7. 花橘 ー清涼ー
清涼視点です。
夢を見ていた。
十二歳の冬、神殿の厨房で、玄奥から料理を習っていた時のことだ。
その日は朝から吹雪で、外に出られないから中で料理実習をするか、という話になっていた。
まずは食台にまな板を置き、十人ほどの子供たちで、各自人参や玉ねぎの皮を剥いていた。
「包丁気をつけるんだぞ」
「はあい」
「さっき教えたように、皮が剥けたら、次は人参は薄い輪切り、玉ねぎは頭のところと芯を落として、真ん中から縦に切る。そして次は、繊維に沿って1 cmくらいで切る。ほうれん草は、根本を切って5 cmくらいに切ってな」
わいわいと各自野菜を切っていた時、巫女見習いだった灯が驚いた声を上げた。
「桔梗、血が出てる!」
え、と皆で注目する。
「あ、ほんとだ」
見ると、桔梗の左手の掌から、だらだらと血が流れていた。人参の皮を剥いていて勢い余ったらしい。
「でも痛くないからまだできる……」
言いかけた桔梗にカチンと来て、焦った僕は思わず大きな声を上げていた。
「バカ、野菜が血だらけになるし、おまえも痛いだろ! 治療室行って、雲水に手当してもらってこいよ!」
当時、玄奥の弟の雲水も僧医に名を連ねていた。
僕の大声に目を丸くして桔梗は僕を見て、なんとなくぎくしゃくと頷き、そのままくるりと踵を返して、治療室の方に向かった。……と、皆がそう思っていた。
僕たちは桔梗の血で汚れたところを拭いて、引き続き食材を切ることに没頭していた。すると、しばらくして。
「おー皆がんばってるなあ」
治療室にいると思っていたはずの雲水が厨房に現れ、玄奥が聞く。
「治療室に桔梗が行ったろ? 手当したか?」
玄奥の声に、雲水は首を傾げて。
「……いや? 誰も来なかったが……」
え。
思わず皆で顔を見合わせた。
外は吹雪だ。
「皆、手分けして探すぞ。女子たちは神殿の中、男子は神殿の、まずは中庭だ」
「はい!」
慌てて玄奥に続いて裏口から外に出ようとしたとき。
雪で真っ白になった桔梗が、羽織も着ないで着物姿のまま、裏口から入ってきたんだ。
皆、呆然として桔梗を見た。
「……桔梗、どこにいってた?」
玄奥もそれだけしか言えずに桔梗の言葉を待つ。
桔梗は全然寒そうでもなく、痛そうでもない風情で、真面目な顔で言った。
「さっき、人参駄目にしちゃったから、玄関から出て畑に行って、2本抜いてきました」
しばらくの沈黙の後。
「ばかっ!」
僕はそれだけ言って、温かい部屋の温度で身体についた雪が融け始めた桔梗を、ぎゅっと抱きしめていた。桔梗の身体は、めっちゃくちゃ冷たかった。
「玄奥、桔梗の身体、冷たすぎる。僕、治療室で絆創膏貼って、すぐお風呂に連れて行く」
その日は料理が終わったら早めにお風呂に入ろうと言って、先にお風呂を沸かしていたことを思い出して、僕は言ってた。
僕は桔梗が手に持っていた人参を、厨房の隅の野菜置き場に置き、僕がぎゅっとしたことでなぜか固まってしまった桔梗の手を引いて、雲水について治療室へ向かう。そして、治療の後、二人で先にお風呂に入ることにした。
お風呂の中で、桔梗は僕と一緒に湯船につかり、怪我をした手は湯につけないように上に軽く挙げて、なんだかしゅんとした風情で、ずっと黙っていた。
僕は言った。
「あのさ、……ごめん、さっき、バカって言ったのは、別に責めたんじゃないんだ。慌ててたんだ」
桔梗は首を傾げて僕を見る。
「怪我をしたら、まずは手当しなきゃ駄目なんだ。ひどくなっちゃう。
それに、吹雪の中なんかに薄着で出たら、風邪引いちゃうだろ? 前に倒れたとき、苦しかったろ?」
僕はぼんやりと、兎が死んだ頃の事を思い出す。
寒いとか、たぶん、あんまりわからないんだよな、桔梗。
桔梗は黙って頷いた。
どうしようかな、と僕は考える。
何て言ったら、無茶しないでいてくれるんだろう。
一生懸命考えて、僕は言った。
「あのさ、今から言うことは、桔梗と僕の、二人だけの約束だ。
って言うか、約束して。
雪の中に、ひとりで出かけたりしないで。行こうと思ったときは、僕か、もし僕がいなかったら、誰か大人を誘って。それで、駄目って言われたら、外に出ないで。危ないから」
伝わったかどうか、わからなかった。
でも、桔梗は真面目な顔で頷いて、
「わかった。心配かけてごめん」
と、言った。
そして、お風呂から上がったら、皆が野菜炒めを作ってくれていて、それと、食後の果物にミカンが一つずつ配られた。
僕はお風呂に入った流れで桔梗の隣で食べていて、お風呂で暖まり、お腹もいっぱいになり、ふわりと柑橘の良い香りがして、なんだか幸せな気持ちで桔梗を見た。
「おいしいな」
と笑うと、桔梗はほんの少し笑って、
「うん。おいしい」
と頷いた。
その時思った。
桔梗はあんまり喋らないし、笑ったりもしないけど、いつも静かで、とても優しい。
だから、自分の怪我よりも先に、駄目にした人参を皆に取ってこなきゃって思った。
きつく言ったりする前に、そこもちゃんと見てあげないといけない、って、思ったんだ……。
……なんでこんな昔の夢を見たのか……。
そう思いながら少し意識が浮上した。
柑橘の香り……?
