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リーガル・レジスタンス 〜法治国家を目指して〜  作者: ムササビ-モマ
第6章『法治の箱庭』
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第8話 『外側3:白き軍服の誓い』

1 名家の結託と、幼馴染のふたり


 ローゼンタリア王国の歴史において、かつて「地図を睨む王」と呼ばれた稀代の英主がいた。

 彼は貴族たちがバラバラに領地を支配する封建制度の限界を悟り、国家の権力を王家に一極集中させるという、前代未聞の「中央集権化(領地返上)」の断行に踏み切った王である。


 当然、代々の土地と特権を奪われる貴族たちの猛反発は凄まじく、国は内乱の一歩手前まで荒れた。

 だが、その混沌の時代において、国家の百年先を見据え、真っ先に広大な自領を王家に返上し、王権の絶対的な守護者として下った二つの名門があった。


 軍部を統括するアイゼンガルト侯爵家(元帥家)と、国政を担うヴァルメイユ侯爵家(宰相家)である。


 彼らは領地という「物理的な面」の支配を捨てる代わりに、軍と政という「国家の機能」そのものを司ることで、王国の屋台骨となった。王都の治安を担う近衛(ゼノビア侯爵家)が内向きの武力であるなら、アイゼンガルトは国境線を守護し外敵を睨む、純粋かつ王国最強の武門である。そしてヴァルメイユは、冷徹な計算で国の血流(経済と法)を循環させる最高の頭脳であった。


 「政」と「軍」。


 本来であれば、権力の暴走を防ぐために明確に分離されるべき両輪だが、建国の危機を共に乗り越えたこの二つの侯爵家の間には、制度や派閥を超えた、極めて強固な信頼関係が存在していた。


 公的な場では厳格な一線を引いているものの、私的な場における両家の交流は今も深く、当主同士が腹を割って酒を酌み交わすことも珍しくない。当然、その子供たちも、幼い頃から家族ぐるみの付き合いを重ねて育ってきた。


 アイゼンガルト侯爵家の嫡男、レオンハルト(十四歳)。第二王子リュートより一つ年下の彼は、将来王国軍を背負って立つ「次期元帥」として、幼少期から己を厳しく律する武の教育を受けていた。


 そして、ヴァルメイユ侯爵家の令嬢、セシリア(十二歳)。過労で倒れる寸前だったあの新宰相の愛娘であり、リュートより三つ年下の彼女もまた、この両家の強固な結びつきの中で、レオンハルトと兄妹のように共に時間を過ごしてきた一人である。


 王宮の権力闘争がドロドロとした愛憎と毒に塗れていく中、侯爵家の邸宅の美しい庭園では、大人たちの謀略とは無縁の、眩しいほどに純粋で穏やかな時間が流れていた。




2 深窓の令嬢と、冒険を語る少年


 王国最強の武門、アイゼンガルト侯爵家の嫡男。

 その肩書きがレオンハルトに要求するものは、決して生半可なものではなかった。次期元帥として、彼には幼少期から己の限界を叩き潰すような苛烈な剣術の鍛錬と、軍事戦略の座学が絶え間なく課せられていた。


 元来がヤンチャで活発な気質の彼にとって、息を抜く暇もなく「完璧な将器」たることを求められる日常は、時に窒息しそうになるほどの重圧であった。


 だが、そんな張り詰めた軍靴の響きに満ちた彼の日々の中で、唯一、心から鎧を脱ぎ捨てて呼吸ができる「癒し」の場所があった。

 それが、ヴァルメイユ侯爵邸の緑豊かな庭園である。


「――それでね、昨日の山岳演習では、馬から降りて崖を登らなければならなかったんだ。王都とは風の匂いも、土の冷たさも全く違って……見晴らしの良い頂上から見下ろす森は、まるで緑色の海みたいだったよ」

 木漏れ日の落ちる白いテーブル越し。


 少しだけ日焼けした顔に快活な笑みを浮かべ、身振り手振りを交えて外の世界の景色を語るレオンハルトの前で、セシリアは両手でティーカップを包み込むように持ちながら、キラキラと瞳を輝かせて聞き入っていた。


