5. 静謐 ー桔梗と清涼ー
「桔梗さん! お昼に白龍亭で会うの、めずらしいですね!」
私が住む翡翠宮、その食堂である白龍亭の扉を開けると、入り口近くの席に座っていた薫がすぐに気づき、軽やかな声でそう言った。
黒髪を肩につかない程度で切り揃え、意志の強そうな大きな目。茜色の着物がよく似合っている。隣には、薫の恋人であり神官である玲が、藍色の着物姿でにこやかな表情で座っている。
薫が十六歳、玲が十七歳。時々喧嘩になることもあるらしいが、いつも、知らない内に仲直りして、楽しそうに話している。
玲が薫を見つめる、いつくしむような視線を見ていると、昔、玲の母の奏が生きていた頃、彼の父、龍樹もそんな風に奏を見ていたと、なつかしく思い出す。
でも、そのとき何か、流れ星のように淡い光みたいなものが心の奥をよぎった。
もっとずっと長い間、知っているものがあるような。
それはいったい、何だった……?
「ほんと、桔梗が昼にここに来るの、めずらしいよな」
玲のなめらかな声が耳に入り、私ははっと我に返る。
「……今日は仕事が区切り良く終わったので、夏野に誘われて来てみました」
いつもなら真顔のままで答えるところだが、久しぶりに会った薫、そして一時期体調不良だった玲を気遣う気持ちが少しあり、玲の父母、龍樹と奏の若い頃のことを思い出したなつかしさもあって、私はかすかに笑って答えた。
「ほっとくと、効率が悪いとか言って、桔梗はいつも昼は食べないからな。今日はちょうど書類整理が終ったところだったから、一緒に連れてきたんだ」
玲と同い年で、いつも私の政務助手をしてくれる夏野が爽やかに言う。すると、薫が驚いた顔をした。
「いつも、お昼は食べないんですか?」
心配そうにそう聞いてくる。
私は首をかしげて。
「そうですね。途中で切り上げると、戻ってきたときにどこまでやっていたかわからなくなりますし……それに、お昼を食べると、眠さまでは感じないのですが、能率が悪くなる感じがしていて」
「結構、融通きかないんだよな、桔梗は。……今日の献立、もらいに行こうぜ」
夏野に促されて奥の厨房のところに進む。
この食堂は、厨房の横で盆をもらって、今日の献立を一式もらうようになっているのだ。
カレー丼? という一皿と、蒸し野菜の皿と水をもらい、夏野が進むままに薫と玲が座っている席の前に座った。
「カレー丼というのははじめて食べますが、変わった見た目ですね」
米の上に、茶色のとろみのある煮込み風のものがかけてある。肉と人参と葱、芋も入っているようだった。別の小さな皿に漬物と、あとは味噌だれのかかった蒸し野菜だ。
「桔梗は初めてかもな。父さんがこの前、翡翠宮に何日か滞在してた時に、料理長の桐矢に教えたらしい」
私の目の前に座っていた玲が、微笑んでそう言ってくる。玲の父で薬師の龍樹は、時々この翡翠宮に来ることもあるが、基本的にはここから数キロほど離れた、湖のほとりの家に住んでいる。
そう言えば、玲が体調不良の時、龍樹は何日か翡翠宮に滞在していたなと思いだし、私は頷いた。
「龍樹の味ならば信用がおけますね」
龍樹は料理が得意なようで、私や玲、夏野が育った神殿でも、彼が教えた菓子などが日常的に作られていた。
「ちょっとピリ辛ですよ」と薫。
「ぴりから……?」
「ぴりっとした辛みがあるんだ。なんか、薬草庫にあったウコン、丁字、肉桂、馬芹、それと生姜とか……あと、龍樹さんが昔、旅してたときに西から持ち帰った胡椒って調味料とか、色々入れてあるらしい。それを肉と野菜と一緒に炒めて、温かい蕎麦を食べるときの出汁で煮て、最後にとろみをつけるって教わった」
首を傾げる私に、隣から夏野が教えてくれる。
「ああ、なるほど。薬師ならではと言うか……身体が温まりそうですね」
「冬も良いけど、季節問わずおいしいんだ」
と玲。薫が隣でうんうんと頷いている。どうやら二人の大好物のようだった。
「桔梗さんは、辛い食べ物は大丈夫ですか?」
心配そうに尋ねる薫に少し微笑んで頷き、一口いただいてみることにした。
最初、熱い? と思って……それは、様々な調味料が合わさった複雑な辛みだと知る。それが下に敷いてある米と一緒になって、……なるほど。
「…………」
沈黙する私を玲も心配そうに覗き込む。
「苦手だったか?」と玲。
「駄目だったら別の何かもらってきてやろうか?」と夏野も聞いてくる。
私は三人の不安そうな表情がなぜかおかしくなり、思わず笑った。
「大丈夫ですよ。私は好き嫌いはないですし。おいしいですね。清涼も好きかもしれません」
少し辛くはあるけれど、まろやかな味で食も進む。
ぱくぱくと食べながら私は清涼のことを考えていた。
神殿で幼い頃から一緒に育った、同い年の清涼は、今はその神殿で僧医となり、医療の一端を担っている。私は翡翠宮で執政という職についているが、清涼は私の淹れるお茶を好んでいるようで、時間が空いているときなどに週二~三回、私の執務室にお茶を飲みに来ることが習慣のようになっていた。
辛い食べ物も好きだったな、と思いながら言うと、既に食べ終えてお茶を飲んでいた薫が、ふわりと微笑んで、言った。
「時々、清涼さんと桔梗さんが、湖のところを歩いているのをお見かけすることがあるんですが、仲良しですよね」
半分ほどカレー丼を食べたところでそう言われて、私は再び首をかしげる。
「仲良し……そうですね。清涼は私の淹れるお茶を気に入っているようで、飲みに来たとき、私が散歩ついでに神殿まで行くことがあるんです」
私としては、せっかく来てくれたから送ろう、という気軽な感じだった。
すると、薫が続けた。
「清涼さんが来られるのは、桔梗さんに対する一種の愛ですよね……」
……愛?