そう感じるのと同時に、そっと細くて冷たい手が、額に触れる感触があった。
そのひどく静かで優しい感じを長年知っている。
……桔梗……?
ぼんやりと目を開くと、開け放たれた部屋の扉から、そっと立ち去りかけている華奢な背中が目に入る。
「……桔梗」
寝起きで、掠れた声でその名を呼んでいた。
俺の声が届いたのか、桔梗はゆっくりと振り返る。
長い髪をゆるくひとつに結って、鋭い視線、いつも通りの真面目な顔をして。
寝台に寝転んだままの俺と目が合い、数秒の沈黙が経過した。
せっかく来たのに、黙って帰って行くところが、桔梗という人間を表しているなと思う。
いつも、一見淡々としていて自分からは求めない。群を抜いていると言われてやっている執政業務と、時にやりすぎることもある剣術以外では。
俺は苦笑しながら、ゆっくりと身体を起こす。昨日から発熱していたが、熱冷ましの薬が効いたのか、体感としては微熱程度だと感じていた。
「……まだ寝ていた方がいいと思いますよ」
桔梗は起き上がりかける俺を制し、再び横たわらせる。そして、ほっとしたように息をつき、寝台の脇にある椅子に静かに腰掛けた。
「速水から、清涼が風邪と聞いて、お見舞いに来たんですが……よく眠っていたので、帰ろうとしていました」
ほんの少し微笑むような感じでそう言ってくる。
「お昼に桐矢から夏みかんをもらって。剥いてきたんですが、食べれそうですか?」
なるほど、みかんを一緒に食べた夢を見たのは、この夏みかんの香りが原因か。
「いただこうかな。……熱と言っても、知恵熱みたいなものだからな。さほど心配ない」
「知恵熱とは?」
はて、と言う風に首を傾げて桔梗が聞いてくる。
俺はふふと笑って言った。
「本来は、赤ん坊が急に熱を出したりすることを言うようだが……頭を使ったり、衝撃的なことがあったりした時に熱が出ることを言うこともある」
ふうん、と頷いて少し視線をめぐらし、はたと思い当たったように桔梗は頬を赤らめた。
(……なんだこの異様なかわいさは。)
俺は頭の隅に浮かんだ考えはそのままにして、桔梗が剥いてきてくれたという夏みかんを一房……ご丁寧に、薄皮も白い筋も綺麗に取ってある。楊枝までつけてあって、これもまた、いかにも几帳面な桔梗らしい。
「……おいしいな」
思わず、子供の頃と同じような感想を言っている。
桔梗は少し微笑み、言った。
「よかったです。
でも、……熱が出るほど衝撃を与えたということであれば、それは申し訳なかったです」
気にする必要はないのだが。
何も求めないと思っていた桔梗が告白してきたことは、発熱するほどの衝撃と同時に喜びをもたらしたのだから。
……と。
夏みかんだけではない、何かかぐわしいとも言える香りが感じられて視線を彷徨わせると、台の上に橘の花枝がひとつ、落ちていた。
「……これも見舞いか?」
聞くと桔梗は、ああ、と頷いて。
「ちょうど、翡翠宮を出るときに満開だったので……こういうものでも、体調不良の時に目にすると、何か気分がやわらぐだろうかと」
「……綺麗だな」
「そうですね」
俺は、しばらくじっとその小さな白い花々を見つめて、小さく言った。
「今まで気付かなかったが……橘の花は、桔梗に似てるな」
小さくて可憐で、ほんの少しの力で壊れそうに儚い。でも、その甘やかな香りで存在を主張してくる。
すると、滅多に笑わない桔梗が、面白そうにくすっと笑った。
「これほど可憐ではないよ。……熱があるから、そう見えるのかもしれないね」
少しくだけた口調になる。
そうだな。熱があるから、こういうことも言えるのかもしれない。
俺は言った。
ずっと心の奥に隠していた真実を。
「……気持ちに名前をつけなくてもいいと、一昨日言ったが……。
一度だけ、言わせてくれ。
花に例えたりしたくなるのは、おまえだけだ」
桔梗は一瞬動きを止めて、俺を見つめた。
俺は続けた。
「好きだと言わなかったのは……性別とかなんとかよりも、……もし、俺がそれを言うことで、おまえがこの前みたいに泣いて止まらなくなったりだとか、そういう……何か、壊れたような状態になってしまうのを、避けたかったんだ」
そう言うと、桔梗はまた真面目な顔になり、一言一言を考えるように、言う。
「……物ではないですから……壊れたりは、しません」
思わず俺は笑ってしまう。
「そうか。杞憂だったならよかった」
くすくす笑いながら、そう言った。
ほんとうによかった。
すると、桔梗はもう一度微笑んで。
「なんにしても、よくなったら、お茶を飲みに来てください」
その言葉に、俺も微笑んだ。
「そうしよう」
日常は変わらず続いて行く。
そんな中で、お互いがお互いを想っていたと知ることが……たったそれだけのことが、これほど心を安らげるなんて、知らなかったんだ。




