第9話後編 『真の品位』
1 大会のフィナーレと、偽りのパレード
数日間にわたり王都を熱狂の渦に巻き込んだ『大オセロ大会』は、ついにフィナーレの時を迎えていた。
特設された巨大な舞台の上で、西のクロムハルト公爵家令嬢ヴィオラが、自らの魔導技術を駆使して創り上げた『ガラスと光のトロフィー』を優勝者へと授与する。
その隣で、第一王子グラクトは次期国王としての完璧な威光を放ち、優雅に拍手を送っていた。
「見よ! 我らが次期国王、グラクト殿下万歳!」
「悪徳貴族を成敗し、我らにパンと娯楽を与えてくださった光の御子に、祝福を!」
広場を埋め尽くす数万の平民たちが、熱狂的な歓声と拍手をグラクトへと浴びせる。
王都の食糧危機を救い、私腹を肥やした貴族を粛清し、その財産を民へと還元した。その無傷で輝かしい功績に、民衆は彼を「絶対的な救世主」として崇め奉っていた。
だが、万雷の拍手を浴びながら完璧な微笑みを浮かべるグラクトの胸の内は、ひどく冷たく、どす黒い自己嫌悪の炎に焼かれていた。
『……救世主、か。笑わせる』
グラクトは、歓声を上げる民衆の顔を見下ろしながら、腹の底から這い上がるような己への憤りを嚙み殺していた。
この大会を開催するにあたり、グラクトは「王都の物流と資金の流れを、自らの手で完璧に管理・運営する」と意気込んでいた。次代の王として、実務の泥を被り、国を回すという事の重さを自らの血肉とするために。
しかし、現実は残酷だった。
内務省から上がってくる莫大な物流の数字、商人たちとの緻密な折衝、王都の警備兵の配置と予算の擦り合わせ。それら『実務』の波に直面した瞬間、グラクトは自分が何一つ具体的な指示を出せないという「己の無能さ」を骨の髄まで思い知らされたのだ。
血統と品位、剣術と歴史しか学んでこなかった彼には、国家という巨大な機構を『算盤と契約』で動かすための基礎教養(実務能力)が決定的に欠如していた。
結局、膨大な実務のすべてを完璧に処理し、この大会を成立させたのは、側近のエドワルド・シーン・カルネリアであった。
エドワルドはグラクトの無力を責めることすらなく、「殿下はただ、舞台の上で美しく微笑んでおられればよろしいのです。泥仕事はすべて私が片付けます」と、極めて官僚的な冷徹さで実務を取り上げた。
『……南からの食糧手配は、リュートが裏で組み上げた流通網(手柄)をエドワルドが強奪したもの。この大会の運営も、すべてエドワルドが書いた台本通り。……私は何一つ、自分の力で民を救ってなどいない』
グラクトは、熱狂の裏で己がただの「空っぽの神輿」に過ぎないという事実を、冷徹なまでに自覚していた。
『家臣の功は主君のもの。それが王族の「品位」であり、後で別の形で恩賞を与えればよいと、これまでは信じて疑わなかった。だが……他者の成果で着飾り、血統という御旗を振るうだけの空っぽな神輿に、真の高貴さなど宿るはずがない』
グラクトの胸の奥底で、彼自身も気づかぬうちに『品位』という言葉の定義が変容し始めていた。
血統によって無条件で与えられる特権ではなく、自らの手で泥を被り、実務を回し、自らの力で功を上げて民を導くことのできる『本物の実力』。それを持たぬまま歓声を浴びる己の姿は、今のグラクトにはどうしようもなく卑小で、醜悪に思えたのだ。
「……グラクト殿下。間もなく、優勝者たちとのパレードの馬車が出発いたします。……どうか、最後まで『完璧な王』であられますよう」
隣に立つヴィオラが、扇で口元を隠したまま、氷のように冷たい声で囁いた。
彼女もまた、この熱狂の欺瞞に気づき、グラクトを軽蔑している者の一人だ。
グラクトは小さく息を吸い込み、強く、ギリッと奥歯を嚙み締めた。
『私自身の無能さを嘆き、ここで顔を伏せるのは、ただの子供の我儘だ。エドワルドが台本を書き、民が私に光を求めるというのなら……私は己の無力にどれほど絶望しようとも、与えられた「絶対的な光」という役目だけは、這いつくばってでも完全に全うして見せる』
今はまだ、この圧倒的な無力感と悔恨に耐え、与えられた道化を演じ切るしかない。だが、いつか必ず自らの力で功を上げ、この空っぽな体に『真の品位(実力)』を宿してみせる。
