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リーガル・レジスタンス 〜法治国家を目指して〜  作者: ムササビ-モマ
第5章『基盤の構築』
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第10話前編 『北の武神』

1 北の武神との対峙と、机上の空論の崩壊


 大オセロ大会の熱狂が噓のように冷え切った、王都の極秘の会談室。

 豪奢な装飾が一切排除された石造りの空間で、東の長女アイリスと第二王子リュートは、北の武神・アイギス老公爵と相対していた。


「……以上が、東の兵站局に残されていた過去の記録。すなわち、建国時にオルディナ家が『あえて裏切り者の泥を被り、北のアイギス軍を無傷で存続させた』という歴史的真実でございます」

 アイリスは完璧な令嬢の微笑みを崩さず、しかし東の当主代行としての確かな威厳をもって語り終えた。

 そして、リュートが組み上げた緻密な物流経路の図面と、天文学的な数字が並んだ支援確約書を机の中央へと押し出す。


「この真実をもって、数百年の怨念を棚上げしていただきたい。その見返りとして、我が東は北へ向けた流通網の関税を完全撤廃し、軍備維持のための莫大な資金と物資を永続的に提供いたします。……公爵閣下、どうか我が殿下の盤面に、北の誇りを並べてはいただけないでしょうか」

 歴史の真実という大義名分。そして、喉から手が出るほど欲しいはずの莫大な経済的支援。

 論理と実利、その両面から完全に退路を塞いだ完璧な交渉であった。カイルやルリカすら震え上がらせるこの猛獣を相手に、アイリスは一歩も引かずに見事な「東の誇り」を提示してみせたのだ。


 だが。

 アイギス公爵は、提示された莫大な数字の羅列に一瞥すらくれず、岩のように一切の表情を変えなかった。

 ただ静かに、歴戦の重みを孕んだ恐るべき眼光で、目の前の若き為政者たちを射抜いた。


「……北のさらに北には、魔の森があり、その先には帝国領が続く。我がアイギス領は、この国の人類を守るための防波堤だ。これまで王都の者たちが平和を享受できたのは、一体誰のおかげだと思っている?」

 地鳴りのように低く、重い声。

 リュートはその言葉の裏にある「本物の死の圧」に、背筋を氷で撫でられたような錯覚を覚えた。


「確かに、東のオルディナは経済を回し国を豊かにした。その恩恵でアイギスへの援助が賄えている面もある。南のヴィレノールの食糧、西のクロムハルトの魔導具も防衛には不可欠だ。……それらを否定する気は、ワシにも毛頭ない」

「ならば――」


「だがな、娘」

 アイリスの言葉を、公爵は物理的な重力のような威圧感で押し潰した。


「東の金も、南の麦も、西の魔導具も、それ自体が魔物の牙を折るわけではない。現実に、魔物の爪に腹を裂かれ、首を食いちぎられ、凍てつく大地で『人を失っている』のは、我々北の人間なのだ」

 公爵の瞳の奥に、王都の特権貴族たちへ向けたような、静かで底知れぬ蔑みが宿る。


「王家の騎士団も軍部も、一定期間アイギス領へ送られ、本物の戦いを学ぶ。アイギス領の重要性を理解し、家督を継げぬ嫡男以外はそのまま残ってアイギス騎士団へ編入した者も多い。……現国王すらも、王家もまた我々と共に血を流しているという事実を理解している。命の対価は、命でしか支払えんのだ」

 公爵はゆっくりと立ち上がり、机の上に置かれた支援確約書を見下ろした。


「……ワシは別に、他の公爵家に敵対する気はない。過去の真実も、お前たちの提示する莫大な数字も、偽りではないのだろう」

「では、なぜ……」


「今この瞬間も、領民一丸となって『人の生存圏確保』のために血を流し、死んでいく者たちがいる。その彼らに対し、安全な王都から帳簿の数字と金だけを見せて『これで過去を水に流し、盤面に従え』と……ワシが領民に命じられるとでも思っているのか?」

