第7話 『外側2:甘やかなる大逆罪』
1 後宮の地盤沈下と、盤面の『詰み』
第一側妃ヒルデガードは、自室の鏡の前で己の顔に僅かに差した疲労の色を睨みつけていた。
この一年、彼女を取り巻く状況は音を立てて崩れ落ちようとしている。
実家であるゼノビア侯爵家が身内の不祥事で謹慎となり、彼女は最大の後ろ盾であった「近衛の武力」を喪失した。国王ゼノンは政務の重圧から逃げるように若き妾妃たちの部屋に入り浸り、後宮の秩序を保つべき王妃もまた、国王の業務の肩代わりで疲労困憊に陥っている。
だが、ヒルデガードにとって自身の権力低下などよりも遥かに恐ろしい「王国の危機」が、今まさに後宮で進行していた。
第三側妃ソフィアの台頭である。
『……あの卑しい狐女め。王家の品位も知らぬ魔導派の分際で、私のグラクトを骨抜きにするつもりか』
ルナリアの正論に自我を破壊されたグラクトを、ソフィアは「無条件の肯定」という甘い毒で絡め取り、完全に依存させてしまった。
ヒルデガードの目から見れば、それは『王国の崩壊』と同義であった。
王とは、時に血を流し、泥を被ってでも、気高く厳格に体制を牽引する強き存在でなければならない。それが武門ゼノビアの血を引く彼女の絶対の正義だ。
しかしソフィアは、グラクトから「困難に立ち向かう義務」を奪い、ただ甘やかして現実逃避させることで、彼を魔導派(セラフィナ侯爵家)の都合の良い傀儡へと作り変えようとしている。
『このままでは、王家の伝統と品位は失われ、国は口先だけの理屈をこね回す魔導派どもに乗っ取られる。グラクトの精神は完全に腐り落ち、ただ玉座で頷くだけの哀れな操り人形に成り下がってしまう……!』
ヒルデガードは、手の中の扇子をミシリと軋ませた。
ソフィアの猛毒からグラクトを奪還し、再び「気高く強い王」として育て直さなければならない。それは母としての情であると同時に、王国の伝統を守る第一側妃としての崇高な義務であった。
しかし、盤面は『詰み』に等しい。
ゼノビアの武力を失った今の彼女には、台頭する魔導派を力で叩き潰す手札がない。
彼女は、ゼノビア特有の力押しを嫌悪して鍛え上げた己の頭脳をフル回転させ、王宮の勢力図を冷徹に精査し始めた。魔導派に対抗しうる、王宮に家職をもつ「侯爵家」を引き入れるために。
だが、その分析結果は、彼女を深い絶望へと突き落とすものであった。
『軍部を束ねる元帥・アイゼンガルト侯爵は、国境警備で王都にいない。内務卿・メルカトーラ侯爵は計算高く、すでに有能な影である第二王子リュートの側を贔屓し始めている。貴族院議長・カルネリア侯爵は、息子エドワルドがすでにグラクトの側近として機能している以上、今さら父親を操っても魔導派への新たな牽制にはなり得ない。そして魔導卿・セラフィナ侯爵は、打倒すべき敵そのもの……』
残る侯爵家は二つ。
近衛を司るゼノビア侯爵家は、謹慎中で使い物にならない。
ならば、残された最後の、そして最強の一角は――。
『……国政のすべてを統べる頭脳、宰相・ヴァルメイユ侯爵家。彼らの首輪さえ握れれば、魔導派など容易く潰せる。……だが』
ヒルデガードは、ギリッと血が滲むほど唇を嚙み締めた。
『今の老宰相は、到底私の手に負える相手ではない』
長年国政を牛耳ってきたあの老獪な狸は、女の魅力や浅知恵など一切通用しない冷徹な現実主義者だ。不用意に近づけば、逆にこちらが利用され、切り捨てられるのは火を見るより明らかであった。
実家の脳筋を嫌悪し、理知的に盤面を分析したからこそ、彼女は客観的かつ残酷な結論に行き着いてしまう。
「……打つ手が、ない」
ヒルデガードは鏡の前で、力なく扇子を取り落とした。
どこをどう計算しても、現状の王宮の盤面には彼女が付け入る隙が存在しない。完全なる『詰み』であった。