その血を吐くような決意を胸の奥底に封じ込め、グラクトは観衆に向けて、太陽のような完璧な微笑みを放った。
「さあ、行こうか! この熱狂と豊かさを、王都の隅々にまで届けよう!」
グラクトの声に、民衆の歓声が爆発的に跳ね上がる。
装飾が施された豪奢な馬車に乗り込み、グラクトは王都のメインストリートへと繰り出す。
沿道から降り注ぐ花びらと、割れんばかりの称賛の声。
偽りのパレードは、無力な次期国王の胸に冷たい刃を突き立てながら、最高潮の熱狂の中をゆっくりと進んでいくのであった。
2 初対面の衝撃と、真の「品位」
パレードは王都のメインストリートを進み、熱狂は最高潮に達していた。
沿道を埋め尽くす群衆がグラクトの馬車を一目見ようと押し寄せる中、不意に人の波が大きく崩れた。
「わっ……!」
押し出されるようにして、最前列にいた一人の平民の子供が、石畳の車道へと転がり出た。
よりにもよって、歩みを進めるグラクトの巨大な馬車の、その直前である。
「危ないッ!!」
「止まれ! 馬を止めろ!!」
先導していた近衛騎士たちが血相を変えて怒号を上げ、全体重をかけて必死に手綱を引き絞る。
だが、装飾が施された重量のある馬車と巨馬の歩みは急には止まらない。甲高い嘶きと共に、巨馬が巨大な前足を天高く跳ね上げた。
数百キロの質量を持つ鉄蹄が、転んだ子供の頭上へと、容赦なく踏み下ろされようとする。
沿道の特等席にいた特権貴族たちは、誰一人として助けようとしないどころか、「汚らわしい平民が」「血や泥が跳ねる」と不快げに眉をひそめ、我関せずと一斉に後ずさって顔を背けた。
その瞬間――。
「だめっ!!」
群衆の影から、一人の少女が矢のように飛び出した。
お忍びで観覧に来ていた子爵令嬢、レティシア・ラ・ハーテスである。
彼女は、己が着飾っていた一目で高級と分かる絹のドレスが泥に汚れるのも、巨馬の蹄に踏み砕かれる致死のリスクも一切躊躇することなく、動いている馬車の直前へと身を投げ出した。
そして、恐怖でうずくまる平民の子供を、その小さな体で完全に覆い隠すように強く抱きすくめたのだ。
直後、近衛騎士の必死の制止によってギリギリで軌道を逸らされた巨馬の蹄が、彼女のすぐ脇の石畳を粉砕するほどの勢いで激しく打ち据えた。
バシャッ、と。無情に撥ねた泥水が、彼女の美しい金髪と、純白のドレスを無残に汚していく。
それでも少女は、恐怖に目を強く瞑り、肩を震わせながらも、決して腕の中の子供を離そうとはしなかった。
馬車の上からその光景を見下ろしていたグラクトの胸に、雷に打たれたような強烈な衝撃が走った。
『貴族の令嬢が……己の身と体裁を投げ打って、見ず知らずの平民の盾になっただと……?』
泥に塗れ、震えながらも弱き者を守り抜こうとする少女の背中。
その姿は、グラクトが今まさに絶望していた「民を搾取し、泥を避ける醜悪な貴族たち」や「安全な馬車の上で保身に走る自分自身」とは対極にある、純粋な自己犠牲の姿であった。
血統や特権という見栄に胡座をかくのではなく、自ら泥を被り、身を呈して弱きを守る。
それこそが、グラクトが先ほど胸の内で渇望し、己に足りないと絶望した真の高貴さ――『ノブレス・オブリージュ(真の品位)』の、圧倒的な具現化であった。
3 王族の義務の復活
「剣を収めよッ!! 無礼であるぞ!!」
グラクトの腹の底からの咆哮が、王都の空気を震わせた。
子供と少女に剣の柄を向け、不敬を理由に物理的に排除しようとしていた近衛騎士たちが、その声にビクッと肩を震わせ、即座に直立不動の姿勢をとる。
グラクトは、側近エドワルドが作り上げた「ただ美しく微笑むだけの絶対的な光」という完璧な台本を、この瞬間、完全に破り捨てた。
豪奢な馬車の扉を自ら乱暴に押し開け、装飾された衣が乱れるのも構わず、特権貴族たちが顔を背けた泥だらけの道へと飛び降りたのだ。
「で、殿下!? 何を……ッ!」
エドワルドが驚愕と焦燥の声を上げる中、グラクトの足は止まらない。
王家の正統性を示す彼の純金のような瞳は、目の前で泥に塗れ、小さく肩を震わせている少女の背中だけを捉えていた。