「まあ……。緑の、海。鳥たちはどんな声で鳴いていたの? 王都の庭園にくる子たちとは違うのかしら」

「ああ、全然違うよ! もっと高くて、空を切り裂くような声なんだ。今度、その鳥の羽根を見つけたら、君の栞にして贈るよ」


「ふふっ、約束ですよ、レオン様」

 セシリアは、花が綻ぶような、柔らかく愛らしい笑みをこぼした。


 彼女は、次期宰相の家系という重責を担う名門の令嬢であり、生来の物静かで控えめな気質も相まって、屋敷の敷地からほとんど出ることなく育てられた「深窓の令嬢」であった。彼女の知る世界は、書庫の分厚い本の中と、美しく刈り込まれたこの箱庭だけである。


 だからこそ、厳しい軍の訓練の合間を縫って邸を訪れ、土の匂いと共に「広くて果てしない外の世界の冒険譚」を運んできてくれるこの少年は、セシリアにとって眩しい太陽そのものであった。


 レオンハルトは、武門の生まれらしく快活でありながら、セシリアの前では決して粗野な振る舞いをしない。彼女の歩幅に合わせてゆっくりと歩き、段差があればごく自然に手を差し伸べる。壊れやすい硝子細工を扱うような、生真面目で不器用なほどに優しいエスコート。


『レオン様は、いつも私を広い世界へ連れ出してくれる……』

 本の中でしか知らなかった荒野の風を、彼がその言葉と温かい手で教えてくれる。


 セシリアの胸の奥には、幼い頃から少しずつ積み重なってきた、砂糖菓子のように甘く、決して誰にも言えない淡い恋心が、静かに、しかし確かな熱を持って息づいていた。


 そしてそれは、レオンハルトも同じであった。

 どれほど泥にまみれ、厳しい父の叱責に唇を嚙み締めた日であっても。ここに来て、セシリアの澄んだ瞳と穏やかな微笑みに触れるだけで、胸の奥のささくれ立った感情がすべて浄化されていくのを感じるのだ。


「セシリアの淹れてくれるこの紅茶を飲むと、本当に、生き返る心地がするよ」

「大袈裟ですわ。……でも、レオン様の疲れが少しでも取れるなら、私はいつだって、ここで紅茶を淹れてお待ちしています」

 春の陽だまりの中、二人は照れ隠しのように視線を交わし、ふわりと微笑み合った。


 大人たちが権力と欲望にまみれた王宮の暗闇で致命的な罠を張り巡らせていることなど、このうら若き少年少女は知る由もない。

 ただ互いを想い、互いの存在を心の拠り所とする、痛いほどに純粋で美しい恋の蕾が、そこには確かに芽吹いていたのである。




3 父からの打診


 その数日後。

 アイゼンガルト侯爵邸にある、無骨な剣や武具が飾られた厳格な書斎。

 屈強な体軀を持つ現アイゼンガルト侯爵(王国軍元帥)の前に呼び出されたレオンハルトは、背筋を真っ直ぐに伸ばし、緊張の面持ちで直立不動の姿勢をとっていた。


 訓練の成果に対する厳しい叱責か、あるいはさらに過酷な演習地への派遣か。軍のトップである父にこの書斎へ呼ばれる時は、いつだって武門の跡取りとしての覚悟を問われる場であったからだ。


 だが、分厚い書類から顔を上げた父の口から紡がれたのは、全く予想だにしない問いであった。


「レオンハルト。お前も来年は王立学園への入学を控えている。そろそろ、将来身を固める伴侶について考える時期だ」

「……はい、父上」

 不意打ちに少しだけ目を瞬かせたレオンハルトに対し、父は鋭い鷹のような目で息子を真っ直ぐに見据えた。


「単刀直入に聞く。ヴァルメイユ侯爵家の令嬢……セシリア嬢との婚約について、お前はどう考えている?」


 ドクン、と。

 レオンハルトの心臓が、訓練の時よりも遥かに大きく、激しく跳ねた。


 幼い頃から当たり前のように隣にいて、誰よりも自分に安らぎを与えてくれる大切な少女。彼女への淡くも確かな恋心は、武に生きる己の胸の奥底にずっと大事に隠してきたつもりだった。


