第10話後編 『北の女将軍』
1 血と泥の最前線
極寒の風が、容赦なく体温と体力を奪っていくアイギス領の最前線砦。
偽名と「戦死しても一切の責任を問わない」という血判状を提出したリュートたちは、訓練らしい訓練も受けぬまま、「個人の武は各自で磨け。戦場では適材適所に連携するのみ」とだけ告げられ、即日死線へと放り込まれていた。
「おい新兵ども、固まるな! 散開して槍を構えろ!」
「ひっ……!」
怒号と悲鳴、そして魔物の咆哮が混ざり合う泥濘の戦場。
ほんの数時間前だ。冷え切った砦の食堂で、「南や東の温かいところから、よくこんな地獄に来たな」と笑いながら、リュートたちに自分の分の温かいスープを分けてくれた中年の兵士がいた。故郷に小さな娘がいるのだと、少し照れくさそうに笑って語っていた男。
その男の首が、たった今、巨大な雪猿の顎に食いちぎられ、リュートの目の前で赤い尾を引いて泥の中へ転がり落ちた。
「あ……あ……」
テオドールが顔面を蒼白にしてその場に崩れ落ち、激しく胃液をぶちまけた。
首を失った胴体から噴き出す生温かい血の雨を浴びながら、温室育ちの次期当主はガタガタと震え、絶望の涙を流す。
『これが……僕たちが安全な東で、豊かな帳簿の数字だけを見ながら「見て見ぬふり」をしてきたものなんだ……っ!』
「テオ! 止まるな、死ぬぞ!」
ライオネルが悲痛な叫びを上げ、迫り来る魔物の爪を己の愛槍で必死に弾き返す。いつも南の太陽のように笑い、軽口を叩く余裕など微塵もない。ただ生き残るために、泥に塗れて槍を振るうことしかできない。
そして、リュートは。
飛び散った兵士の血を頰に受けたまま、完全に動きを止めて戦慄していた。
『……今年のアイギス領の死亡率は、三パーセント。……防衛線を維持するための「必要経費」』
王都の執務室で、自分が書類の上で冷徹に計算し、処理していた「数字」。
それが今、目の前で悲鳴を上げ、肉塊に変わった。
あの数字の一つ一つには、温かいスープを分けてくれる優しさがあり、帰りを待つ家族があり、さっきまで確かに会話を交わしていた『命』があったのだ。
己がどれほど傲慢で、血の通わない恐ろしい見下し方をしていたのか。その圧倒的な現実が、リュートの心臓を鷲摑みにする。
「殿下ッ! 呆けている暇はありませんぜ!!」
リュートの背後に迫っていた魔物の腕が、鋭い剣閃によって両断された。
返り血に染まった歴戦の騎士、カイルである。彼は嘔吐するテオの襟首を摑んで引きずり起こし、リュートの前に立って次々と迫る死の圧を弾き返していく。
「命の価値なんてものは、ここでは糞の役にも立たねえ! 自分の頭で考え、自分の足で立て! ここは理屈が通用する王都じゃねえんだ!」
カイルの容赦ない怒号が、凍りついたリュートの意識を現実に引き戻す。
そうだ。ここは、アイギス公爵が背負い続けている本物の地獄。
リュートは強く唇を嚙み破り、血の味と共に己の傲慢さを飲み込んだ。そして、泥に塗れた剣を強く握り直し、自らもまた凄惨な死線の中へと足を踏み出していくのであった。
2 女将軍ベアトリスとの邂逅と共闘
地獄のような泥と血の日常が数ヶ月続き、凍てつく冬がようやく終わりを告げようとしていた頃。
アイギス領の最前線砦を、予期せぬ絶望が襲った。
冬眠期を逃れ、飢餓状態に陥った魔物の大群による、通常規模を遥かに超える夜襲。
分厚い防衛線の一部が脆くも決壊し、リュートたちが配属されていた部隊は本隊から完全に分断され、雪原の只中で孤立した。
「くそっ……! 上からも来やがるぞ!」
ライオネルが血反吐を吐きながら叫ぶ。
地を這う白狼の群れだけでなく、上空には巨大な猛禽の姿をした雪鳥が旋回し、さらに遠方からは氷柱を射出する魔物までもが陣形を包囲していた。
圧倒的な劣勢の中、テオドールが悲壮な決意で前に出た。彼なりに東の次期当主として、王都で学んだ知識で戦局を打開しようとしたのだ。
