で数時間かけて都会に出て来て、即売会のイベントに参加して来た。本当にそれだけを買って、それ以外は何もせずに帰路についた。
鈍行列車で自分の住んでる田舎駅を降り立つと、静かな風景にセミの声だけが騒がしい。家までは徒歩で40分、バスに使う金などは無い。なにせ紙袋の中身の為に数カ月間、食費を節約していたくらいだった。とにかく歩くしかない。
「暑い……早く帰りたい……」
20分程も歩くと最高だった気持ちは落ちきっていた。背中にTシャツが汗でベットリと張り付き、熱気で揺らめくアスファルトの上を重たい脚を引きずって、一歩、一歩と自分の部屋へと足を運んでいく。
それでも自分の部屋に一歩入れば、電気代不要でガンガンに冷やせる寮のエアコン。棚を埋め尽くす笑顔の美少女フィギュア達、誰にも邪魔されずに自分を開放できる、僕だけの聖域が待っている。
それだけが僕の希望だった。
歩く途中、右の方から高校生の女子たちの甲高い声が聞こえてきた。
「ウチがスプリンクラーだからね! いっくよー!!」
「ちょっと、やめてっ! 濡れるじゃん!!」
「あははっ! バカみたーい!」
そこまでずっと俯いて歩いていた僕だが、その女子たちの声が気になってしまい、つい目を引かれて首を伸ばした。
「ははっ……濡れ透け女子とかって、いいっすよね」
目に映った光景は、苔むしたコンクリートブロックだった。
右手には長方形が折り重なるように並べられた擁壁ブロックが、僕の身長より少し高く積み上げられており、その上に草が生え、緑色のフェンスが続いている。
その奥には無機質な要塞のようなコンクリート校舎。学校様の素敵な配慮によって、道路からはフェンスの向こうの様子は覗く事が出来ないようになっている。
紙袋を掴む拳に力がこもる。
「あーあ、現実なんてくだらない」
つい悪態が口から零れ落ち、校舎とは反対の空を見つめた。
「ある日、空から女の子が降って来て、世界が滅べばいいのに……」
よくある展開を語っただけの突飛な妄言、別に本気で願ったわけじゃない。ただ自分だけが世界から弾かれたような劣等感から、何となく現実離れした妄想がこぼれ出ただけだった。
僕にとって現実なんてものはリアルじゃなかった。
僕は紙袋を開いて中を見た、僕の大好きな姿のパッチリ白いまつ毛で赤い瞳の天使さんが、狭い袋の底で僕だけの為に微笑んでいる。
「ごめんね、僕には君が居るから……大丈夫!」
すると視界の右上の端、フェンスで白い人影が揺れた。目を向けると体操着の女子高校生と目が合った。パッチリと大きな瞳にふわっとしたアッシュ色の髪が揺れ、一瞬で視線が釘付けになる。しかし彼女は僕の事は気にも止めずに顔を反らし、校舎の奥へと去って行った。
「今の子、可愛かったな……」
その後もしばらく呆然として見ていたが、足を止めた時間分だけ太陽光の熱が前髪を焼き、セミ達の大合唱が僕の意識を再び現実へと引きずり落しとしていった。
僕は右手を挙げて太陽にかざし、自分の顔に影を作った。
「ああもう! 暑さがうっとおしい! いじめですかぁ!? 太陽だって無駄にギラギラしちゃって、この光が熱いんだよ……握り潰せたら投げ返してやるのに……!」
苛立ちから割と強めの独り言を発した。その時だった。
右手で『カシャリ』とフェンスの揺れる音がして、フェンスに黒い人影が張り付いているのに気づいた。右目だけをその人影に向けた瞬間、今まで感じていた暑さなど無かったかのように、一瞬にして背筋が凍りついた。
赤い瞳と目が合った。
『 最 低 』 聞こえるはずの無い声が、耳の奥から確かに聞こえ、拒絶が腸を逆流して口から噴き出そうになる。
皮膚の内側を虫が這いまわるような感覚に全身の毛穴が逆立ち、僕だけを殺しに来た呪怨のような、それでいて引き込まれるような、美しい白毛に包まれた血の色の瞳が、僕の目だけを捉えていた。
「誰……っ!?」
しっかり振り返ろうと思い、持ち上げた右手の降ろそうとして握り込んだ。
その瞬間、今度は、世界から電源が落ちた。
空間が真っ黒になり、セミの声も女子の声も、暑さも寒気も全てが消えた。