 それは、法理でも経済でもない。


 北の大地で血を流し続ける者たちを背負う、軍事指導者としての『究極の現場の論理』であった。


「……モノや金で、死んでいった者たちの命を飲み込めとは言えん。ワシ自身も、死地に立つ兵の目を見て、そんな寝言は絶対に口にできん。……北の血の重さは、金では量れないのだよ」

 その圧倒的な「現場の論理」と、死線の重みを前に。

 リュートは、喉の奥まで出かかっていた『成文法による法治国家の創設』という自らの構想を、完全に呑み込むしかなかった。


『……語るだけ無駄だ。今の僕がどれほど完璧な法理とシステムを説こうが、彼らにとっては、血を一滴も流したことのない安全圏の子供が喚く「机上の空論」でしかない』

 文字と数字の理屈など、本物の死と直面し続ける北の氷壁の前では、ただ虚しく砕け散るだけだ。


 自らの盤面への絶対的な自信が、根本から叩き潰される。

 リュートは己の傲慢さを深く恥じ、一切の反論を口にできぬまま、静かに、そして完全に敗北を喫するのであった。




2 リュートの決断と、無力な少年の覚醒


 北の武神からの完全なる拒絶を受け、東の隠れ家に戻ったリュートたちは、重苦しい沈黙に包まれていた。


 リュートは一人、薄暗い部屋の窓辺に立ち、自らの手を見つめていた。その手は、ペンを握り、法理を練り、経済の数字を動かすための手だ。だが、アイギス公爵が背負っていた「本物の血の重さ」の前では、自分の積み上げてきた論理がいかに軽く、傲慢なものであったかを骨の髄まで思い知らされた。


『私は、文字と帳簿の数字だけで、彼らの流す血を知った気になっていた。……安全な王都から理屈を並べ立てて、命の対価を金で買い叩こうとしたのだ。あんな机上の空論で、領民の命を背負う武神の心を動かせることなど、到底できるはずがなかった』

 リュートは深く息を吐き出し、振り返った。その深紅の瞳には、かつてないほどの鋭く、重い光が宿っていた。


「……アイリス。私は、学園に入学するまでのこの半年間、北へ行く」

「殿下……?」

 扇で口元を隠していたアイリスが、わずかに目を丸くする。


「虎穴に入らずんば虎子を得ず、だ。安全圏から数字を弄っているだけでは、決して北の真の重さは分からない。自ら本物の泥と血のにおいを嗅ぎ、彼らが命を懸けている『現実』をこの目で見なければ、私の構想はただの空虚な絵空事で終わる」

 リュートの決断は、狂気にも等しいものだった。第二王子という身分を隠し、一兵卒として極寒の最前線――死亡率の極めて高いアイギス領軍の末端に身を投じるというのだ。それは、為政者としての自分を一度破壊し、現場の泥から再構築するための、血を吐くような覚悟だった。


 その時。

 部屋の隅で黙り込んでいたテオドールが、静かに、しかしはっきりとした足取りで歩み出てきた。


「……僕も、行きます」

 その声には、震えが混じっていた。しかし、瞳だけは決して逃げようとしていない。

「テオドール!? 何を狂ったことを言っているのです!」

 知らせを聞きつけ、隠れ家に駆けつけていた母――オルディナ公爵夫人が血相を変えて止めに入った。


「貴方は東の次期当主ですよ! 殿下の真似事をして北の死地に赴くなど、絶対に許しません!」

 だが、テオドールは母の制止を振り切り、リュートの前に進み出た。


「母上、申し訳ありません。ですが、僕の決意は変わりません。……東のオルディナは、金と経済で国を回す『泥に塗れた盾』です。ならば、その次期当主である僕が……国境で最も泥と血に塗れている北の重さを知らなくて、どうして東の誇りを証明できるというのですか!」

「カイル」

 テオドールの勇ましい言葉を、リュートの低く、実務的な声が遮った。


 その瞬間。

 ――ギチッ。


 部屋の空気が、物理的な音を立てて凍りついた。

 壁際に控えていた歴戦の武人、カイル・ド・グラム。王都の裏路地を仕切り、数多の血と泥を啜ってきた彼が、一切の感情を排した純粋な『殺気』を、ただ一点、テオドールに向けて解き放ったのだ。


