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その宣言と同時に、木の騎士が吼えた。倍音の異常に多いそれは、そよ風に鳴る枝のざわめきとは程遠い。騎士の頭上の枠――恐らくはカーソル――が、赤く変化した。攻性化した、ということか。視界の左端に、《Elm Ghost》という名が表示された。ニレの亡霊。確かにここまでの流れはゲーム風ではある、とユキナリは軽く納得する暇も無く。
「ウイィィィィィィィイ!!」
太い枝に覆われ重量を増したエルムゴーストの左足が、咆哮とともにユキナリの顔めがけて跳ね上がった。幾本かの白い花が、その花びらを散らした。節くれ立ったつま先がうなる。
しかし、ビビりのユキナリは、それよりも早く。視界に敵の名前が示されたときには大きくバックジャンプしていた。その距離――およそ5メートル。
「なああああああああああああ!?」
ユキナリはなんだと! と叫ぶこともままならない。着地でバランスを崩し、またしても尻餅を突いてしまった。もっとも、下はふかふかの土である上に無数の花も咲いているから、さして痛くはないが。
先手必勝の一撃をかわされたエルムゴーストが、花を踏み倒しながらこちらへ突進してくる。ユキナリはトールの言うところの武器が何かを理解した。
この運動性だ。脚力こそが武器なんだ。
植物のくせにものすごい速さで迫るエルムゴーストが、大きく体を右に捻った。右拳を大きく引き絞る。当たればシャレでなく骨の一本も折れそうだ。ユキナリは今度は右へ跳んだ。
エルムゴーストは攻撃軌道を大きく修正し、その精度もかなりのものだったが、数メートルも移動したターゲットに当てることはできなかった。腕力と捻転力を余さず乗せたパンチが地面に突き刺さる。草をなぎ倒し、そこに拳大の穴が穿たれる。その様子に、ユキナリは軽く弱音を吐いてしまう。
「冗談も大概にしてくれよ……」
しかし、そうのんびりしている暇も無い。あいつが大勢を立て直す間に、こちらからも一撃を食らわせなければ、いつまでもこの戦いは終わらないからだ。いや、正確には終わる。ユキナリの敗北、まさか冗談だろうという意識はあるものの、ユキナリの死という形で。ここでの死が何を意味するのかは分からないが、愉快な経験ではないだろう。
ユキナリは体を前に深く倒し、未だに拳を振り抜いた状態で固まっているエルムゴーストに向かって飛び出した。《速さ》を選んだ効果で、凄まじい加速感が全身を叩く。右手を握り、親指で堅く締める。体を右に捻って肩の高さで腕を引き、左足の踏み切りと共に拳を打ち出す。普段の自分のとは比べものにならないエネルギーが標的へと襲いかかる。
そのとき、エルムゴーストが硬直から回復した。硬い木で出来ているはずなのに、バネのような動作で真上に2メートルほど跳ぶ。ユキナリは勢いのまま楡騎士の下を通り抜け、さっきの敵のような転倒を防ぐために必死でブレーキをかけた。しかし、大き過ぎる慣性力を相殺するため、永遠に近い硬直に襲われてしまった。ユキナリには見えない真後ろのエルムゴーストが、ニヤリと笑ったような気がした。
「キィィィィィィィァァアアア!!」
耳障りな金切り声とともに、楡騎士は拳を振りかぶった。そのまま力任せにユキナリの頭へと打ち下ろす。途方もない衝撃。
「っ――――――――ぁ」
世界がひっくり返り、ユキナリは一瞬息の仕方を忘れてもんどり打つ。脳味噌が普段の10分の1くらいに収縮して、体中を転がり回るような感覚。痛みより衝撃のほうが大きい。すぐ後ろではエルムゴーストが追撃の構えを見せている。揺れる視界の中ユキナリは無理やり立ち上がって、大きく距離をとった。
予備動作や硬直の長い大振りは無理だ。攻撃のためにはあの化け物に殴られるのを恐れずにぴったり張り付きに行く方が良いのではないか。
まだぐらぐら揺れる頭でゲーマーらしくそこまで考えたユキナリは、エルムゴーストの突進を誘う構えを見せた。ある程度距離を詰めてきていた相手が、もう一度大きくダッシュ。
ガードより回避。カウンターを叩き込める最小限の動き。エルムゴーストが突進し、あっというまに彼我の距離が縮まり、奴が拳を構えて――今!