愛する息子が腐っていくのを黙って見ているしかないのか。王国の伝統が、あの狐女に汚されるのを止められないのか。鍛え上げた知性ゆえに突きつけられた逃げ場のない無力感と絶望が、毒蜘蛛の精神を、暗く冷たい底へと沈めていくのだった。
2 新宰相ヴァルメイユの就任と、標的の選定
季節は春。ローゼンタリア王国において、この季節の到来は単なる気候の変化以上の、極めて重要な政治的意味を持っていた。
王国では古くからの慣習法により、『春の日』を迎えると同時に全国民が一斉に年齢を一つ重ねる。それゆえ、急死などのイレギュラーがない限り、貴族の家督相続や大規模な役職の交代は、すべてこの『春の日』の節目に合わせて行われるのが通例であった。グラクトたちが王立学園に入学するのも、まさにこのタイミングである。
そして今年の春。王宮の勢力図を根底から揺るがす、一つの巨大な「代替わり」が正式に発表された。
代々宰相職を世襲する名門・ヴァルメイユ侯爵家。長年にわたり国政の裏表を冷徹に牛耳ってきたあの老獪な狸(前宰相)が、老齢を理由に突如として引退を表明し、実の息子である現ヴァルメイユ侯爵へと、その地位と権力のすべてを譲り渡したのである。
それは、完全なる手詰まりの絶望に沈んでいた第一側妃ヒルデガードにとって、思いがけず盤面に生じた『未知の変数』であった。
数日後、王宮の豪奢な回廊。
新体制の挨拶回りに訪れていた新宰相ヴァルメイユと、侍女を連れて通りかかったヒルデガードが、計算された「偶然」のすれ違いを果たした。
「――これは第一側妃殿下。ご機嫌麗しゅう存じます」
新宰相は、父親譲りの知的な顔立ちを緊張でわずかに強張らせながら、第一側妃に対して完璧な臣下の礼をとった。
ヒルデガードは足を止め、伏せられた彼のつむじから、仕立ての良い真新しい宰相の礼服までを、冷徹な観察眼で瞬時に値踏みする。
『……あの老獪な前宰相とは、まるで空気が違う。偉大すぎる父の威光を受け継ごうと必死に背伸びをし、その重圧に押し潰されそうになっている青臭い若者。……果たして、盤面を覆す私の「手駒」になり得る男かしら?』
絶望的な詰みの状況下において、ヒルデガードの精神は「この男が使えるか否か」を早急に見極めたいという焦燥に駆られていた。ダメなら即座に別の突破口を探さねばならない。
彼女は内心の急き立てられるような焦りを完璧な淑女の仮面の奥底へと封じ込め、王宮の頂点に咲く気高く慈悲深い白薔薇として、静かに探りを入れる。
「新体制への移行、心よりお慶び申し上げますわ、ヴァルメイユ侯爵閣下」
ヒルデガードは扇子を静かに閉じ、春の陽だまりのような、それでいて相手の緊張を解きほぐすような極上の微笑みを向けた。
「偉大な御父上の後を継がれる重責、いかばかりかとお察しいたします。陛下の御為、そしてこのローゼンタリアの未来のため、重圧に耐えようとする閣下のその真摯なお姿……大変頼もしく拝見しております」
「っ……もったいないお言葉です、側妃殿下。父の名に恥じぬよう、身を粉にして国政に尽くす所存です」
新宰相は、第一側妃からの温かく思いやりに満ちた労いの言葉に、わずかに頰を緩め、安堵の色をはっきりと顔に滲ませた。
周囲から「あの偉大な前宰相の息子」としてしか見られず、冷徹な評価の目に晒され続けていた彼にとって、自分個人の苦労や真摯さを真っ直ぐに認め、労わってくれる第一側妃の存在は、予想以上に深く胸に刺さったようだった。
『……驚くほど脆い。付け入る隙すら無かった父親とは大違いだわ』
ヒルデガードの脳内で、冷酷な算盤が弾かれる。
この男は、父親の幻影と国政の重圧という二重の鎖に縛られ、精神的に孤立している。「理解者」という名の甘い水を与え続ければ、必ずこちらに依存してくる。
手駒として、十分に『使える』。
「閣下は生真面目であらせられるから、どうか御無理だけはなさいませんように。……私でよろしければ、微力ながら、第一側妃としていつでもお力添えをお約束いたしますわ。何かお困りのことがあれば、遠慮なく私を頼ってくださいませね?」