「……ッ、ぁ……!?」

 テオドールの喉から、声にならない悲鳴が漏れた。

 カイルは一歩も動いていない。剣すら抜いていない。ただ、「今から一秒後に、お前の首の皮を剝いで頸動脈を嚙みちぎる」という実戦の濃密な悪意を叩きつけただけだ。

 温室で帳簿と数字だけを見て育ってきた十二歳の少年の体は、本能的な『死の圧』を前にして、完全に機能不全に陥った。


「ひ、あ……ぁ……」

 ガチガチと激しく歯が鳴る。呼吸の仕方を忘れ、肺が痙攣する。

 テオドールの両膝から力が抜け、彼は無様な音を立てて床に崩れ落ち、自らの腕を抱きしめるようにしてガタガタと震え始めた。

 頭では「立ち上がらなければ」と叫んでいるのに、細胞の一つ一つが死の恐怖に支配され、指先ピクリとも動かすことができない。

 リュートは文官としての冷徹な眼差しで、床に這いつくばる少年を見下ろした。カイルに視線で合図を送り、殺気を収めさせる。


「……これが、現実だ、テオ」

 リュートの声には一切の嘲笑はなく、ただ氷のように冷たい『盤面の事実』だけがあった。


「真実を知り、心の中で覚悟を決めることと、本物の暴力の前に立って言葉を紡ぐことは、まったく別の次元の行為だ。……北の魔物やアイギス公爵は、今のカイルの何十倍もの致死の重圧を、ただそこにいるだけでお前の脳髄に叩き込んでくる」

 床に座り込んだまま、テオドールは涙と鼻水を流し、己の致命的な弱さに打ち震えていた。

 誇りも、次期当主としての責任感も、圧倒的な暴力の前には何の役にも立たなかった。


 残酷なまでの敗北。

 東の次期当主は、北の地へ赴く権利すら自分にはないのだという『本物の絶望』を、冷たい床の上で嚙み締めていた。




3 アイリスの覚悟と、少年の咆哮


 カイルの放った本物の殺気にあてられ、床に這いつくばったままガタガタと震え続けるテオドール。

 その震えて立てない弟の前に、東の長女アイリスが、衣擦れの音すら立てずに静かに進み出た。


「……お下がりなさい、テオ。今の貴方では、北の地に足を踏み入れた瞬間に、恐怖で動けずに死ぬだけですわ」

 氷のように冷たく、しかし極めて正確な事実の宣告。

 アイリスは弟を一瞥したのち、リュートの方へと優雅に向き直った。その顔には、リュートの第一契約者としての底知れぬ熱情と誇りが浮かんでいた。


「リュート殿下。東の誇りと歴史の真実は、第一位の契約者たるこの私が、命に代えて盤面で証明いたしますわ」

「……ダメだ姉さんッ!」

 アイリスの決意を聞いた瞬間。テオドールは床に這いつくばったまま、悲鳴のような声を上げて姉のドレスの裾にすがりついた。


「行っちゃダメだ! あんな化け物たちのところに行ったら、姉さんが……姉さんが殺されるかもしれないんだぞ! 俺の代わりに姉さんが死ぬなんて、絶対に嫌だ!」

 それは、ただ純粋に、美しく優秀な姉を守りたいと願う弟としての、見苦しくも切実な家族愛の叫びであった。

 だが。すがりつく弟を見下ろしたアイリスの瞳には、温かな家族愛など微塵も浮かんでいなかった。


「ええ。一歩でも間違えれば、私は殺されるでしょうね。ですが、それが何だと言うのです?」

 アイリスはリュートを見つめた。


「テオ。私はね、あの夜、殿下と契約を交わした瞬間から……もしこの盤面が崩壊し、殿下と共に冷たい断頭台に登ることになったとしても、最後に彼に向かって『最高の人生でしたわ』と、心から笑って首を差し出す覚悟を決めているのよ」