「くっ!」
ユキナリは小さく左に跳んだ。今度も向こうは修正しきれない。木の匂いがユキナリの横を通り過ぎ、1秒を楽に超えると思われる硬直が拳を振ったエルムゴーストの体を縛る。ユキナリは木偶を思い切りブン殴った。しかし。
「っつあ!」
木を殴る、ということが拳に与えるダメージは、並大抵ではなかった。真っ白な痛みが腕の先から駆け上がる。だがここで攻撃を止めれば、硬直から回復したエルムゴーストが容赦なく打ちかかってくることは間違いない。ユキナリはそのまま必死に攻撃を続けた。
しかし、そのラッシュは10秒も続かなかった。といっても、ゲームの世界でも戦闘中の10秒というのはそれなりに長い部類に入るだろう、ユキナリの感覚では永遠にも近かった。 攻撃が終了した理由は、痛みに堪えかねたユキナリの拳が十分な威力を生み出せず、エルムゴーストを怯ませられなかったからだ。
逆に追撃に追撃を重ねたユキナリの方に疲れが出た。エルムゴーストが反撃に出る。
「イイイイイイイイィ!!」
体を捻って、渾身の裏拳。
たまらずユキナリは吹っ飛ばされるが、慌てずに落ち着いて距離をとる。さっきから体のあちこちが相当に痛いのだが、中学時代に痛みには慣れている。今はまだ動けなくなるほどではない。昔はもっと途切れることなく痛みが押し寄せてきたものだ。目立たないところにばかり、途切れることなく足蹴にされ……。
そこでユキナリははたと思いだした。
今履いているこの靴。脚力が強化されているのなら、拳以上に蹴りの威力は遥かに高いはず。幸いエルムゴーストはやたらと攻撃が大振りばかりだ。さっきの要領で、また隙を作れるはず。
ユキナリはやや距離を取ってエルムゴーストの突進を誘った。いくら荒っぽい攻撃でも、戦いの素人であるユキナリが至近距離で繰り出されるものを避けるのは難しい。でもあらかじめ見えているタックルなら……。
エルムゴーストがうなりを上げて跳躍してくるのを横っ飛びに避ける。そして強化された脚力でバネのようにまた真逆に跳ぶと――そのまま慣れない蹴りをエルムゴーストに突き刺した。
「ギィッ!」
耳を裂く悲鳴を上げたエルムゴーストがバランスを崩す。足への反動としての痛みは殆ど無い。いける。これを繰り返せば。
次第に闘いはユキナリのワンサイドゲームとなった。エルムゴーストの動きが次第に緩慢になり、やがて――――――。
「ギイイイイイイイイィィィ!!」
凄まじい断末魔をあげて倒れ、動かなくなった。
「はは……は…………終わっ、た」
優位に戦いを進めたとは言え、ユキナリもかなり消耗していた。相手を思いやらない攻撃にさらされるのは久しぶりだった。
ふっと気が抜けたようになって、ユキナリは花の伸されてしまった柔らかな地面に仰向けに倒れた。空には現実世界のそれとは違う無数の星々が、瞬かず、煌々と輝いている。もう立ち上がりたくない。指一本動かしたくない。
ただ声もなく黒曜石色の空を見上げるユキナリの視界に、誰かがにゅうっと顔を突き出した。
「おお、生きてる生きてる! 全く、危なっかしくて見ててはらはらしたぜ。しっかしこんなのが俺のパートナーなんてな、鍛えがいがあって泣けてくるよ」
生まれて初めての戦いの勝利を割とボロクソにけなされ、ユキナリは少し傷つく。
「……勝ったんだぞ?」
「はっ、与えられたスペックに頼りきって、情けないことだと思わないのか?」
容赦なく責めるトールに、ふとユキナリは、全くの初対面なのになんでコイツとは上手く喋れるんだろう、と不思議に思う。人の視線でさえ怖いのに。
「俺は今までまともな殴り合いをしたことがないんだからな?」
「なんでユキナリがエヴォルヴァースのプレイヤー候補に選ばれたのか理解に苦しむけどな……。まぁいいや、とにかくユキナリは課題をこなした。セカンドステージ、合格だよ。おめでとう」
端正な顔全体で笑顔を作って、トールはぱちぱちと軽く拍手をした。
その途端、ユキナリの全身を清らかな緑の光が包んだ。日向ぼっこのような暖かさが強く殴られた部位を優しく撫でる。光が消えたときには、腫れた手や赤くなった膝などは全て元通りになり、じんじん痺れるような痛みがすっかりなくなっていた。トールが晴れ晴れとした顔で言う。
「これでアンタもエヴォルヴァースのプレイヤーだな! 左上を見てみろよ?」
「左上……?」
体を起こしたユキナリは斜め上を見やった。綺麗な夜空が広がっている。
「ああ、違う違う。こう、頭の向きは変えずに、目で左上を見るんだ」
「なるほど」
視界の左上から真ん中上くらいにかけて、緑色のバーが伸びている。その下には、緑のよりだいぶ短めの青いバー。さらにその下に、黒枠に青いアルファベットで《Fimbulvetr》と表示されている。フィンブルヴェトルとよむのか、これはなんだろうと頭を捻るまえに、トールが押し殺した笑いを漏らした。ユキナリはむっとして問い詰める。
