epilogue
まどろみの中で声がする。あなたでよかったって、本当にありがとうって、そんな声が。
心地良い響きは、懐かしい情景を目にしたときと同じような湿った思いを起こさせる。
戻れはしない切なさ。大切にしても霞んでいく記憶。でも、そこにいたことは残っているはず。これからも残っていくはず。
少し前まで忘れていたけど、もう、そんなふうにならないから。
よろよろした気持ちでいると、空……現実にあるあの青い空じゃなくて、夢の中で「そういうものとされている」空から、きらきらしたものが降ってきた。ふわふわと降ってきた。
――あなたでよかった。
――本当にありがとう。
声がまた、木霊する。
何回も何回も、それで空間がいっぱいになるかと思うくらい、たくさんたくさん聞こえてきた。温かなものが心に流れ込んでくるような……何だろう、似たような感覚、最近どこかで。
「ふ、ふえ、ふえくしゅっ」
ふわっと浮かび上がった真っ白な何かと、金の糸。
「う、うう……?」
「おはようございます、なつきさん」
うん? やけに近いところから声が……って!
「あ、ああ天使くん!?」
「はい。具合はどうですか?」
「ち、ちち近……っ!?」
「地下? ここは地上ですよ、なつきさんの部屋です。……寝ぼけて、いるんですか?」
「近いって言ったのー!」
私の顔と、天使くんのかわいらしいご尊顔との距離がー!
金の糸だと思っていたものは天使くんの柔らかな髪の毛だったらしく、それは結構な近さ、多分三十センチもないところにあった。いやもうあのね、普通に無理だし殺す気か?
勢い任せに天使くんを押しのけ起き上がると、目の前にふわふわしたものが降ってきた。
「……羽根?」
見れば、部屋中に真っ白な羽根が散乱していた。しかも、一枚とか二枚とかいう数じゃない――まさかと思って天使くんの肩を掴む。
「な、なつきさん?」
強引に左に捻って、愕然とした。
天使くんの一つきりの羽が、ほとんど無い。
片方の羽は付け根から無くなっていても、残ったほうの羽は立派なものだったのに。今の「ほとんど無い」っていう状態は、たとえるなら枯れ枝のようだった。
はらはらはらはら……抜け落ちてしまった、みたいに。
手に込めた力が緩むと、天使くんはこちらに向き直った。
「あの……ええと……その」
テンシの羽は存在の証だ。
そんなものがすべて無くなってしまえば、天使くんはどうなるか。
言い淀んだ天使くんを前に、私はぐるぐる考えていた。
間接的にしか知らないけど、彼が行ったのは浄化みたいなものだと思う。天使くんはこの部屋にあるアクマの形跡を取り除くために、その羽根を使ったのだ。
「……オレ、なつきさんに感謝してるんです」
躊躇いがちに口を開いた天使くんが、穏やかに微笑んだ。
「ずっとわからなかったことが、わかるようになったんだ。何が大切なことなのか、なつきさんが教えてくれた。ヒトは弱くなんかなくて、むしろ強い生き物だってこと。テンシより、もっとずっと」
なに、それ。
まるで幸せだって言っているような顔をして。大事な羽がほとんど無くなってしまったっていうのに、私はそれがすごく心配なのに、天使くんは霧が晴れたように笑っている。
それはとってもかわいくて、ちょっとだけ格好良くて……いつもと違う何かを含んだ不思議な笑みだった。
「……天使くんは、いなくなっちゃうの?」
思うまま、聞いてみる。
「いいえ」
返答は早かった。
「羽はまだあるんです。それにオレはなつきさんの守護テンシですから、これからもそばにいます」
ふわりと深くなった笑顔と一緒に、ふわりと、いろんなものが軽くなった。
気付けば部屋全体が淡く発光していた。
ぽかぽかとした温かさはひだまりに似て、さっきまでの不安な気持ちを安心なものに変えていく。
「……綺麗」
きらきらと消えていく光の中で、私の右手を持ち上げた天使くんがしずやかにこうべを垂れる。手の甲に落とされたキスは、あの日の祈りのようだった。
困ったことに、ぽろりと涙がこぼれた。
「……あのね、天使くん。私ね」
顔を上げた天使くんは私の涙に驚かない。
何も言わないって決めた。嘘も本当も、自分で隠したものは全部、言わないって。
だけど。
「私……昔の話にするには、まだ、時間が掛かりそうだから」
優しい眼差しで私の話を聞いてくれている天使くんに、隠したものは伝わらなくていい。でも、隠し事を作った私のことは受け止めてほしいとか、そんな勝手なことを思った。
唇に力がこもる。
「大切に……持っていてもいい、かな……?」
私が口にできる言葉はこれで精一杯だった。これ以上は、下手なことまで言っちゃいそうな気がしたから。
しなやかに伸びてきた左手が私の涙を拭う。天使くんは見たこともないような顔をしていた。
泣きたいのか怒りたいのか、もしかしたら本人もよくわかっていないのかもしれない、複雑な表情。
でもそれは一瞬のことで、まばたきをする間に天使くんはいつもの笑顔を浮かべていた。
「もちろんです」
はっきりした口調。
肯定の言葉。
光の収まりつつあった部屋、私は天使くんの手を強く握った。
「私、私もね! 天使くんに会えて、天使くんがとなりにいてくれて、うれしい。天使くんが私の守護テンシでいてくれて、本当によかったって。私、私は――」
にこにこしながら相槌を打ってくれる天使くん。
「え、っと……」
……何かちょっと、恥ずかしいこと言ってるような、気が。してきた。
顔が熱い。
「だ、だからね、その……」
我に返ったのがいけなかったのかもしれない。だって、天使くんが喜んでるように見えた、から……?
頭が真っ白になりかけたところで、両手がきゅっと握り返される。
「ありがとうございます、うれしいです。オレ、もっと頑張ります」
どきどきどころじゃない。そんなもので済むわけない。
止まる。
ねえ、厄介なおとなりさん。私はいつか、呼吸の仕方を忘れてしまうかもしれないよ。
「……なつきさん?」
「天使くん」
「はい」
大きく息を吸って。
ゆっくり吐いた。
「……これからも、よろしくね?」
間を置いてもう一度握られた手はぎゅっと痛かったけど、しっかりうなずいた天使くんがちょっとだけいじらしくて。
私も一生懸命、その手を握り返した。
fin.