 だが、それが「婚約」という明確な言葉となって提示された瞬間、彼の顔つきから少年のあどけなさが消え、一人の男としての真剣な色へと変わる。


「……父上。それは」

 レオンハルトは、無意識に強く拳を握り込んでいた。


「あちらの……ヴァルメイユ侯爵閣下の許可は、すでに取れているお話なのですか?」

 軍と政のトップ同士の結びつき。それが単なる大人の勝手な政略の道具として彼女を縛るものであれば、レオンハルトは素直に喜ぶことはできなかった。彼女のあの穏やかな微笑みを、政治の鎖で曇らせたくはなかったのだ。


 息子の真剣な眼差しを受け止めた父は、厳格な顔の相好をほんのわずかに崩し、静かに頷いた。


「親同士の合意はすでに済んでいる。長年国を支え合ってきた両家の結びつきを、次代へ繫ぐための誇り高き話だ。……だが」

 父は言葉を区切り、軍の司令官としてではなく、一人の父親としての温かな視線を向けた。


「セシリア嬢本人は、まだこの話を知らない。我々は、家同士の都合だけでお前たちの未来を縛りつけるつもりはない。……あとは、当人同士の想いと相性次第だ。お前が望まぬというのなら、この話は白紙に戻す」

 その言葉を聞いた瞬間、レオンハルトの胸の中に、堰を切ったように熱い感情が溢れ出した。


 白紙になど、絶対にさせるものか。

 庭園で自分を見つめてくれる、あの花が綻ぶような笑顔。自分の不器用な土産話を、誰よりも嬉しそうに聞いてくれる澄んだ瞳。彼女の隣に立つ男は、他の誰でもない、自分でありたい。自分でなければならない。


「……白紙になど、させません」

 レオンハルトは一歩前に踏み出し、父に向かって深々と、これ以上ないほど力強く頭を下げた。


「私は、セシリアを妻に迎えたい。ただの幼馴染としてではなく、彼女を一生涯、この手で守り抜きたいと……ずっと、そう思っておりました」


「……そうか」

 迷いのない息子の宣言に、父は満足げに目を細めた。


「ならば、自らの言葉で、彼女の心に直接問いかけてこい。お前の長年の想いを伝える時だ。……アイゼンガルトの男として、一世一代の誠意を尽くしてな」

「はいッ!!」

 弾かれたように書斎を後にするレオンハルトの足取りに、もはや迷いは微塵もなかった。


 ただの「冒険を語る少年」という安全な距離感は、今日で終わる。愛する少女の隣に生涯立ち続けるただ一人の男となるために、彼は己の持てるすべての誠意を形にすることを決意したのである。




4 白き軍服の求婚


 のちにこの時代の宮廷劇が舞台化された際、観客の涙を最も誘う「美しき名シーン」として語り継がれることになる瞬間が、いま、ヴァルメイユ侯爵邸の庭園で幕を開けようとしていた。