しかしそれも一瞬の出来事で、気付けば掲げた右手の中に光が生まれていた。僕の手のひらの中で太陽のような光が炸裂し、七色の光が開いた指の間から暴れるように降り注いでくる。手の平が燃えるように熱くなっていた。
「熱……あっつ! なんすか!?」
右手は握って戻す予定の動きだった通りに、そのまま僕の胸のあたりまで降りてくる。すると暴れる光は消えていて、手のひらには赤ん坊の頭蓋骨程の大きさの、白い球体がピッタリと張り付いていた。
それは骨のように固くて光沢が無い。そして確かにそこにあるのに、不気味なことに重さを一切感じない。
「なんすかコレ……骨?」
その謎の球体を見てると、なにか取り返しがつかない程の大切なものを失った気がして、左手の紙袋の中身を軽く覗いた。天使のフィギュアはなにひとつ変わらない真っ白な笑顔を続けている。
フィギュアの赤い瞳を見ていると、フェンスにいた赤い瞳の人物が気になり、今度はフェンスに視線を戻した。だがそこには誰も居なかった。まるで最初から何もいない、全てが自分一人の妄想だったかのように。
「えーっと、何が起きてるんすかね……真夏の怪奇現象シリーズ?」
すると、次は音が戻って来た。スタートアップを始めたセミのエンジン音。そして……
カキーン!!
学校のグラウンドの奥、緑のフェンスの遠く向こうから野球部のバッティングの音が響いて来る。時間は午後の16時、学校は丁度部活動の時間だった。その事に気づいた瞬間、手のひらに柔らかな重みを感じる。そっと視線を落とすと、手の中には赤い紐で縫われた野球ボールが握られていた。
「あれ……? 野球ボールだったっけ? 手をあげたから、たまたま掴んでた?」
そんな訳がない事は分かっていた。ただ理解できない状況の連続を無理にでも理解したくて、そう理屈をつけるしかないと思った。
そうしていると、さっきのアッシュ色の髪の子の顔だけが、擁壁ブロックの縁からはみ出して見え、声が聞こえた。
「こっち、拾い終わったよー!」
そう言って校庭の奥へと消えていく、野球部のマネージャーが球拾いをしていたのだろうか、僕の中で小さな妄想が始まった。
『もし僕に野球の才能があったなら、部活の英雄になったりして、あんな女子が近寄って来たりするんだろうか……』それは目的が先が結果が先か、そんな事すらも考えていない浅ましい妄想だった。
そして、僕は気づけば声をあげていた。
「あのー、ボール落ちてましたよー!!」
手に持っているのはさっき掴んだ野球ボール。別に黙っていても投げ込めばいいだけの話。しかし気付いて欲しかった。路上に一人佇んでフェンスの向こうを見上げるしか出来ない、この僕の存在に……
しかし校庭からは野球部のバッティング音と、セミの声以外、何も返ってこなかった。
「何を今更、現実に期待してるんすかね……早く帰ろうね、天使さん」
天使の入った紙袋を、ぎゅっと握り、野球ボールの縫い目に指をかけ、顔の横まで持ち上げた。左足を一歩フェンス側に差し出し、投げようと腕を振りかぶった。
その時だった。フェンスの向こうから、グラウンドに巻いた水をはねる小さな足音が近寄って来た。そして視界にさっきの体操着の女子が映り込んで来た。眩しい光と弾ける水滴が虹をえがき、ぱっちりとした瞳が僕を認識した。
「ありがとうございますー!」
その声を発した瞬間、彼女は笑顔になって僕の薄暗かった心に光を照らした。
アッシュ色の縦ロールがバネのように跳ね、その間で体操着にきつく押し込まれた胸が揺れている。しかも水を被っていたようで、体操着が肌に張り付き、肌色と赤い下着がうっすらと透けている。
「あれ? もしかして僕の現実、始まっちゃいました?」
僕の鼓動は高鳴り、顔はにやけていた。小さな妄想に浸っていたら、本当に濡れ透け女子が寄って来た。
紙袋を握る左手の力が緩み、投げようとしていたボールを掴む右手ひっくり返し、手渡しの形に変えていた。手渡しの方がこの女子を近くで見られる、ただそれだけの小さな計画が僕の中で実行されていた。
気持ち悪いだなんて今更だ。
僕は手を伸ばしたまま、擁壁ブロックのそばへと近寄って行った。
今日は良い日かもしれない。