補足 その後の日本
補足 その後の日本
1905年5月27日の日本海海戦の勝利のあと国民はその奇跡の勝利に総動員で提灯行列を行うほど熱狂したのである。
しかし同年9月の小村寿太郎外相とロシア側ウイッテ代表によるポーツマス条約の結果、あまりにも大きな犠牲の割りに当時の国家予算の4倍である20億円の戦費を賠償金として獲得できなかったことに対して民衆は「日比谷焼討ち事件」に代表される暴動を起こして日本各地で不満を表現した。
この条約はそもそも負けたと思っていないロシアからの賠償金の支払い条項は一切なしで日本が得たものは樺太の南半分、満州南部の鉄道と領地の租借権、大韓帝国の排他的指導権のみであった。
あとは副産物としてはロシア帝国の南下政策の芽を潰したことと明治の初期に各欧米列強と交わした不平等条約の改正の一助となったことであろうか。
あまりにも期待はずれであったこの条約をうけて当時の新聞の論調は大きく2つに別れ、主戦派であった「日本」新聞社では編集長の古島一雄をして戦争の継続と賠償の再要求を述べたのに対して反戦派であった「国民新聞社」は早期講和の妥当性を述べた。
日露の戦いが兵力、国家予算ともぎりぎりの中で拾った千載一遇の勝利に対して多くを知らない民衆は「なぜ満州でもっとロシアを追撃しなかった?」、「日清戦争の時のように賠償金をもっととれたはずだ!」と一方的な意見をぶつけたのであった。
ここで矛先となったのが徳富蘇峰が経営する反戦派「国民新聞社」であった。蘇峰はその社説の中で「勝利に図に乗って決してナポレオンや今川義元、秀吉のようになってはいけない、戦いは引き際が大切なのだ。」と言ったことが国民の逆鱗に触れ売国奴とみなされて同社は5000人の暴徒に襲われ本社のガラスが割られ、火がつけられた。
しかし当の徳富蘇峰社長は「なあに、これくらい好きにやらせておけ。これでいいガス抜きになる。」と歯牙にもかけなかった。
豪胆である。
9月5日に起こったこの「日比谷焼き討ち事件」はその後拡大し外務省や内務大臣官邸を抜刀隊で襲撃した暴徒は東京市内の交番を標的にして襲い13ヶ所の交番から火の手が上がった。またロシア正教とかかわりがあるニコライ堂や講和を牽引したアメリカ大使館、さらにはアメリカ人牧師のいる教会までが襲撃されまさに無政府状態の様相を呈した。
翌日6日には政府は戒厳令を敷いて軍隊が出動して死者17名、負傷者200名、逮捕者20000名を出してこの騒ぎを収めた。
※
サムライの時代から開国してわずか40年で2回の戦役に勝利した日本は一躍国際社会に華々しくデビューを果たした。
好むと好まざるに関わらず日本は新参者ではあるが東洋で始めての帝国主義国家として世界に認知されてしまった。あまりにも西洋列強と比べて短い期間でこの地位を獲得した事を前述の徳富蘇峰の弟である小説家の徳富蘆花は以下のような表現を用いている。
「ああ日本よ、なんじは成人せり。果たして成長せる乎」
意味は
「ああ、日本よおまえは成長するまもなくあっと言う間に成人してしまった。このあとはたしてしっかり成長するのだろうか?」
彼の予言どおりはその後の日本は外交に驕りが生じてしまった。
今までは列強の南下政策などに対抗してのあくまでも「防衛」でしか使われなかった軍事力を積極的に「攻撃」に使う事を思いついたのである。
これが後の中国本土の進出に始まり1930年代以降のアジアからの欧米支配の払拭に展開していく。
ベトナムのファンボイチャウは日本のこの豹変した政策に対して失望し多くの同胞をともない祖国へ帰っていった。
その後の日本は周知のように日露戦争の勝利に驕った日本の軍部主導の政策が2発の原爆が投下されるまで続いたのであった。