 春の柔らかな日差しの中、セシリアはいつものように木陰のベンチで、膝の上に広げた分厚い詩集に目を落としていた。

 風がページを揺らし、小鳥がさえずる静謐な時間。

 そこに、いつもとは違う足音が響いた。軽やかな少年の駆け足ではなく、大地を踏みしめるような、軍靴の重く、そして極めて真っ直ぐな足音。


 セシリアが不思議に思って顔を上げた瞬間、彼女の藤色の瞳が大きく見開かれた。

 緑の木漏れ日を背にして立っていたのは、いつもの身軽な平服姿の幼馴染ではない。


「……レオン、様?」

 アイゼンガルト侯爵家が代々受け継ぐ、国家への絶対の忠誠と神聖な誓いの場でのみ纏うことを許された『白亜の正装軍服』。

 太陽の光を弾くほどに眩しい白銀の装飾に身を包んだレオンハルトが、両腕に抱えきれないほどの深紅の薔薇の花束を持って、そこに立っていた。


 その神々しいまでの美しさと、彼の顔に浮かぶ見たことのない真剣な熱に当てられ、セシリアは手からふさりと詩集を取り落とし、ふらふらと立ち上がった。

 レオンハルトは、彼女の目の前まで歩み寄ると、一切の迷いなく、その場に片膝をついた。

 まるで、女神に己の生涯の忠誠を誓う、物語の中の騎士のように。


「セシリア。……突然、こんな格好で押しかけてすまない。だが、どうしても今日、私の口から君に伝えなければならない言葉があったんだ」

 深紅の薔薇の花束を彼女へ真っ直ぐに掲げ、レオンハルトは黒曜の瞳で、セシリアの潤んだ瞳を真っ直ぐに射抜いた。

 その声は、まだ少年の面影を残しながらも、一人の男としての、決して揺らがぬ覚悟に満ちていた。


「私は将来、父のように軍を率いて、この国の果てから果てまで各地を飛び回ることになる。常に死と隣り合わせの任務に就き、君に寂しい思いや、不安な夜を過ごさせるかもしれない。……それでも」

 彼は言葉を紡ぐ。飾られた美辞麗句などではない、彼自身の魂から絞り出された、不器用で誠実すぎるプロポーズ。


「過酷な戦場から私が帰り着いた時、一番に待っていてくれるのは、君であってほしい。君の淹れてくれる紅茶と、その笑顔だけが、私の心を繫ぎ止める唯一の光なんだ。……私と共に、この国に尽くす道を歩いてくれないか。私には、君が必要なんだ」

 風が吹き抜け、真紅の薔薇の甘い香りが二人を包み込んだ。


 突然の、しかしあまりにも真っ直ぐな求婚。

 セシリアの目から、ポロポロと、真珠のような大粒の涙が溢れ出した。深窓の令嬢として、ただ待つことしかできなかった自分の人生に、彼が自ら「君が必要だ」と手を差し伸べてくれたのだ。これ以上の幸福が、この世界のどこにあるというのか。


「私……っ」

 セシリアは両手で顔を覆い、しゃくり上げながらも、必死に言葉を絞り出した。


「私、軍部の妻として、至らないところばかりだと思います……剣も振れませんし、お転婆なこともできません……っ」

「そんなことは望んでいない。君は、君のままでいいんだ。君の隣に立つために、私は誰より強くなる」

 その力強い断言に、セシリアは涙で濡れた顔を上げ、花が綻ぶような、この世で最も美しい微笑みを浮かべた。


「……はい。私でよろしければ。……レオン様と一歩一歩、共に歩んでいきたいと思います。ずっと、ずっと、お慕いしておりました」

 セシリアは震える両手で、彼から深紅の花束を受け取った。


 重なり合う手と手。白き軍服の少年と、深窓の少女。緑の庭園の中で、絵画のように美しい二人の純愛が、正式な『婚約』として結実した瞬間であった。




5 学園への誓い


 婚約が整った後も、二人の穏やかで優しい距離感は変わらなかった。

 いや、互いの想いが通じ合ったことで、その空気はより一層甘く、確かな信頼に満ちたものとなっていた。


 数日後の午後。

 いつもの庭園のベンチに、少しだけ肩が触れ合う距離で並んで座りながら、二人は同じ未来を見つめていた。セシリアの膝の上には、あの日贈られた深紅の薔薇を、彼女自身が丁寧に押し花にして作った手製の栞が挟まれた本が置かれている。