「僕が、土魔法で防壁を隆起させます! 『大いなる大地の――』」
テオドールが詠唱を始め、地面に触れようと深く屈み込んだ、まさにその瞬間だった。
上空から雪鳥が一気に急降下し、テオドールの無防備な首元へと鋭い鉤爪を突き立てようと迫る。さらに遠方からは、屈んで静止した彼を的とした氷柱が容赦なく飛来した。
「馬鹿野郎ッ!!」
ライオネルがテオドールの襟首を乱暴に摑み、泥の中へ力任せに引き倒す。
直後、テオドールが先ほどまで頭を下げていた空間を、雪鳥の爪と鋭い氷柱が交差して通り過ぎた。間一髪、ライオネルの愛槍が雪鳥の腹を切り裂いて追い払う。
「のんきに地面に手をついて詠唱なんかしてたら、壁ができる前に頭を食いちぎられるぞ!!」
「っ……! で、ですが、魔法で……」
「王都のお上品な魔法が、この速さに追いつくわけねえだろ! だいたい、杖や手から直接放つだけの射程が短い魔法じゃ、あんな空飛ぶ奴らには届きもしねえんだよ!」
ライオネルの怒声が、テオドールに冷酷な現実を突きつける。
王都の教室では「陣地構築に有用」とされる土魔法も、実戦においては『屈んで地面に手をつく』という動作自体が致命的な隙(自殺行為)となる。ましてや、手から放出されるだけの魔法では、遥か上空や遠距離から攻撃してくる敵への対空手段にもなり得ない。
伝統という名で無詠唱化や射程の延長を怠ってきた「王都の魔法体系」は、泥に塗れた最前線では全くの無用の長物だったのだ。
矢は尽き、頼みの魔法も機能しない。体力は限界を越えている。
周囲を埋め尽くす数百の赤い眼光が、彼らを完全に「餌」として包囲の輪を縮めてきた。
中央でカイルが血まみれになりながら孤軍奮闘しているが、彼一人でこの物量を支えきれるのも時間の問題だった。
『……ここまでか』
リュートの脳裏に、冷たい死の予感がよぎったその瞬間。
吹雪の向こう側から、空気を震わせる鋭い角笛の音が鳴り響いた。
「防衛線を押し上げろ! 一歩でも引けば、背後の民が食われるぞ!!」
少女の、しかし戦場を支配する圧倒的な覇気と重力を伴った号令。
直後、魔物の包囲網の背後が、凄まじい衝撃と共に弾け飛んだ。
吹雪を切り裂いて現れたのは、精鋭の重装騎馬隊。
その先頭で大剣を振るい、血路を切り開いたのは、華やかなドレスなどではなく、幾重にも重なる魔物の返り血で赤黒く染まった実戦用の重甲冑を纏う少女だった。
王立学園の春休みを利用して帰郷していた、北の公爵家の孫娘。ベアトリス・ロギア・アイギス、十五歳。
彼女は馬から躍り出ると、生き残った北の猛者たちを的確に指揮し、瞬く間に魔物の群れを分断していく。その姿は、庇護されるべき貴族の令嬢などではなく、数万の領民の命を背負う『若き女将軍』そのものであった。
ベアトリスの振るう大剣が、リュートたちの目前に迫っていた魔物を両断し、重い地響きと共に雪原へ沈める。
絶望の底に差し込んだ、苛烈で血生臭い救い。
肩で息をするライオネルが、顔にこびりついた泥を手の甲で拭いながら、不敵に牙を剝いて笑った。
「……遅いぞ、援軍! 待ちくたびれて凍え死ぬところだったぜ!」
「文句を言うな、南の優男! 減らず口を叩く体力があるなら、さっさと右の死角を塞げ!」
ベアトリスは振り返りもせず、返り血を浴びた横顔のまま鋭く怒鳴りつける。
南の次期当主の軽口を「優男」と一蹴し、即座に戦力として陣形に組み込むその実戦主義。
「……ふっ、厳しい上官だ」
リュートもまた、疲労の極致にありながら短く笑い、重くなった剣を握り直した。
カイルが前衛の要となり、ベアトリスが中央で軍を指揮し魔物を屠る。そしてその両脇の死角を、泥だらけの新兵が完全に塞ぐ。
王都の安全な教室で語られる理屈や魔法の知識など、ここには一切存在しない。