 アイリスの声は熱く、そして絶対的な狂気を孕んでいた。


 論理と実利の果てに行き着いた極限の愛。その途中で殺されるかもしれない程度のことで、彼女の足が止まるはずがなかった。

「……ですから、『すでにリュート殿下と共に死ぬ覚悟を懸けている私』が行くのです。テオ、貴方の命は、まだ誰のためにも、何のためにも懸かっていない。そんな『軽い命』で、北の死地に立つなど……傲慢にも程がありますわ」


 バサリ、と。

 アイリスは扇を振り抜き、すがりついていたテオドールの手を冷徹に振り払った。


「っ……ぁ……」

 姉の残酷なまでの正論と、己の命の『軽さ』を突きつけられ、テオドールは完全に言葉を失った。

 自分が喚いていた「姉を死なせたくない」という言葉が、いかに覚悟のない、平和な温室育ちの子供の甘えであったかを、骨の髄まで思い知らされたのだ。

 テオドールは床に顔を押し当て、己の究極の無力感と情けなさに、声を殺して慟哭した。


 だが、その涙は長くは続かなかった。

 ギリッ、と。彼の手が床を強く搔き毟り、その小さな体が震えながらも、ゆっくりと、しかし確実に立ち上がり始めたのだ。


「……ふざ、けるな……」

 血が滲むほど唇を嚙み締め、テオドールはアイリスの前に立ちはだかった。その琥珀色の瞳には、先ほどの恐怖を塗り潰すほどの、激しい怒りとプライドが燃え盛っていた。


「誰が……姉上にだけ、そんな重い荷物を背負わせるものか……! 俺は、東のオルディナの次期当主だ! 東の誇りを証明するのも、そのための血を流すのも、俺の『責任』だ!!」

 殺気の恐怖に屈した自分への怒り。そして、姉を死地に送るくらいなら、自分が狂気の世界に適応してやるという凄絶な意地。

 まだ細い少年の肩が、初めて「為政者としての覚悟」の重さに耐え、咆哮を上げた瞬間であった。

 その姿を見て、アイリスの冷徹な資本家の顔に、初めて姉としての、そして当主としての深い信頼の笑みが浮かんだ。


「……テオドール。北の地で死んで、見苦しい骸を晒すことだけは、東の当主代行として固く禁じます。必ず、生きてその泥を持ち帰りなさい」

「……はい! 姉上!」

 それは、アイリスが初めてテオドールを、ただ庇護すべき弟ではなく、「盤面を共にし、東の未来を背負う真の次期当主」として認めた、決定的な瞬間であった。




4 南の獅子の参戦


 北への出立を決めたその日の夜。

 王都の隠れ家で、装飾の一切ない実戦用の粗末な革鎧と剣だけを荷袋に詰めていたリュートの元に、南のヴィレノール公爵家次期当主たる親友、ライオネルが姿を現した。

 彼の片手には、何枚もの羊皮紙の束(設計図)が握られている。


「……夜分に悪いな。東の当主代行殿に、南の農業効率化に向けた『新しい商談』を持ち込みに来たんだが……どうやら、とんでもない夜に来ちまったらしい」

 ライオネルは図面をアイリスの机に置きながら、呆れたような、しかしどこか嬉しそうな深い笑みを浮かべた。


「それは?」

「西のヴィオラ嬢から買い取った、新型の農業用魔導具の設計図だ」

 ライオネルは肩をすくめ、西の合理主義を体現する令嬢とのやり取りを口にする。


「あいつ、『西の工房で製造させると、兄が〇・〇一ミリの誤差も許さないオーバースペックな代物にしてしまって採算が合いません。設計図は渡すので、量産と製品化は東の工房に丸投げしてください』って言い切りやがった。西が設計し、東が作り、南が使う。南へ向かう空荷の魔導船にこれを積んで、帰りに食糧を積めば、互いに完璧な利益が出るだろうってな」


「……見事な合理性だ。西の技術と東の資本、そして南の食糧を直結させる完璧なスキームじゃないか」

 リュートが南の次期当主としてのライオネルの有能な立ち回りを高く評価すると、ライオネルは「まあな」と短く笑った。だが、その直後、彼の琥珀色の瞳からスッと商人の顔が消え、南の獅子たる猛禽の眼差しへと変わった。