「来年の春には、私も十五歳だ。いよいよ『王立学園』への入学となる」

 レオンハルトは、眩しい未来を見据えるように、青く澄み渡った空を見上げて言った。


「軍部の跡取りとしての実践訓練だけでなく、貴族としての教養や、他派閥の者たちとの関わりも増える。……少し、お前と会える時間が減ってしまうかもしれない」

「寂しいですが……立派な元帥となるための、大切な学びの場ですもの。私はここで、ずっとお待ちしておりますわ」


「ああ。必ず、誰よりも優秀な成績を収めてみせるさ」

 セシリアの健気な言葉に、レオンハルトは優しく微笑み、そっと彼女の小さな手を握った。

 ビクリと肩を揺らしたセシリアだったが、逃げることなく、その温かく力強い手にそっと指を絡め返す。


「……私が学園で道を切り拓いておく。そして二年後、君が学園に入学してくる時には、私が先輩として……いや、君の『婚約者』として、学園の正門で一番に君を迎えに行くよ。誰にも、指一本触れさせない」


「ふふっ。レオン様ったら、気が早いですわ。でも……ええ。約束ですよ」

 陽だまりの中、二人は小指を絡め合い、屈託のない笑顔で未来を誓い合った。


 自分たちが将来、共に手を取り合い、それぞれの立場で国を支え、幸せな家庭を築いていくのだと。その輝かしい未来を、微塵も疑ってはいなかった。


 ――この美しく純粋な誓いが、大人たちのドロドロとした権力闘争と、ある一匹の毒蜘蛛が仕掛けた大逆の罠によって、無残に、そして永遠に引き裂かれてしまう運命にあることなど。

 光の中にいる彼らは、知る由もなかったのである。




6 完璧な大義名分と、真綿の首輪


 光に満ちた庭園での美しい誓いから、数日後。

 王宮の中枢、新宰相の執務室は、分厚いカーテンが引かれ、日の差さない重苦しい空気に包まれていた。


 執務机に向かう新宰相の顔には、就任当初の生真面目な覇気は欠片も残っていない。あの大逆罪を犯した夜から、彼の精神は常に「一族の破滅」という見えない断頭台の刃を首筋に突きつけられている状態だった。

 そんな彼の背後から、音もなく忍び寄る影があった。


「お疲れのようですわね、宰相閣下」

 背後から首筋に白く滑らかな腕が回され、むせ返るような白薔薇の香水が執務室に充満する。ビクリと、新宰相の肩が跳ねた。第一側妃ヒルデガードである。


「ひ、ヒルデガード様……っ」

「ご心配なく。人払いは済ませてありますわ。……本日は閣下に、一つ『ご提案』があって参りましたの」

 すでに完全な支配を完了しているヒルデガードの声音には、圧倒的な勝者の余裕と、完璧に計算し尽くされた理知の響きがあった。


「貴方の愛娘、セシリア嬢のことです。……来年、婚約者であるアイゼンガルト家の嫡男が王立学園へ入学する間、彼女を私の宮へ『行儀見習い』として預からせていただけないかしら?」

「……え?」

 突然の申し出に、新宰相は呆然とした。


「アイゼンガルト家は武門の筆頭。有事や演習があれば国中を飛び回るのが常であり、学園に通う嫡男の不在時に、他家の令嬢を連れ回して十分な教養を身につけさせることなど不可能ですわ。……かといって、実家である貴方も、我がゼノビア侯爵家の不始末のせいで、娘の教育に割く時間などないほどの激務を抱えておられる」

 ヒルデガードは、怯える宰相の耳元に唇を寄せ、極めて優しく、理路整然と囁いた。


「ですから、私が貴方の負担を少しでも減らすために、セシリア嬢をお預かりして、王宮で最高峰の淑女教育を施して差し上げようというのです。アイゼンガルトの次期元帥の妻となるにふさわしい、完璧な花に育て上げますわ。……第一側妃である私からのこの厚意、まさか、お断りにはなりませんよね?」

 新宰相は、絶望に顔を歪め、ガタガタと震え出した。


 完璧だった。第一側妃が、多忙な宰相と元帥家に代わって令嬢の教育を引き受ける。貴族社会において、これほど名誉で、理にかなったありがたい提案はない。元帥家も世間も、疑うどころか諸手を挙げて賛同するだろう。