「なんだよ」
「いや……くくっ、お前の顔が……あまりにも……ぷぷっ……貧相な子犬がガン飛ばしてるみたいで……あははははっ!!」
あんまりではないか。確かに自分の顔は美しくは無いが、それでも自分ではこれはこれで、と納得し受け入れている、両親から貰った顔である。半ばショックを受けたユキナリはぶすっとして口を開く。
「……んで、このゲージと名詞らしき何かはなんだよ」
「あーはははは、はー……。ユキナリ、冗談通じないタイプか? だったら悪い、泣くなよ」反省の色が見られない顔で続ける。「ゲージとその下の名前? だいたいアンタの想像通りだよ。上から順番に、HPゲージ、MPゲージ、キャラクターネームだ」
長ったらしいキャラクターネームだが確かにある程度想定内である。呼び名はフィンブルで確定だな、とユキナリは低く呟く。だがしかし、これで確かに異世界、そしてゲームということが分かった以上、何を差し置いても訊かなくてはならないことが二つ存在する。
「エヴォルヴァースがMMOみたいなもんだ、ってことは分かった。だから訊くが、ログアウトーー帰ることは可能なのか?」
「ああ、可能だ」
あんまりあっさりと答えられて拍子抜けするユキナリを前にトールは続ける。
「具体的には、大きな町やボス級のいるダンジョンなんかの中にある《記憶石》を操作することで出来るんだ。ってことでいつでもどこでも即時ログアウトってワケには、だな」
つまり、ちゃんと日乃や家族がいる現実には帰れるということだ。
「再ログインの方法は?」
父さんがエヴォルヴァースにいるなら、探しにこられる方が良いに決まっている。
「簡単だ。夜眠るだけでいい。いちど繋がった夢幻回路を通って、勝手にユキナリはエヴォルヴァースに運ばれるよ。というか、それ以外にエヴォルヴァースに入る方法は無いし、一度ログアウトするとその後6時間は夢幻回路の安定のためにログイン出来ない」
眠りの中でしか来ることが出来ないまさに夢の世界、という訳だ。ログアウト可能だと分かった以上、多少は安心出来るが、まだ大切な質問が一つ残っている。
「そのエヴォルヴァースで、《死んだ》ら、どうなるんだよ?」
今まで商品としてユキナリが楽しんできた古今東西の異世界プラスゲームものの小説の多くに、《死んだら本当に死ぬ》という設定があった。エヴォルヴァースがデスゲームなのかどうかは、絶対に確かめておかなくてはならない。
ユキナリがあんまり真剣な顔でいたからか、トールも笑みを消して沈黙した。その数秒後、こっちを安心させるような表情で答える。
「大丈夫だ。エヴォルヴァース内で死亡した場合は、直前にセーブした記憶石で復活出来るよ。デスペナルティーは有体に言うところの経験値だ。でもこれは、一回のログインにおける死亡回数が2回以内の場合」
「2回を超えると?」
やっぱり死んでしまうのだろうか。再び心配するユキナリへの答えは、死ほど重いものでもなかった。しかし、軽いとは全く言えないものだった。
「その場で強制的にログアウトして、そのプレイヤーの持つ思い出を全て忘却する。それ以降永遠にプレイヤーとしての資格を失い、二度とエヴォルヴァースに来ることは出来ない」
「…………は?」
「自分が何者かも含め、知識としての記憶を除くあらゆる《思い出》を失うんだよ」
何もかも忘れてしまうと。記憶喪失になると、奴はそういったのだ。
「それ…………あんま笑えないな。だいたいそんなルール作って、みんな安全な街の中に引きこもってんじゃないのか?」
「そうならないために一度のログインに2回も猶予が与えられてるんだろ?」
ユキナリが早口で言った言葉を、トールは笑って片付けてしまう。ユキナリも頷くしかない。
「とりあえず、これで最低限のチュートリアルは終わりだよ。一旦現実に帰すから、今夜から早速楽しんでプレイしてくれ」
トールはそう言って、ユキナリに向けてサッと手を振った。するとユキナリの足元を、直線で複雑な模様の刻まれた大きな円が取り囲んだ。来るときと同じ青緑の光が身体を包み、轟音と共に視界を奪っていく。前が完全に見えなくなり、意識が薄れ始めたとき、トールが光越しに言った。
「ユキナリと次、いつ会えるか分からないけど……会えたとき、お前の目的はかなり前進するはずだ。楽しみにしててくれよ」
何もかも分からないことだらけだ。正直結局、これは夢のようなものなのかもしれない。でも、もう望みはないと思っていた父親の痕跡があって、この世界はそこに続いているのかもしれないという。ならこれで良い。ユキナリは渦巻く炎のような光の中に、意識を投げ出した。
そのまま体から力が抜ける。足元も分からない。落ちる。落ちていく――。