「だが、盤面ビジネスの話はここまでだ。……アイリス殿から聞いたぜ。理屈が通じないなら、自ら最前線の死地に潜り込んで『現場の血』を被ってくるんだってな」

 ライオネルはゆっくりと部屋の奥へ足を踏み入れ、壁に立てかけられていた己の愛槍を手に取った。南の豊穣な大地で、領民と共に汗を流し、土に塗れて麦を育ててきた男の、太く力強い指先が柄を強く握りしめる。


「俺たち南の人間が、温かい太陽の下で豊かに作物を実らせ、笑って歌えるのは……どこの誰が、極寒の北で魔物の牙からこの国を守ってくれているからだ? 俺は、南の民を愛している。だからこそ、俺たちの平穏を血と肉で担保してくれている北の連中が、最前線で何を背負って死んでいっているのか……為政者になる前に、俺自身の目で見ておかなきゃならねえ」

 そして、ライオネルは愛槍を肩に担ぎ、リュートの前に歩み寄った。


「それに、南の温かい領地で綺麗な服を着てふんぞり返っているだけの俺に、お前と一緒に新しい国を創る資格はない。……親友が泥に塗れに行くってのに、俺だけ安全圏で待っているわけにはいかねえだろ?」

 それは、ただの若さゆえの友情ではない。

 南の民の命を背負う為政者としての重い責任感と、共に旧体制を破壊する共犯者としての、血よりも濃い誓いであった。


「……死ぬかもしれないぞ、ライ」

「冗談を言うな。俺たちはすでに、一緒に断頭台へ登って笑って死ぬ覚悟を決めた仲だろうが」

 不敵に笑うライオネルの前に、リュートもまた、王族の作り笑いではない、一人の戦友としての静かな笑みを浮かべた。


 二人は無言のまま、互いの拳を力強く突き合わせる。

 東の次期当主テオドールに加え、南の次期当主ライオネル。

 安全な王都で特権に守られていたはずの若き為政者たちは、リュートという劇薬に当てられ、自らの足で本物の地獄(北の最前線)へと歩み出す覚悟を、ここに完了させたのであった。




5 王都の守護者たち


 出立前夜。王宮の端に位置する離宮のサロン。

 リュートは、王都の留守を任せるため、妹リーゼロッテと面会していた。彼女の背後には、侍女の姿をしたルリカとティナが音もなく控えている。


「半年間、私は王都の盤面を空ける。……第一王子派の動きへの牽制と、例の『計画』の全権はお前に預ける、リーゼ」

 リュートの言葉に、リーゼは完璧な王女の微笑みを浮かべて小さく頷いた。

 リュートは彼女に歩み寄り、学園入学へ向けた『人材確保スキーム』のさらなる拡大と強化を命じる。


「孤児院の教育機関化についてだが。学園の選抜に漏れた孤児たちを海運組合の構成員として雇用し、物流の歯車にするスキーム……お前は誰一人無駄にすることなく、完璧に回してくれているな」

「ええ。すでに海運組合の資本で、優秀な平民を数名学園に送り込む実績も出ておりますわ」


「ああ、見事な手腕だ。私がお前を頼りにしている所以だよ。……だからこそ、私が北にいるこの半年間で、その盤面をさらに拡大・加速させる」

 リュートの言葉の熱に、リーゼは瞬時にその意図を察した。


「……今回のオセロ大会で、第一王子が粛清した貴族たちを利用するのですね?」

「その通りだ。プロパガンダのために没落させられ、復讐心と野心を燻らせている優秀な者たちを、孤児院の『教師』として拾い上げろ」

 それは、すでに回っている完璧なシステムに、敵が切り捨てた敗者たちを自らの手足として組み込む冷徹な一の矢だった。


「孤児に徹底的に実務と学問を叩き込ませ、学園の『平民枠(特待生)』として合格させた人数に応じて、教師となった没落貴族たちへの報酬を上乗せする完全な成果主義を敷け。……第一王子が捨てた敗者たちを使って、我々のための『最強の官僚と学園の多数派』の育成を加速させるのだ。この拡大された循環システムの全権も、引き続きお前に任せる」