 だが、本心を知る新宰相だけは理解していた。

 これは「教育」などではない。国政のトップである自分の愛娘を合法的に手元へ置き、自分を意のままに操るための『完璧な人質』とする気なのだ。


 さらに、セシリアが次期元帥の婚約者であることを利用し、強大な軍部(アイゼンガルト家)に対しても強力な伝手と牽制の駒を握るという、恐るべき一石二鳥の罠。


 もしここで不自然に拒絶すれば、ヒルデガードはあの夜の不義密通を暴露し、一族を破滅させるだろう。

 利益と善意という極上の衣を被せられたこの要求に、彼が抗う術は一つも残されていなかった。


「……あ、ありがたき……幸せに、存じます……っ」

「ええ。賢明な父親の判断ですわ」

 血を吐くような宰相の承諾を聞き、ヒルデガードは満足げに微笑むと、悠然と立ち去っていくのだった。




7 健気な決意と、父の罪


 その日の夜。

 ヴァルメイユ侯爵邸のセシリアの私室には、ほんのりとした灯りが灯り、温かな空気が満ちていた。

 セシリアは机に向かい、レオンハルトから贈られた深紅の薔薇を押し花にした手製の栞を、愛おしそうに指でなぞっていた。


 トントン、と。重いノックの音が響き、扉が開かれた。

 立っていたのは、父である新宰相だった。

「お父様? お帰りなさいませ」

 父親の、まるで十年も歳を取ってしまったかのような土気色の顔に、セシリアは心配そうに駆け寄った。だが、新宰相は娘の目を真っ直ぐに見ることができず、震える声で絞り出した。


「……セシリア。第一側妃殿下から、直々のお申し出があった。レオンハルト殿が学園へ通っている間、お前を王宮へ呼び、『行儀見習い』として教育を引き受けてくださると」

「第一側妃殿下からの、行儀見習い……?」

 セシリアの藤色の瞳が、驚きと、やがてパッと明るい光に包まれた。


「お父様、本当ですか!? 王宮の第一側妃殿下に直接作法を学べるだなんて、これ以上の名誉はありませんわ!」

「あ、ああ……そうだな……」


「私、最近ずっと考えていたのです。レオン様が立派な元帥になるために学園で厳しい訓練を積まれる間、私だけがこの安全な邸で、のんびり待っていて良いのだろうかと。……でも、アイゼンガルトの皆様は国境警備で常にお忙しいですし、お父様も最近、お一人でいくつものお仕事を抱えてお疲れのようでしたから……」

 セシリアは、机の上の深紅の薔薇の栞をそっと胸に抱きしめ、花が綻ぶような、愛らしい微笑みを浮かべた。


「だから、お父様のご負担も減らせて、私自身も成長できるなんて、本当に素晴らしいお話ですわ。……レオン様が学園で頑張っていらっしゃる間、私も王宮で一生懸命に作法を学びます。そして……誰の前に出ても恥ずかしくない、レオン様にふさわしい完璧な淑女になってみせます!」

 大好きな人の隣に立つために、自分も成長したい。父の助けにもなりたい。


 それは、恋を知った少女の、痛いほどに真っ直ぐで健気な決意だった。そこに一片の疑いも、悲壮感も存在しない。


「だからお父様、どうか安心してくださいませ。私、立派にお務めを果たしてまいります!」

 その純粋すぎる笑顔と真っ直ぐな言葉は、新宰相の心臓を無数の刃で切り刻むほどの罰であった。


 娘は何も知らず、この申し出を「自分とレオンハルトの未来のための素晴らしい機会」だと信じ切って喜んでいる。自分の浅はかな過ちのせいで、この光り輝くような娘を、決して生きては戻れぬかもしれない毒蜘蛛の巣へと人質として売り飛ばすのだというのに。


「ああ……すまない、セシリア……っ! 本当に、すまない……っ!」

 ついに耐えきれず、娘の足元に崩れ落ち、声を上げて泣きじゃくる父親。


 セシリアは「お父様ったら、大袈裟ですわ。すぐにお会いできますのに」と優しく微笑みながら父の背中を撫で、未来への希望に満ちた足取りで、自らあの恐ろしい後宮の暗闇へと足を踏み入れていく準備を始めるのだった。

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