優雅に微笑み、労りの言葉だけを残して、ヒルデガードは香水の残り香と共にその場を立ち去っていく。
すがりつくでもなく、要求するでもない。ただ「貴方の重圧を理解し、見守っている絶対的な味方」としての立ち位置を、完璧な品位をもって印象付けた。
見送る新宰相の目には、彼女が「国を憂う、慈悲深く気高い第一側妃」として完全に刻み込まれていた。
己の孤独を見透かされ、王宮で最も恐ろしい毒蜘蛛の巣へと「使える駒」として値踏みされたことなど、生真面目な若き宰相は知る由もなかったのである。
3 激務の重圧と、毒蜘蛛の「大義名分」
名門ヴァルメイユの跡を継いだ新宰相の船出は、本人が覚悟していた以上の過酷なものであった。
偉大なる老宰相からの膨大な引き継ぎ業務だけでも殺人的であるのに加え、武官トップである近衛騎士団長の謹慎により、本来であれば軍部や近衛が処理するはずの治安維持に関する決裁までもが、すべて文官トップである彼の肩にのしかかっていた。さらに内務卿の管轄からは王都の治安悪化に伴うトラブルの報告が連日のように上がり続け、新宰相は就任早々、重圧と激務によって完全にパンク寸前の状態に陥っていた。
この状況を冷徹に観察していたヒルデガードは、ただちに国王ゼノンと王妃マルガレーテへの謁見を申し入れた。
王宮の執務室。
長椅子に深く腰掛ける国王ゼノンは、第一側妃ヒルデガードが優雅なカーテシーをとった瞬間、その顔に隠しようのない深い憎悪と嫌悪を浮かべた。
この一年、彼が彼女の寝所に一切寄り付いていないのは、決して臆病風に吹かれたからではない。消えることのない純粋な憎しみと、底知れぬ嫌悪感ゆえであった。
ゼノンの常識からすれば、あの時ルナリアはただ『情交奉仕者』の役目を辞退しただけである。たったそれだけのことで、凄惨な拷問死に至る暴挙を裏で糸引くなど、正気の沙汰ではない。ゼノンの目から見て、ヒルデガードの思考回路は完全に理解不能であり、同じ空間で呼吸をすることすらおぞましい存在でしかなかった。
「……ゼノビアの不始末による近衛の機能不全が、新宰相閣下に多大なるご負担をおかけしていると伺いました」
ヒルデガードは、国王の憎悪の視線など気にも留めない様子で、極めて殊勝な声を紡ぎ出した。
「ゼノビアの失態は、実家である私自身の恥でもあります。このままでは王国の政務が滞り、陛下や王妃様にもさらなるご心労をおかけしてしまう。……どうか汚名返上のため、新宰相の業務の一部を私が引き受け、彼を補佐させてはいただけないでしょうか」
実家の不始末を償うための、無償の献身。
誰も正面からは反論できない『大義名分』であった。
「……好きにしろ。余は、お前の顔など二度と見たくない。マルガレーテ、後は任せる」
ゼノンは吐き捨てるように言い残し、足早に執務室の奥へと消えていった。
後に残された王妃マルガレーテは、氷のように冷たい青い瞳で、伏し目がちなヒルデガードをじっと見据えた。
この毒蜘蛛が純粋な反省で動く女ではないことなど、とうの昔に見抜いている。必ず裏に、自己の権力拡大という打算がある。
だが、盤面の管理者たる王妃の思考は、感情論ではなく、極めて冷徹な『宮廷政治の勢力図』に向けられていた。
『……現在の後宮は、あまりにも均衡を欠いている』
第三側妃ソフィアを擁する魔導卿の勢力が、後宮での発言力を極端に強め、グラクトを完全に掌握しようとしている。さらに貴族院議長も、息子を通じてそちらへ傾きつつあった。
対する第二王子リュート派には内務卿がついているが、彼は後宮の権力闘争には一切興味を示さない。何より、あの知性の怪物たるリュートが、本気でグラクトを玉座へ押し上げる気があるのかどうか、王妃にはいまだに測りかねていた。