乱戦の只中、己の身分を捨てて最前線の泥を被った少年たちと、領民の命を背負って血に塗れる若き女将軍は、互いの背中を預け合い、ただ生存と防衛のためだけにその命を燃やし続けるのであった。
3 背負う重みと、南の獅子の密かな予感
血肉が飛び散り、魔物の咆哮が耳をつんざく乱戦の只中。
ライオネルは、己のすぐ横で陣頭指揮を執り、大剣を振るうベアトリスの姿に息を呑んでいた。
彼女の戦い方には、一切の「後退」が存在しなかった。
自身の防御を捨ててでも、敵の懐へ踏み込み、必ずその場に踏みとどまる。一歩でも後ろへ下がれば、そこから防衛線が崩れ、背後にいる数万の領民たちが魔物の胃袋に収まることを、彼女の身体が、魂が、本能レベルで理解しているのだ。
『……信じられねえ。一歩でも退けば終わるという絶対の死線で、これほどの絶望を背負って立ち続けているというのか』
ライオネルの琥珀色の瞳が、彼女の小さな背中に縫い付けられる。
南の豊穣な大地で、領民の笑顔と豊かな麦畑を背負う覚悟を決めた己の責任感など、彼女のそれに比べればどれほど温く、平和なものであったか。
ベアトリスの背中には、最前線の泥に塗れて次々と死んでいったアイギス家の者たちの怨念と、今この瞬間も命の危機に晒されている数万の北の民の命が、物理的な重力となってのしかかっている。
彼女が背負う命の重さは、あまりにも死に近く、そして重く、濃い。
『……とんでもねえ奴だ。こんな血生臭くて、絶望的な重りを背負いながら……』
直後、ベアトリスが強烈な踏み込みと共に大剣を振り抜き、巨大な魔物の首を宙に飛ばした。
ドサリと雪原に沈む巨体。降り注ぐ返り血を顔に浴びたまま、彼女は荒い息を吐き、こちらを振り返った。
「よく持ち堪えたな、新兵! その泥臭い槍捌き、悪くないぞ!」
地獄の底のような戦場で、死臭と血の臭いにまみれながら、彼女は不敵に、そして獰猛なまでに美しく笑って見せた。
その瞬間、ライオネルの胸の奥で、激しい鐘が鳴った。
それは、決して甘い恋心などではない。自身も南の民を愛し、すべてを背負って泥を被る覚悟を決めていたからこそ生じる、強烈な同族嫌悪に似た『親近感』。そして、己以上に過酷な運命を背負いながらも決して折れない為政者への、深い『畏怖』と『魂の共鳴』であった。
『……ああ、そうか。俺が本当に横に並び立ちたいと思うのは、綺麗に着飾って安全な王都で微笑むような奴じゃない』
王家が敷いた分断統治。北は血を流し、南は搾取される。
その理不尽な世界をひっくり返すために、共に泥に塗れ、共に血を吐いて戦える本物の「半身」。
ライオネルは、顔にこびりついた魔物の血を手の甲で無造作に拭い去ると、ベアトリスの横顔を見つめながら、己の内に確かな予感(誓い)を打ち立てた。
『……こいつとなら、どんな地獄でも並んで歩けそうだ』
だが、その底知れぬ重力を持った感情を、彼は軽々しく口にすることはなかった。
ライオネルはただ、獰猛な南の獅子の笑みを浮かべ、彼女の隣で愛槍を肩に担ぎ直す。
「へっ……南の優男の手柄を、全部持っていかないでくれよ、将軍殿!」
甘弱な言葉の入る余地などない。互いに背負う領民の命の重さを知る、若き為政者同士の決定的な魂の交錯が、極寒の死線において確かに刻み込まれたのであった。
4 焚き火の前の告白
凄惨な激戦が終わった夜。
死臭と血のにおいが立ち込める砦の片隅で、リュートは泥だらけの外套を羽織り、パチパチとはぜる焚き火の炎をじっと見つめていた。
その向かい側には、同じく魔物の返り血で赤黒く染まった重甲冑を脱ぎ捨て、簡素な防寒着姿になった女将軍・ベアトリスが腰を下ろしている。
凍てつく風が二人の間を吹き抜ける中、リュートは炎から目を離さないまま、初めて己の奥底にある「本音(罪悪感)」を静かに口にした。
「……王都の執務室にいた頃、私は戦死者の報告をただの『数字』として処理していた。今年のアイギス領の死亡率は三パーセント。防衛線を維持するための『必要経費』だと。紙の上で冷徹に計算し、すべてを理解した気になっていた」
