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この世界にはいわゆるネットゲームなる、決められたシナリオとエンディングの存在しないゲームがある。全てはプレイヤーがいかにキャラを操り冒険するか、それだけであり、それこそが大規模オンラインゲーム。略してMMO。
ではそんなネットゲームの醍醐味は何かと聞かれれば、天沢雪成は迷わずキャラメイクと答えるだろう。
武器は剣か。槍か。はたまた斧か。剣にするとして、長剣か、刀か、短剣か。スキル構成はどうするのか。ダメージディーラー、タンク、スカウト、エトセトラ。膨大な組み合わせの中から自分にとっての最強を見つけ出すのは、ユキナリにとって、ただゲームを攻略するよりもずっと面白いことだ。
今、ユキナリがPCの前で操るアバター《ジャファル》は、敏捷特化の暗殺者。基本的にユキナリの好む構成はスピード型で、麻痺や毒などの間接攻撃でじわじわ削るタイプか、クリティカルをがしがし叩き込むスタイルを得意としている。このジャファルはクリティカルの出やすい構成だ。
密集した木々の中を黒衣のアサシンが歩く。ユキナリはこのマップが、幼いころ、夜中に迷子になった裏山によく似ているという理由で好きではない。あの時の不安を呼び起こす画面の奥で、一体の小型亜人モンスターがポップした。レベル38、《フューリーゴブリン》。小型にしてはかなりの攻撃力を誇る。まだこちらには気付いていない。
ユキナリは隠蔽スキル全開でジャファルをゴブリンの後ろに近づけた。バックアタックが決まれば、一つの連続技で敵のヒットポイントを楽々吹き飛ばせる。ユキナリはキーボードを叩いた。
「消えろ!」
ジャファルはカタールを振り下ろし、こちらに気付かない間抜けなゴブリンの頭に斬撃を加えた。バックアタックだけでなくクリティカルヒットが適用され、一気にゴブリンのHPゲージが青から黄色に変わる。半秒ほどノックバックするゴブリンに次々と曲刀が打ち下ろされ、コンボフィニッシュと共にオブジェクト破砕音が響く。ゴブリンは跡形もなく、真っ白な破片となって飛び散った。ドロップしたアイテムを一瞥して、画面外のユキナリは呟く。
「またハズレか……」
ユキナリは現在素材収集の最中であった。このゴブリンを狩り始めてからすでに2時間は経つが、お目当てのアイテムはドロップレートが相当に低く、目標量にはまだ程遠い。
今回はこの位で切り上げることにして、ユキナリはジャファルを拠点の村に戻した。宿屋の一室でログアウトし、PCに表示された時刻を見た。木曜日朝7時50分。そろそろ急がないと学校に遅刻してもおかしくない。
ユキナリはとりあえず顔を洗い、着替え、リュックに教科書や姉の作ってくれていた弁当その他を詰め込んだ。残念ながら朝食をとる時間は無い。ダークブルーの簡素な傘をひっつかみ、ユキナリは玄関のドアを開けようとする。
ノブを掴んだところで、ユキナリはポケットの中の携帯端末が振動するのを感じた。画面を一瞥すると、『遅起きは置いていくからね!』とのテキストメッセージ。別に寝坊した訳じゃない。ただゲームしてただけだ、と差出人に心の中で無意味な反論を試みる。リアルであいつに向かって試した所で、こちらの言葉が瞬殺されることは目に見えている。とにかく、あいつは今まで待っていてくれたようだ。ユキナリは急いで家を飛び出し、数十メートル先を歩くお隣さん――幼馴染の穂坂日乃に声をかけた。「待てよ、日乃」
日乃がこっちを振り返った。そして、何事も無かったかのように歩き出す。ユキナリは慌てて叫ぶ。
「おい、待てよ日乃!」
「遅起きは置いてく」
「俺は起きてた!」
「どうせ徹夜でゲームでしょ」
「うっ、その通り……。でもどうかゆっくり歩いてくれ」
「自業自得」
「……その通りだ」
ユキナリの近所は、駅から10分の人口密度小さめの古風な町だ。ごく近くに住む同年代は日乃くらいしかいない。駅まで来ても、さして栄えていない田舎であるが故に、人影はまばらだ。
だから、ユキナリの弱点、というか性質が露わになることはない。今はまだ。
湿り気はそこそこ。日照は良好。前線が去った後の平野部の降水確率は、午前20パーセント、午後20パーセント。雲量にしてみれば2か3かと言ったなかなかの好天の下、傘を持ち登校するユキナリ。見回せば田んぼすら見えるようなこの田舎町ではあまり浮くことも無いけれど。
「りー、あんた今日も傘持ってんの?」改札を抜けて電車を待つホームで、日乃が呆れたように訊いた。
その言葉は、ユキナリの顔をミリ単位であるが歪ませる。生まれた感情は、苛立ちとか、反感とかだと思われる。無視する訳にもいかないので、ユキナリは反駁しながら微妙に話題をずらした。
「ひーちゃんって呼ばれたくないならそのあだ名止めろ」
「その名前をあと一度でも呼んでみなさい。それがあんたの最後の言葉になる」
りー、そしてひーちゃんとは、日乃とユキナリが保育園に通っていた頃にお互いが使っていた呼び方だ。今でも二人ともパブリックスペースで使ってはお互いを注意する日々が続いている。特にユキナリがうっかりひーちゃんと言ってしまったときの日乃は凄い。
ユキナリが傘について触れられたくないことをよく分かっている日乃は、それ以上の追撃はしなかった。幸い、長い沈黙が訪れる前に電車が来る。それはユキナリにとっては不幸にも、だったかもしれない。
車内に入った瞬間、ユキナリの体がギシリ、と身体が凍りつく。
イヤホンで耳を塞いでいる大学生。携帯端末を操作する中学生。手鏡を覗きこむ女性。スポーツ新聞を読む中年男性。
一人もユキナリに――いや一人くらいいるかもしれないが――注意を払ってすらいないというのに、ひどく恐怖を覚えるのだ。呼吸がわずかに速くなり、傘を持つ手に力が入る。目に映る全ての人が、次の瞬間敵になって襲いかかってくるような、そんな感覚。今日はこれでもまだ軽い。隣の日乃が、ユキナリにバレないように、そっと表情を伺う。
これこそが、ユキナリの弱点と言える性質。軽い人間恐怖症なのだ。まともに接することの出来る他人なんて、家族と日乃を始めとするごく一部の人間だけ。もともと人付き合いはそこまで得意ではなかったが、最初からこんな重症だったのではない。ユキナリは、全ての元凶となった中一の夏を思い出していた。