このまま魔導派が後宮と次期国王の精神を完全に独占する事態は、王国の安定において極めて危険である。三竦みとまではいかずとも、ソフィアの独走を牽制する『もう一つの手駒』が、どうしても必要だった。
『……この毒蜘蛛を盤面に残すのは危険だ。だが、リュートの動向が不透明で内務卿が後宮に介入しない以上、魔導派への牽制として使える駒は、もうこの女しか残っていない』
それは最適な選択などではない。後宮におけるソフィアの独走(猛毒)を防ぐために、あえて別の猛毒を新宰相の執務室という盤面に解き放つという、為政者としての『やむを得ない苦肉の策』であった。
「……よろしいでしょう。新宰相の負担軽減は急務です。貴女が実務をこなし、滞りなく国政を回す手助けとなるのなら、王家としても助かります」
「寛大な御心に、深く感謝申し上げます。王妃様」
ヒルデガードは深く頭を下げ、その扇子の陰で、妖艶な笑みを深く刻み込んだ。
国王の嫌悪と、王妃の勢力均衡を狙ったギリギリの政治的妥協。その両方の隙間を縫うようにして、彼女はついに、国政の最高権力者たる新宰相と密室で過ごす権利を勝ち取ったのである。
4 側妃の献身と、ソフィア懐妊の凶報
王宮の中枢に位置する、新宰相ヴァルメイユの執務室。
分厚い書類の山に埋もれそうになっていた新宰相の対面で、第一側妃ヒルデガードは、羽ペンを滑らせて極めて正確かつ迅速に政務の処理を行っていた。
「……閣下。近衛騎士団の予算編成と、王都の巡回警備の再配置に関する書類、こちらで不備がないか確認いたしました。決済のサインをお願いいたしますわ」
「おお……! 助かります、側妃殿下。まさか、これほど早く、しかも完璧に処理していただけるとは……」
新宰相は、信じられないものを見るような目で、綺麗に整理された書類の束を受け取った。
ヒルデガードは元々、知を鍛え上げた女である。ゼノビア特有の「力技」に偏る悪癖はあるものの、純粋な事務処理能力や王宮内の力学の把握においては、凡庸な文官を遥かに凌駕していた。
彼女は有能な補佐役として献身的に働きながらも、決して二人きりの密室にはしなかった。必ず実家のゼノビア侯爵家から連れてきた専属の侍女を部屋の隅に控えさせ、第一側妃としての「気品」と「適切な距離感」を完璧に保ち続けている。
王宮の侍女という生き物は口が軽く、醜聞に飢えている。ゆえに雇用時には魔法契約が必須だが、一般的な宮廷侍女の契約は「主から明確な箝口令を敷かれた事象についてのみ口外を禁じる」という緩いものであり、網の目を潜ることは容易い。
だが、ヒルデガードの背後に控える侍女は違った。彼女の魂には、極めて高価な専用の魔墨を用いた『第一側妃の不利益になる行為を一切禁ずる』という絶対の魔法契約が刻み込まれていた。
魔法契約は、署名者の心に恐怖や拒絶といった『魔力のノイズ』が少しでも混じれば、術式がショートして不発に終わる。無理やり脅迫して奴隷にすることは不可能なのだ。
だからこそ、ゼノビア侯爵家はこの侍女に対し、「一生遊んで暮らせる破格の対価」と「一族の生涯の生活保障」を提示した。侍女は自らの頭で計算し、その莫大な金のために『喜んで自分の口と自由を売る』という明確な欲望と覚悟をもって署名したのである。
意志と行動が完全に一致した純度の高い魔力で結ばれたこの共犯者(侍女)がいる限り、執務室での出来事が外部へ漏れることは絶対にない。
『……新宰相閣下にも、この魔法契約を使えれば手っ取り早いのですけれど』
ヒルデガードは、目の前で書類にサインする若き宰相を見つめながら、内心で冷たく嗤った。
誇り高き名門ヴァルメイユの当主である彼が、ゼノビアの金や権力程度の対価で自ら魂を売るはずがない。無理に署名させようとしても、彼の国を想う強い義務感や拒絶の意志が強烈なノイズとなり、契約書は燃え尽きてしまうだろう。
『契約魔法で縛れないのなら、絡め手を使うしかない。自らの意志で、私の足元に跪くように……』