「執務室? 死亡率の計算だと……?」
ただの志願兵だと思っていた少年の口から出た「国政を動かす側」の言葉に、ベアトリスが鋭く眉をひそめる。
「……お前は、何者だ?」
「偽名を使ってすまなかった。私は……第二王子、リュート・セシル・ローゼンタリアだ。そして私の右で死角を塞いでいた槍使いは、南のヴィレノール公爵家次期当主ライオネル。後方で土魔法を練ろうとしていたのは、東のオルディナ公爵家次期当主テオドールだ」
その告白に、戦場で一切の動揺を見せなかったベアトリスが、絶句して目を見開いた。
「第二王子だと……!? 『影』と揶揄され、王都の奥深くにいるはずの王族や、次代の公爵たちが……なぜこんな最前線で、一兵卒として泥に塗れている!」
「虎穴に入らずんば、虎子を得ずだ。……安全な王都の机上で命の対価を計算する己の傲慢さを、アイギス公爵に完膚なきまでに叩き潰されたからな」
リュートの深紅の瞳に、揺れる炎が反射する。その声は酷く嗄れ、血を吐くような後悔が滲んでいた。
「……あの三パーセントの数字の中には、昨日私に温かいスープを分けてくれた、名もなき兵士がいた。故郷に娘がいると笑っていた男だった。……私は、なんて恐ろしい見下し方をしていたのだろうな」
その凄絶な懺悔を聞き、ベアトリスはゆっくりと息を吐き出した。
王族という絶対的な特権階級にありながら、自ら死地に飛び込み、底辺の兵士一人を想って血の涙を流す特異な王子。その異常なまでの「為政者としての責任感」を前に、彼女の警戒は静かな敬意へと変わっていった。
ベアトリスは足元にあった枯れ枝を拾い上げ、炎の中へと放り込む。
「……大局的な視点で見れば、お前のその計算は間違っていない」
将軍としての重みと静けさを持った声が、夜の闇に響いた。
「上に立つ者は、全員を救うことなどできない。多数を生かすためには、時に少数を切り捨てざるを得ないこともある。それが、背後の数万の民の命を預かる者の『義務』だ」
彼女は、綺麗事など一切口にしなかった。最前線で常に「誰を生かして誰を死なせるか」という究極の選択を下し続けているからこそ、冷酷な合理性を肯定した。
しかし、ベアトリスは顔を上げ、リュートの瞳を真っ直ぐに見据えて、こう続けた。
「だがな、リュート殿下。……いつか貴方が王族として、あるいは宮廷の重職に就いて国の権力を行使し、多数のために少数を切り捨てる決断を下す時。その『切り捨てられる少数』の顔を、今日泥に塗れて死んでいった彼らの顔を、どうか思い出してやってほしい」
それは、法治国家の構想など知る由もない彼女が、純粋に「国を動かす権力者」となるであろう少年に向けた、途方もなく重い要求だった。
「その命の重みから決して目を逸らさず、血を吐くような痛みを背負いながら、それでもなお『国のために切り捨てる』と貴方が決断するのなら……私は、北の将軍として貴方のその選択を非難しない」
それは将来、自らの理想のために政敵や敗者を切り捨てるであろうリュートにとって、最大の「呪い」であり、同時に王の器を成すための「救い」となる言葉だった。
リュートは、痛いほどに強く唇を嚙み締めた。口の中に血の味が広がる。
だが、その眼差しからはすでに迷いが消え、すべてを背負い込む為政者としての強烈な覚悟が宿っていた。
「……ああ。約束しよう、ベアトリス。私は二度と、彼らの顔から目を逸らさない」
燃え盛る炎を挟み、王都の闇を統べる少年と、北の死線を統べる少女の間に、決して交わすことのできないほどの重い誓いが立てられた。この夜の記憶は、リュートの生涯において、決して消えることのない原点となるのであった。
5 北の血の対価と、無条件の援助
魔物の大群との激戦から数日後。
アイギス領最前線砦の奥、冷え切った司令室にて。リュート、ライオネル、テオドールの三人は、北の武神たるアイギス老公爵と再び対峙していた。