『民を飢えさせ、私欲を貪り、危地となれば保身に走るのが特権貴族だと、私は心底絶望していた。だが……ここにいたのだ。己の命と体裁を泥に投げ打ち、名もなき平民を守り抜く「本物の貴族」が』
グラクトは群衆が息を呑んで見守る中、泥だらけの少女と子供の前に歩み寄り、迷わずその膝をついた。
そして、作り笑いではない、一人の人間としての優しく、そして力強い本物の眼差しを少女に向けた。
「怪我はないか、気高き乙女よ」
「っ……あ、えと……!」
恐怖からそっと目を開けた少女は、間近に迫る第一王子グラクトの圧倒的な美貌と、彼から放たれる強烈な王のオーラに、言葉を失って顔を真っ赤に染めた。
グラクトには、それが「自己犠牲を全うした無垢な少女の、王族に対する純粋な畏れと恥じらい」にしか見えなかった。彼女が自分をどのような瞳で見つめ返しているかなど、今の彼には問題ではなかった。
グラクトは、彼女の泥に塗れた小さな手を自らの両手で包み込み、深く、誠実に頭を下げた。
「そなたの勇気と自己犠牲は、私のパレードを飾るどの宝石よりも美しい。我が身に代えて弱きを庇うその心こそが……ローゼンタリアの真の『品位』だ。私は、次期国王としてそなたに最大の敬意を表する」
グラクトが自らの手で少女のドレスの泥を払い、その手を取ってゆっくりと立ち上がらせた瞬間。
王都は、台本で用意された安っぽい称賛ではない、民衆の心からの割れんばかりの大歓声に包まれた。
「うおおおおッ! グラクト殿下万歳!!」
「あの令嬢も素晴らしい! 泥に塗れて民を救う、これぞ真の高貴なる方々だ!」
「王家万歳! 我らが次期国王万歳!!」
民衆の熱狂が、地鳴りのように王都を揺るがす。
馬車の脇で冷や汗を拭ったエドワルドは、グラクトが初めて台本を無視して見せた「自発的な王の器」を為政者として高く評価しつつ、懐の手帳を静かに開いた。
『自らの意志で民心を引き寄せ、盤面を完全に支配したか。見事な采配だ。……そして、あの少女。殿下の精神に作用する、極めて強力な新たな変数か。……素性を洗い、監視対象としてリストアップしておこう』
一方の少女は、泥を払ってくれたグラクトの力強い手と、至近距離で浴びた彼の完璧な王の威光に完全に心を奪われ、ただ熱を帯びた金色の瞳を熱く見つめ返していた。
グラクトは、歓声の中で彼女の手を優しく握り直しながら、己の胸の奥底に確かな熱が灯るのを感じていた。
それは、エドワルドの手柄を盗んで神輿に乗っていた虚無感や、自己嫌悪の冷たさを完全に焼き尽くす、強烈な炎であった。
『……私は、ただの空っぽな道化ではない。この国にはまだ、己の身を挺して守るべき価値がある。ならば私は、彼女のような気高き者たちが胸を張って生きられるよう、血と泥に塗れてでも「真の王」にならねばならない』
泥だらけの少女との運命的な出会い。
それは、己の不甲斐なさに絶望していたグラクトを「空っぽの神輿」から引きずり下ろし、彼自身の魂に『真の王たる精神と覚悟』を叩き込む、決定的な救済の瞬間であった。
4 光と影、そして死地への歩み
王都の中心から湧き上がる熱狂的な大歓声は、夕闇が迫る空気を震わせ、街の隅々にまで反響していた。
第一王子グラクトが自ら泥に塗れて民を救い、「真の王の器」を示したという噂は、瞬く間に王都中を駆け巡り、彼に対する熱狂をかつてない次元へと押し上げていた。それはエドワルドが計算した台本を超えた、民衆の心からの光への崇拝であった。
だが、そのまばゆい光が強まれば強まるほど、王都の裏側に落ちる「影」はより色濃く、底知れぬ冷たさを増していく。
王都の裏路地に潜む、東の隠れ家。
その薄暗い奥室の床で、東の次期当主テオドールは一人、膝を抱えてうずくまっていた。
「……くそっ……」
カイルが放った本物の殺気を前に、自分は指一本動かせず、ただ無様に涙と鼻水を流して這いつくばった。
次期当主としての責任感など、圧倒的な暴力の前では何の意味も持たなかった。対して、姉であるアイリスは涼しい顔で「すでにリュートと共に断頭台で笑って死ぬ覚悟を決めている」と言い放ち、自ら死地(アイギス公爵との会談)へと向かっていった。
テオドールは、自らの腕を搔き毟り、血が滲むほど強く唇を嚙み締めた。