書類を受け取る新宰相の指先が、ほんのわずかに自らの指に触れても、ヒルデガードは動じず、ただ静かに、慈愛に満ちた微笑みを返す。
決していやらしい隙は見せず、ただひたすらに「実家の不始末を償うため、孤立しながらも健気に国を支えようとする第一側妃」という高潔な虚像を演じ切る。
新宰相もまた、その虚像に完全に絡め取られていた。
就任早々、重圧に押し潰されそうになっていた自分を、見返りも求めずに完璧な実務能力で支えてくれる美しき女性。巷で囁かれる『毒蜘蛛』という悪評など、彼の中ではとうに消え失せていた。
代わりに芽生え始めていたのは、実家に振り回され、国王からも遠ざけられている彼女に対する「密かな同情」と、献身的な姿勢への「個人的な好意(憧れ)」であった。
ヒルデガードの放った見えない糸は、若き宰相の理性を、ゆっくりと、しかし確実に絡め取っていた。このまま時間をかけて精神的に依存させれば、彼は自ら喜んで彼女の手駒となるはずだった。
――だが、そんな矢先である。
後宮の勢力図を根底から塗り替える特大の激震が、ヒルデガードの耳に飛び込んできたのは。
『――第三側妃ソフィア様のご懐妊が、公式に発表されました!』
自室でその報告を受けたヒルデガードは、一瞬、ピタリと動きを止めた。
手にしていた高級な白磁のティーカップを、音を立てずにソーサーへと戻す。その所作は完璧な淑女のそれであったが、彼女の翠の瞳の奥では、凄まじい速度で冷酷な算盤が弾かれていた。
春を迎え、グラクトが十五歳となり王立学園へ入学したことで、第三側妃ソフィアは「第一王子の情交奉仕者」という役目を終えた。彼女が国王の閨に上がるのは当然の権利だ。
だが、まさかこれほど早く子を宿すとは。もし、ソフィアが産む子が『男子』だったらどうなるか。
現在、第一王子グラクトの王位継承権は、ルナリア暗殺事件の余波によって「白紙(保留)」状態となっている。そんな中で、強大な権力を持つ魔導卿の娘が男児を産めば、魔導派は間違いなく総力を挙げてその赤子を『次期国王』の座に推すだろう。
『……ええ。私の見立ては、完全に正しかった』
焦りよりも先に、ヒルデガードの口元に暗い歓喜の笑みが浮かんだ。
もしあの時、絶望して何の手も打たずにいれば、私とグラクトは完全に居場所を失い、すべてが魔導派に簒奪されて終わっていた。私が新宰相の執務室に入り込んだ判断こそが、王家を救う唯一の正解だったのだ。
自らの行いが「王国を救う正義」であると完全に裏付けられた瞬間だった。
だが、同時に絶対的な『時間制限』が設定されたことも事実であった。
『ソフィアが子を産み落とすまでの数ヶ月。……悠長に新宰相の心を溶かし、自然と私に依存してくるのを待っている時間はないわね』
ソフィアの出産と同時に魔導派が攻勢をかけてきた時、宰相が「完全にこちらの意のままに動く手駒」でなければ対抗しきれない。もはや、時間をかけた精神的な籠絡では間に合わないのだ。
『少々荒療治になるけれど……一瞬で彼を私の足元に繫ぎ止める、入念で決定的な罠を仕掛けるしかないわ』
それは焦燥による暴走などではない。自らの正当性を確信した毒蜘蛛が、時間をショートカットするために、若き宰相を逃げ場のない泥沼へと引きずり込むための極めて冷徹な決断であった。
5 密室の慰労会
ソフィア懐妊の凶報を受け、計画の前倒しを決断したヒルデガードの行動は迅速かつ完璧だった。
数日後。近衛騎士団の再編と大規模な予算編成という、新宰相の肩に重くのしかかっていた巨大な業務がようやく一段落した夜のことである。
「閣下、本当にお疲れ様でした。……今夜はせめて、閣下の激務を労いたいのです。ささやかですが、祝杯を用意いたしましたわ」
執務室での作業を終えた後、ヒルデガードは労いの言葉とともに、王宮内にある客室での簡単な慰労会を提案した。
すっかり彼女を「無償で自分を支えてくれる慈悲深き第一側妃」と信頼しきっていた新宰相は、何の警戒も抱くことなく、その甘い誘いを受諾した。
