第十五話:【第四幕:彫像と守護者】(挿絵あり)
現実のアーガスは、立ったまま動かなかった。
焦点の合わない黒い目。
僅かに震える指。
額から流れた汗が顎を伝い、泥へ落ちる。
呼吸だけが浅い。
「おい!」
若い矮人が腕を掴んだ。
「白百合の弟! 行くぞ!」
反応がない。
「こいつ、腰抜かしたのか?」
「違う、引っ張れ!」
二人が左右から肩を取ろうとした。
その前に、トールが腕を伸ばした。
「触るな」
低い声だった。
二人が止まる。
「でもトール、このままじゃ」
「触るなって言ってんだ!」
怒声が飛ぶ。
トールはアーガスの顔を見ていた。
弟の目に焦点はない。
恐怖で凍った人間なら、もっと周囲を見る。
逃げ道を探す。
助けを求める。
今のアーガスは、何も見ていなかった。
昔から知っている目だった。
図面の前へ座ったまま、食事の声も聞こえなくなる時。
失敗した部品を前に、何時間も瞬きすら減る時。
そして、その後で誰も考えなかった物を持ち出してくる時。
いつも、この目をしていた。
「考えてる」
トールが呟いた。
「何?」
「こいつは今、考えてるんだ」
母獣の咆哮が響いた。
黒曜が開けた左胸の傷は、もう出血が弱くなっている。
巨体が再び動く。
十二本の金属脚が持ち上がった。
ぎり。
ぎりぎり。
耳障りな摩擦音が近づく。
母獣の赤い目が、前方の黒曜へ向く。
その奥。
動かないアーガスたちへも向いた。
「時間がねえぞ!」
誰かが叫んだ。
トールは地面の塔盾を拾った。
泥を払いもしない。
アーガスの前へ立つ。
背中を弟へ向ける。
盾を構える。
「周りを空けろ!」
「トール?」
「こいつの邪魔をするな!」
戦斧を盾へ叩きつけた。
がん。
重い音が響く。
「何が飛んできても止めろ! 枝でも石でも、蜘蛛でもだ!」
矮人たちが顔を見合わせる。
母獣を見る。
アーガスを見る。
最後にトールを見る。
「……本気か?」
「本気だ」
トールは振り返らない。
「信じろ」
短い一言だった。
ゲイルが歯を食いしばった。
「円陣!」
声が飛ぶ。
「こいつの周りを固めろ!」
矮人たちが動いた。
盾を上げる。
斧を構える。
負傷した者まで立ち上がる。
アーガスを中心に、小さな円ができた。
トールは盾越しに母獣を睨む。
口元だけが吊り上がった。
「ったく、この馬鹿弟が」
弟には聞こえない。
「何を考えてるか知らねえが、急げよ」
戦斧を握る手に力を入れる。
「兄ちゃんの命、今だけお前の頭に預けるぞ」
その背後で。
アーガスはまだ、一歩も動かなかった。