『姉上が命を懸けているのに……僕は、歴戦の騎士が放つ「本物の殺気」を当てられただけで、呼吸すら忘れてうずくまることしかできなかった。剣を抜かれるまでもなく、ただ睨まれただけで……。これが、温室でぬくぬくと帳簿の数字だけを見てきた人間の、本当の実力……』
遠くから聞こえるパレードの歓声が、彼の無力さを嘲笑っているかのように響く。
だが、その両の瞳からこぼれる涙は、もはや恐怖によるものではなかった。己の致命的な弱さと無知に対する、激しい怒りと屈辱の涙だ。
この圧倒的な挫折の底で、十二歳の少年は初めて「本物の為政者(当主)」となるための、血を吐くような産声を上げていた。
◇
同じ頃、王宮の端に位置する離宮のサロン。
王女リーゼロッテは、窓辺で静かに冷めた紅茶を口に運んでいた。彼女の背後には、いまだ消えやらぬ殺意を瞳の奥に燻らせたルリカとティナが、影のように控えている。
「……ご苦労様でした、二人とも。よく耐えてくれましたわね」
リーゼはカップを置き、静かに労いの言葉を紡いだ。
あの時、リーデルの傲慢な言葉を聞いて、彼女自身の胸中にも、かつて母ルナリアを奪われた際の業火のような憎悪が吹き荒れていたのだ。今すぐあの男の首を落とし、その傲慢な舌を踏み躙ってやりたいという、狂気にも似た衝動。
だが、彼女はそれを完璧な王族の微笑みで完全に封じ込めた。
『私個人の復讐で、お兄様が命を削って組み上げている盤面を壊すわけにはいかない。……ええ、今のうちは、その血統という古い飾りに守られていい気になっているといいわ、リーデル・ソリュ・セラフィナ』
リーゼの瞳は、兄グラクトと同じ王家の血を引く金色の瞳でありながら、そこに宿る光は全く異なる。燃え盛る太陽ではなく、すべてを冷徹に凍りつかせる絶対零度の光だ。
『お兄様と私が「法」という絶対的なルールを敷いた時、特権を剝がされた無能な貴方は、勝手に足を踏み外して自滅する。わざわざ私の手を汚す価値もない。……その無様な最期を見届ける日まで、私はただの無害で美しい、完璧な王女でいてあげる』
大局を見据え、己の憎悪すらも盤面の一部として冷徹に処理した少女。彼女もまた、離宮という影の中で、兄に劣らぬ恐るべき怪物としてその牙を研ぎ澄ませていた。
そして。
王都の熱狂から完全に背を向け、冷たい風の吹く裏通りを並んで歩く二つの影があった。
リュートとアイリスである。
「……随分と、景気のいい歓声だね」
リュートは、遠く本宮の方角から響き渡る地鳴りのような熱狂を聞きながら、歩みを止めることなく淡々と呟いた。
「エドワルドの書いた台本通りの歓声にしては、熱が入りすぎている。……どうやら兄上は、パレードの最中にただの神輿であることをやめ、自らの意志で民心を引き寄せる『為政者』として立ち回ったようだ」
「まあ。あのプライドの高い第一王子が、自ら計算して泥を被るような真似を?」
扇で口元を隠したアイリスが、興味深そうに目を細める。
だが、二人の足取りに一切の動揺や焦りはなかった。むしろ、敵が真の王の器として覚醒したという事実を、盤面における極めて有益な『好材料』として冷徹に処理していた。
「……いいことだ。兄上が本物の『王の器』として君臨し、民の目を一身に集めてくれるのなら、我々にとってこれ以上都合のいい防壁(隠れ蓑)はない」
「ええ。民衆や貴族たちが、眩い次期国王のカリスマに熱狂し、そちらばかりを見上げている間は……私たちが足元で組み上げている新しい法と経済のシステムに、誰も気づきませんわね。神輿が自ら光り輝いてくれるのなら、最高の目くらましですわ」
「ああ。偶像が盤石であればあるほど、裏の実務は安全に育つ。……明日はついに、北の武神との交渉の席だ。化け物の前で、この東の誇りがどこまで通用するか」
「怖いのですか? 殿下」
「まさか。論理の通じない相手に、死のリスクを背負ってこちらの論理を叩きつける。……為政者としては、身の毛のよだつほど最高の舞台だ」
表舞台で光の王が誕生し、熱狂に包まれる王都。その華やかな光を背に受けながら、リュートとアイリスは、明日控えるアイギス公爵との極秘面会――理屈が通用しない『本物の死地』へ向けて、一切の迷いなく歩みを進めていくのであった。