案内された客室は、重厚なカーテンが引かれ、薄暗いランプの光だけが揺らめく静謐な空間だった。
部屋の隅には、あの『絶対の魔法契約』に縛られ、口を割ることも裏切ることも不可能な実家の侍女だけが影のように控えている。誰の目にも触れず、絶対に情報が漏れることのない、完璧な密室がそこに完成していた。
「さあ、閣下。今夜くらいは政務を忘れ、少しだけ肩の荷を下ろしてくださいませ」
ヒルデガードは優雅な所作で、美しいクリスタルグラスに赤ワインを注ぎ、新宰相へと手渡した。
そのグラスの中にはすでに、あらかじめ彼女が用意していた無色透明の『劇薬』が致死量ほど混入されている。それは毒ではない。極度の疲労状態にある者の脳に作用し、理性や警戒心をドロドロに溶かし尽くして、本能と情動をむき出しにさせる強烈な媚薬である。
何も知らぬ新宰相は「ありがとうございます」と微笑み、そのワインを喉の奥へと流し込んだ。
酒を交わし、ヒルデガードは新宰相の苦労話に優しく相槌を打つ。
薬効は、新宰相の極限の疲労感と混ざり合いながら、急速に彼の血肉へと回っていった。視界が微かに熱を帯び、思考の輪郭が曖昧になっていく。頭の芯が痺れるような感覚の中で、目の前に座る第一側妃の姿が、やけに艶かしく、そして甘く瞳に焼き付いて離れなくなる。
薬が十分に回ったことを冷徹に見極めると、ヒルデガードはふと目を伏せ、憂いを帯びた、ひどく儚げな瞳で彼を見つめた。
「……閣下は、名門ヴァルメイユ侯爵家を背負い、国のために身を粉にしておられるのに……邸に帰る時間もなく、さぞお寂しいでしょう」
それは、重圧に押し潰されそうになっていた彼の孤独を、的確に穿つ言葉だった。
新宰相が何かを言いかけるより早く、ヒルデガードはそっと身を乗り出し、テーブルの上に置かれた彼の大きな手の上に、自らの白く滑らかな手を重ねた。
ビクリと、新宰相の肩が震える。
むせ返るような白薔薇の香水が、彼の鼻腔を甘く麻痺させる。重なった肌から伝わる熱が、薬によって溶けかけた理性をさらに激しくかき乱していく。
「実は……私も、寂しいのです」
ヒルデガードは、潤んだ瞳で新宰相を真っ直ぐに見つめ上げた。
気高く、完璧な淑女であったはずの彼女が見せた、あまりにも無防備で生々しい「女」としての弱さ。
「この一年……陛下は私のもとへは、一度も渡ってきてはくださらない。冷たい夜を一人で過ごすたび、私は、女としてこのまま干からびてしまいそうで……」
ポツリとこぼれ落ちたその悲痛な告白は、新宰相の脳内で燻っていた理性の最後の一線を、完全に焼き切った。
自分を支えてくれたこの気高く美しい女性が、愛を飢えさせ、孤独に震えている。自分と同じように。
薬効によって正常な判断力を奪われた彼の脳内から、「名門ヴァルメイユ家当主としての責任」や、第一側妃に手を出せば一族もろとも破滅するという「大逆罪」の恐怖が、音を立てて崩れ落ち、跡形もなく溶け去っていく。
残ったのは、目の前の孤独な女を慰め、自らの孤独も埋めたいという、どうしようもない本能の渇きだけであった。
「ヒルデガード様……っ」
新宰相は獣のような荒い息を吐き、重なった彼女の手を乱暴に引き寄せた。
そのまま彼女の華奢な肩を抱きすくめ、抗いがたい熱に突き動かされるようにして、背後の重厚なソファへと彼女を押し倒す。
第一側妃殿下への不敬。取り返しのつかない大罪。
だが、ソファに組み敷かれたヒルデガードは、抵抗するどころか、その白く細い腕を新宰相の首へと回し、妖艶で残酷な毒蜘蛛の笑みを深く、深く浮かべて、その暴虐な腕を受け入れるのだった。
『――ええ。これで貴方は、完全に私のもの』
暗い密室の中、若き宰相の理性が完全に融解し、王国を揺るがす「大逆の首輪」がカチンと音を立てて嵌った瞬間であった。
6 事後の地獄
翌朝。