「第一王子の落とした泥を使って、美しい金と人材の山を築き上げろと? ……ふふっ、見事な循環システムですわ」

 大局を見据えた兄の冷徹な盤面構築に、リーゼはふわりとドレスの裾をつまみ、優雅なカーテシーで応えた。


「ご安心を、お兄様。すでに回っている盤面を強固にするなど造作もないこと。貴方が北で泥に塗れている間、この王都に沈む泥は、私がすべて拾い上げておきますわ。……どうか、ご無事で」

 己の妹が、すでに王都の裏側を支配する怪物として仕上がっていることを頼もしく思い、リュートは背を向けた。

 そのリュートの護衛として控えていたカイルに向かって、これまで無言だったルリカが静かに口を開く。


「……カイル。私は王都に残り、リーゼ様とこの離宮(本拠地)を死守する」

 氷のように冷たい、元暗殺者の声音。

 カイルは肩をすくめ、「ああ、こっちは任せたぜ、メイド長殿」と気安く笑った。だが、ルリカの射抜くような鋭い視線は、一切の温度を持っていなかった。


「お前は、リュート様の『盾』だ。……北の死地で万が一の事態が起きた時は、迷わずリュート様のために死ね」

 それは同僚への別れの言葉ではなく、同じルナリアの意志を継ぐ者としての、徹底した任務の確認だった。

 カイルは一瞬だけ歴戦の騎士の凄みを見せ、自らの首をトントンと指で叩きながら、獰猛な笑みを浮かべた。


「違えねえ。俺の首の使い道は、最初からそのために決まってる。……泥に塗れるのは俺たちの仕事だ。王都の綺麗な盤面は、お前に預けたぜ」

 裏社会を生き抜いてきた大人同士の、甘さの一切ない命のやり取り。

 それを背中で聞きながら、リュートは確かな手応えと共に離宮を後にした。




6 第一位の契約


 出発の朝。

 王都郊外の秘密の入り江に手配された海運組合の大型魔導船の前で、リュートはアイリスと二人きりで向き合っていた。

 冷たい朝の海風が吹く中、アイリスはいつも通り扇で口元を隠していたが、その計算高い瞳には、珍しく微かな憂いの色が宿っていた。


「……東の当主たる我が弟を、どうかお願いいたします。あの子はまだ、本物の血の臭いを知りません」

「ああ、約束しよう。必ず生かして連れ帰る」

 東の誇りを証明するために自ら死地へ赴く決意をしたテオドール。姉としての彼女の痛いほどの覚悟を受け取り、リュートが力強く頷く。


 すると、アイリスはふわりと扇を下げ、一歩前へ踏み出した。

 そして、リュートの首元に滑らかに腕を回すと、東の次期当主ではなく、一人の女としての妖艶な笑みを浮かべる。


「っ……アイリス?」

 リュートが身構えるより早く、彼女の柔らかい唇が、リュートの頰に落とされた。

 チュッ、という小さな、しかし確かに独占欲を孕んだ音が、朝の静寂に響く。


「……もちろん、貴方のことも、です。私(第一位の契約者)の許可なく、勝手に死ぬことなど許しませんわ。私から逃げ切れるとでも思って?」

 それは、彼が自分の所有物(最大の投資先)であることを誇示するかのような、特権の刻印。

 リュートは頰の熱さに小さく息を吐き、苦笑しながら彼女の腕をそっと外した。


「……肝に銘じておくよ。東の資本と量産ラインは任せたぞ」

 リュートが踵を返し、待機していたライオネル、テオドール、そして護衛のカイルと共に、巨大な魔導船のタラップを登っていく。

 アイリスは再び扇で口元を隠し、静かに、しかし確かな野心を燃やす瞳で彼らの背中を見送った。


 魔導機関が重低音を響かせ、巨大な船体がゆっくりと水面を滑り出す。

 安全な王都の盤面から、血と泥に塗れた本物の地獄――北のアイギス最前線へ。

 彼らを乗せた魔導船の勇姿が、極寒の北の大地へと向かって、朝焼けの空へ吸い込まれていくのであった。

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