「……薫」
思ってもいなかった薫の言葉に、匙を取り落としそうになり、かたんと皿に置く私を見て、玲がたしなめるように薫の名を呼ぶ。薫は、
「うん?」
とまったく何も気付いていない風に、玲のことを見た。
「言葉で決めつけるもんじゃないだろ?」
やさしく教えるようにそう言う玲。今度は薫が首をかしげる。
「だって、清涼さんが桔梗さんを見るときの目は、玲が私を見るときと同じだと……」
「かおる!」
慌てたような玲の大声に、薫は驚いたように玲を見た。
玲が、薫を見るときと同じ……。
それは、青天の霹靂だった。
さっき、私はなんと思った?
玲は薫をいつくしむように見ていて、龍樹が奏をそんな風に見ていたと。
その時、流れ星のように、心の奥にするりと光って消えた、たしかに知っている視線は、いったい誰のものだった?
がたん!
いきなり立ち上がった私を、玲も薫も、そして夏野も、驚いて見つめた。
私は言った。
「……ちょっと、用事を思い出したので……席を外します。
食器は後で片付けます」
それだけ言って、私は駆け出した。
知っていた。
長い長い間、知っていたのに。
私が十歳の時から、いま、四十になるまで、三十年だ。
私は動揺していた。
私は他と比べて、異常に鈍い側面がある。
痛みも、眠さも、寒暖差もあまり感じないし……かろうじて、視覚と聴覚、嗅覚、そして味覚は他とあまり変わらないようだから、日常生活を送れているんだろうと思って来た。
でも、何が鈍いって、痛覚だけでなく、感情というものにとにかく疎い。
恋愛には興味がないと、少し前に、玲と夏野に言ったことがあった。
でも。
私は、まったく自分に結びつけられていなかった。
楽しいも、うれしいも、かなしいも、すべて神殿に入ってから清涼が教えてくれたのに。
私は?
ずっとずっと、清涼の気持ちをないがしろにしてきたというのか?
……そして、私自身の、この心の奥にある、熱みたいなものがあふれて広がっていくような、この気持ちは?
ばたん!
私が神殿の厨房の扉を激しく開けたとき、そこには清涼がかまどの前で、ひとり、何かを作っているところだった。子供たちは皆、学び舎に行っているのだろう。他の僧医もいなかった。
清涼の背中を目にした途端、息をきらした私の目からは、ぼろぼろと涙がこぼれていた。
水が器からあふれるみたいに。
扉が開く激しい音に振り向いた清涼は……いつもと同じ、湖の底みたいな、深く何でも受け止めてくれるような瞳をして、驚いた顔で私を見た。
私は通常、泣くことも笑うこともあまりない。
そのことは、清涼も、あまりにもよく知っていたから。
「……何をそんなに泣いてる?」
落ち着いた低い声が胸を満たす。
私の目からは涙が止まらずに流れ続けている。
一種の愛だと、薫が言った。
私は、今まで、この目に、声に、腕に、そして背中に、どれほど甘えてきたのだろうか。
ただ黙って涙をこぼし続ける私を見つめて、清涼はふと息をついた。
「そんなに泣いてちゃ何も話せないか。いつもと逆だが……薬草茶淹れてやるから、ちょっと落ち着け」
そして、自然に私の片手を引いて、かたんと傍の椅子に座らせる。
私は自分の涙を片手でぬぐって……でも、後から後から、止まらずにあふれ続ける。
まるで、これまで気付かないまま止めていた、心の湖にあった関みたいなものが、壊れて開きっぱなしになったみたいだった。
ふわりとほのかに甘い香りがして、清涼は、薬草茶を注いだ湯飲みを私の前にかたんと置いた。
「この前、龍樹から少し分けてもらったんだが……カミツレと言って、緊張を解いたり、精神を安定させる効果があるらしい」
カミツレか。翡翠宮の薬草庫で見たことがある。
それは甘い林檎みたいな香りで、すう、と吸い込むと、単純なようだがその香りだけで、あふれていた涙が少し止まった。
一口飲んで、やわらかい味わいがふんわりと胸に沁みて、やっと声を出せるくらいには落ち着き、長い沈黙の後で、ようやく私は言葉を紡ぐ。
「……さっき、薫と話していて……」
私の目の前に座って、私が話し出すのを黙って待っていてくれた清涼、うん、と頷く。
私は言った。
「言われたのです。清涼の私への気持ちは一種の愛だと。
……でも、言われてはじめて、言葉にしてわかった……私は、清涼が好きなのです」
「……は?」
清涼は、完全に動きを止めて私を見つめた。
その反応を見て、私は慌てて立ち上がり、続ける。
「でも! そうは言っても私は男ですし! 恋愛もわかりませんが、肉体関係などは、ちょっと!」
部屋に、再び沈黙が訪れた。
「……っ……ははっ」
数秒なのか、数分なのか、おそろしく長く思われた静寂の後。
急に笑い出した清涼に、私は度肝を抜かれ、ただ彼を見つめた。
「……いや、ごめん。ちょっと待って。あはははっ……」
肩をふるわせて笑っている。ある意味爆笑に近かった。ここまで清涼が感情を爆発させるところを見るのは今までに何回かしか無かったことで、私は唖然として彼を見つめる。
涙を流してまで笑っている。
これは、否定されているのだろうか。
肯定されているのだろうか……?