王宮の庭園から、朝を告げる小鳥のさわやかなさえずりが客室の窓越しに響いていた。
そののどかな音で意識を引き戻された新宰相ヴァルメイユは、酷く重い頭痛と、全身を覆う気怠さの中でゆっくりと目を開けた。
乱れたシーツ。室内に立ち込める、むせ返るような白薔薇の残り香と、生々しい情事の匂い。
そして、己の腕の中に残る、女性を強く抱きしめた熱の感触。
昨夜、自分が何をしたのか。
媚薬の効き目が完全に切れ、急速に覚醒していく脳内に、己が獣のように欲望を剝き出しにして『第一側妃』の身体を貪った記憶が、濁流となって押し寄せてきた。
一瞬にして、新宰相の顔からすべての血の気が引いた。
ガチガチと、奥歯が制御不能なほど激しく鳴り始める。シーツを摑む手は痙攣したように震え、全身から滝のような冷や汗が噴き出した。
「な、なんてことを……私は、第一側妃殿下と不義密通を……っ」
それは単なる過ちではない。王の所有物である側妃を犯すという、言い逃れの一切利かない『絶対的な大罪(国家反逆罪)』である。
「バレれば、代々宰相を務めたヴァルメイユ家が、私の一代で断頭台の露と消える……!」
偉大なる父から受け継いだ名門の歴史が、自らの愚かな情欲のせいで血に染まり、一族郎党ことごとく首を刎ねられる光景が脳裏にフラッシュバックする。
新宰相はシーツに包まったままベッドから転げ落ち、絶望で頭を抱えて床にうずくまった。呼吸の仕方を忘れたように喉がヒューヒューと鳴り、ただ極限の恐怖に震えることしかできない。
そんな彼の背後から、衣擦れの音が静かに近付いてきた。
「――おはようございます、宰相閣下」
頭上から降ってきたのは、昨夜の弱り切った女の甘い声ではない。
新宰相が恐る恐る振り返ると、そこには、すでに完璧に身支度を整え、一糸乱れぬ豪奢なドレス姿に戻った第一側妃ヒルデガードが、冷たい翠の瞳で彼を見下ろしていた。
昨夜の艶やかな気配など微塵もない。そこにあるのは、完全に罠に掛けた獲物を見下ろす、冷酷な捕食者の顔であった。
彼女は、床にうずくまりガタガタと震える新宰相の前に優雅にしゃがみ込むと、その青ざめた頰に、白く冷たい手をそっと添えた。
「……最高でしたわ、宰相閣下。貴方の熱、しっかりと受け止めました」
昨夜よりもさらに甘く、しかし、決定的な毒と支配欲を孕んだ声。
新宰相は、その言葉の裏にある『完全なる服従の要求』を悟り、ヒッと短い悲鳴を上げて息を呑んだ。
ヒルデガードは逃げ場のない新宰相の顔を引き寄せると、震えるその唇に、血が凍るような冷たいキスを一つ、落とした。
それは愛の証などではない。お前の命と一族の未来は、すべて私の手の中にあるという『絶対の刻印』であった。
「安心なさい」
ヒルデガードは顔を離し、優しく、しかし有無を言わせぬ絶対者の響きで囁いた。
「貴方が私とグラクトのために『良き働き』をしてくれる限り、この秘密は私が墓場まで持っていって差し上げますわ。……『これからも』、よろしくお願いいたしますね? 私の、可愛い共犯者様」
もはや、断る権利などどこにも存在しない。逆らえば、不義密通の事実を暴露され、ヴァルメイユ家は確実に滅亡する。
「あ……あ、あ……っ」
声にならない呻きを漏らす新宰相を残し、ヒルデガードは優雅に立ち上がった。
カツン、カツンと。冷たいヒールの音を客室に響かせながら、毒蜘蛛は美しく、そして完全に勝利した足取りで部屋を去っていく。
パタンと重厚な扉が閉まり、再び静寂が戻った密室。
残された新宰相は、自分がもはや国を導く気高き宰相などではなく、一族の命を人質に取られた『魔女の完全な奴隷』に成り下がった事実を、その魂の底から理解した。
「……ああ……あぁぁぁ……っ」
冷たい床に這いつくばったまま、若き宰相は己の愚かさと、逃れられない地獄への絶望に顔を歪め、シーツを固く握りしめて声なき涙を流し続けるのだった。