半年以上前、王都の優雅な服を着て「合理的な取引」を持ちかけた少年たちの面影は、もはやどこにもない。彼らの顔には洗っても落ちない泥と血が染み付き、その眼光は死線を潜り抜けた者特有の、重く鋭い光を宿していた。
分厚い執務机越しに彼らを見据え、老公爵は深く、腹の底に響く声で問うた。
「……身分を隠し、自ら北の泥を啜り、我が兵と共に血を流したそうだな。第二王子リュートよ。北の最前線で何を感じ、何を思った? その上でなお、貴様らは己の金と糧食を盾に、この北との『和解』を求めるか?」
それは、為政者としての本質を問う、刃のような問いだった。
だが、リュートの深紅の瞳に一切の揺らぎはない。王都に残るアイリスという絶対の共犯者への信頼を胸に、彼は東の資本の全権を背負う者として、静かに、しかし断固たる声で答えた。
「いいえ。和解の要求は、すべて撤回します。……私はこの数ヶ月で、己の提示した条件がいかに傲慢で、北の流す血を侮辱するものであったかを思い知りました」
老公爵の片眉が微かに動く。リュートは言葉を続けた。
「我々王都の人間も、南の民も、東の商人も……すでに貴方たちから、十分すぎるほどの『見返り』を先払いして受け取っていた。極寒の地で魔物を喰い止め、この国に安寧をもたらしている北の血こそが、我々の豊かさの絶対的な担保だった。……その命の対価に対し、わずかな資本や食糧の援助をもって『和解』や『同盟』の対等な条件にしようなど、到底釣り合うはずがありません」
リュートの言葉を受け、隣に立つ南の次期当主ライオネルと、東の次期当主テオドールも深く頷く。
「ゆえに、我々は北へ対価を求めません」
リュートは、王族としての虚飾を完全に捨て去り、一人の為政者として老公爵を真っ直ぐに見据えた。
「和解関係の有無にかかわらず、東のアイリス・ルーナ・オルディナが全権を握る海運組合を通じた物資の支援と、南からの食糧援助を無条件で北へ回します。これは取引ではなく、貴方たちの流す血に守られて生きる我々が果たすべき、最低限の『義務』です。どうか、北の民の命を繫ぐために使っていただきたい」
静まり返る司令室。
自分たちの流す血の価値を正しく理解し、見返りを求めず実利(援助)のみを差し出すという若き為政者たちの決断に、老公爵はゆっくりと目を伏せた。
「……王宮の権力闘争において、我がアイギス家は決して特定の陣営には与せん。貴様らがどれほど物資を送ろうと、北が第二王子の派閥として頭を下げることはないし、政治的な譲歩も一切行わん。それが、この死地に民を縛り付けている当主としての責任だ」
公爵の言葉は、北の独立と政治的非介入という絶対の線を守る冷徹なものだった。
だが、その直後。白髪の猛禽は、机から立ち上がり、泥に塗れた少年たちへ向かって深く、静かに頭を下げた。
「……だが。我が兵の盾となり、共に血を流してくれたこと。そして何より、見返りを求めず、北の民が明日を生きるための糧を差し出してくれたこと。……アイギス公爵個人として、心からの感謝を。お前たちのその決断に、北の民は救われる」
それは、王家を介さない、人と人、領土と領土の間に結ばれた本物の信頼の証。
安易な同盟関係(ご都合主義)を拒絶しながらも、北の武神から「真の感謝と敬意」を引き出した瞬間であった。
6 兄の頼みと、決意の残留
王立学園の入学式が目前に迫り、王都への帰還の時が訪れた。
アイギス領の最前線砦から少し離れた雪原には、東の海運組合が極秘裏に手配した中型の魔導船が、低く重低音を響かせながら待機している。
だが、タラップの前で出立の準備を整えたリュートとライオネルに対し、東の次期当主であるテオドールは、泥と血に塗れた防寒着のまま、静かに、しかし岩のように動かない足取りで立っていた。