しばらく笑い続け、目の端に浮かんだ涙をぬぐい、はあ、とため息をついて。
「あー……笑って悪かった。
なんて言ったらいいのか……俺だっておまえを手篭めにしようなどと思っちゃいない。そういうことは女とやってきたと知っているだろう?」
知ってはいた。
理知的で背が高く、落ち着いた清涼は若い頃から人気があったし、綺麗な女性と付き合っては、結婚まではいかずにお別れとなるところを何度も見てきた。そして、それは、清涼が早くに目の前で両親を亡くしたことと、実は昔、十三歳の頃に私が死にかける大怪我をして清涼が号泣したことがあり、その時に、もうこんな怖い思いをするなら、大事な女なんて作らない、と私に宣言した結果でもあったので、私はなんとなく自然にそのことを受け入れていた。
それほど、ご両親の死は、清涼にとって深く刻まれた傷だったのだろうと。
私が死にかけたことがそのことを思い出させたのなら、私にもその責任の一端はあると。
そんなことを思いながらも、私は清涼の言葉に、ほっと息をつく。
そもそも恋愛というものにまったく興味がないのに、肉体関係を持ちたいなどと言われたら、どうしたらいいかまったくわからなかった。
すると清涼は、走って来て乱れた私の髪を一房、そっと手に取った。
いつもゆるく結っている髪紐は、走るうちに解けてどこかに落としてしまっていた。
彼は静かに言った。
「……おまえに対する俺の気持ち、か。
この気持ちは……たしかに薫が言うように、一種の愛かもしれないが……情愛なのか、友情なのか、他の何かなのか、もはや私もわからん。
……でも、名前をつける必要もないと思いますが、ね」
最後の言葉づかいが丁寧語になっていて、私の胸はどきんと脈打つ。
言われたくないことを言ってしまったのだろうか。
ここに来て、清涼が怒って絶交などと言ってきたら、私は耐えられるのだろうか?
すると、清涼は、固まってしまっている私を見て、少し微笑んだ。
「なんにしても、桔梗は私に、晩年までお茶を淹れてくれるんでしょう?」
それは、奏が亡くなった頃に二人で交わした約束だった。
でも。
清涼は、同い年で、ずっと神殿の隣部屋で育って来た私にだけは、くだけた話し方をしてくれるのが常だった。私はいつの間にか、長い間にそれを当たり前だと思っていて、清涼が丁寧語で話すことが、これほど怖いと思わなかった。
他の人に言うような丁寧な言葉遣いに、私の目は再び潤む。
「どっ、どうしても肉体関係を持ちたいと言うなら努力を」
「しなくていい! なぜ話が戻る!」
口調が再びくだけた清涼に、私はほっと息をつく。
どうやら、怒っていたり、嫌われたりしたわけではないらしい。
「じゃあ、……清涼、ちょっとしゃがんでください」
私の言葉に、清涼は首をかしげて。
「……こうか?」
椅子の下にしゃがみ込む清涼。いつも背が高くて見上げる彼の頭が、今は少し下にある。椅子に座ったままの私は目を閉じて、視線の下に来た清涼のこめかみに、そっと一瞬頬を寄せた。
数瞬の沈黙の後。
私は、もう駄目だと思い、ばっ! と立ち上がる。
「むかし! 二歳の玲が、龍樹に! こうしていたので!」
くるりと厨房入り口の扉の方を振り返り、帰ります、と駆け出した。
私の背中で、一人残された清涼が一言、
「なんだったんだ、今の……」
と呟き、くすくす笑う優しい声を聞きながら。