「……テオ。学園の入学年齢に達していないお前は、表向きは『東の領地で療養中』ということになっている。姉のアイリス殿も王都でお前の帰りを待っているはずだが」
「はい。ですが……僕はまだ、帰れません」
リュートの問いかけに、テオドールは精悍さを増した顔を上げ、はっきりと残留を宣言した。
「この数ヶ月で、北の血の匂いを知ることはできました。ですが、東の当主として、彼らが流す血の『真の重さ』を完全に体に刻み込むには、まだ時間が足りません。……経済という名の『泥に塗れた盾』を東が担うのなら、僕はここで、彼らの盾の重さを骨の髄まで理解しなければならない。だから、残ります」
かつて、カイルの殺気にあてられて泣き崩れていた温室育ちの少年の面影は、もうどこにもない。そこにあるのは、血と泥の現実を前にしても決して折れない、次代の公爵としての確かな矜持と覚悟であった。
その瞳の強さを見届け、リュートは静かに頷いた。
「分かった。お前の覚悟を尊重しよう。……カイル、お前はここに残れ。テオの護衛を任せる」
「えっ……!? な、何を言っているのですか、殿下!」
リュートの突然の指示に、テオドールが血相を変えて一歩前に出た。
「カイル殿は、殿下の『盾』です! これから王家が若者たちの思想を縛り付ける統制の要、王立学園へと乗り込むのに、最大の戦力である彼を手放すなど……僕の我儘のために、殿下を危険に晒すわけにはいきません!」
必死に固辞しようとするテオドールの肩を、リュートは両手で力強く摑んだ。
「王都の離宮には、ルリカがいる。カイルが抜けた分、彼女が死に物狂いでリーゼと我々の盤面を物理的に死守する手はずになっている。それに……今の私とライなら、学園に潜む温い暗殺者程度に後れは取らないさ」
リュートは、王都で見せていたような冷徹な計算づくの微笑みではなく、ただの一人の少年としての、少し不器用で温かい笑みを浮かべた。
これまで孤立無援の影として生きてきたリュートが、初めて他者に対して見せた、身内への情愛。
「……兄に、弟の心配くらいさせろ、テオ」
「っ……殿下……」
王族としての打算など一切ない、純粋な『兄』としての言葉。
テオドールの瞳が熱く揺れ、泥だらけの拳が強く握りしめられる。
リュートはテオドールの肩から手を離し、傍らに立つカイルに向かって深く頭を下げた。王族が、一介の護衛に対して頭を下げるというあり得ない光景。
「我が弟を頼む、カイル。……必ず生かして、王都へ連れ帰ってくれ」
「……へっ。王族に頭を下げられちゃ、断るわけにはいきませんね」
歴戦の騎士は、首の骨を鳴らしながら獰猛に笑い、自らの左胸——心臓の位置を強く叩いた。
「この首と命に代えましても。必ず、東の坊っちゃんを立派な化け物に育て上げてお返ししますよ」
それは、裏社会を生き抜いてきた男の、絶対の誓いであった。
出立の汽笛が雪原に鳴り響く。
リュートとライオネルは踵を返し、魔導船のタラップを登っていく。甲板から見下ろすと、雪風の中に立つテオドール、カイル、そして女将軍ベアトリスの姿が、少しずつ小さくなっていくのが見えた。
「……行くぜ、リュート。俺たちの戦場(王都)へ」
「ああ。安全な学び舎から、この国の根幹をひっくり返そう」
魔導機関が唸りを上げ、船体が一気に上空へと飛翔する。
遠ざかる北の地獄を見つめるリュートとライオネルの眼差しは、もはや理想を語るだけの中途半端な少年のものではなかった。
王都の盤面(理屈)と、北の最前線(現場の血)。
その両方の圧倒的な重さを知った彼らは、もはや誰にも止めることのできない、新しい国を創るための『本物の怪物』へと完全に仕上がっていた。
彼らを乗せた魔導船は、次なる戦いの舞台である王立学園――王家が幼少期から「絶対忠誠」を叩き込み、次代の才能を飼い殺す巨大な思想統制のシステムそのものを内側から破壊するため、朝焼けの空を一直線に切り裂いていった。
(第5章 完)




