補足 その後のロシア
補足 その後のロシア
ロシアは日露戦争中に陸軍の明石元次郎などの内部工作などが功を奏しレーニンをはじめとする革命分子に火がついた。1905年1月1日旅順要塞陥落のあとすぐの同月22日、修道士ガポンに率いられた労働者と市民によるデモが起こり、それに対抗したロシア軍隊が市民に発砲して「血の日曜日事件」が起こった。この情報はまたたくうちにロシア全土を駆け巡りニコライ政権に対する憎悪が一般市民に堆積されていった。
この物語の日本海海戦の敗北後は6月に黒海艦隊の戦艦ポチョムキンで水兵たちの反乱事件が発生した。
9月5日にアメリカのポーツマスでセオドアルーズベルト大統領の肝いりで日露両国の間でポーツマス条約が交わされてこの戦争は終わった。
10月にはロシア各地で労働者のストライキが起こりインフラや工場などが停止状態になっていった。首都サンクト・ペテルブルグでは下級兵士や労働者を中心としてロシア語で「会議」を意味するソビエトが多数結成されていったのである。
この運動の拡大によりニコライ皇帝は妥協策として立憲制の制定と国会を開催することを約束した十月勅令を宣言することになった。
いずれにしても日露戦争で弱小国日本が大国ロシアに勝ったことが市民や下級兵士、労働者にとってロシアそのものをいかに自分たちが過大評価していたか本質を知らしめることになったのは間違いない。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」といったところであろうか。
さらに追い討ちを掛けるように1914年の第一次世界大戦ではドイツにタネンベルグの戦いで大敗して経済状況は最悪の状況に追い込まれたのである。
この流れのまま1917年3月首都ペトログラードで食糧危機の大暴動が起こり大規模なストライキが各地で発生した。この暴動の知らせを聞いたニコライ2世は退位を決めて帝政ロシアは事実上崩壊、ここにレーニンが率いる世界初の社会主義国家が誕生するのである。
ロシア領ポーランド
第一次世界大戦末期にロシアからの独立を達成するとウスーツキー大統領は、日露戦争に参加した日本軍指揮官に軍功章を贈った。
余談ではあるがポーランドでは「ノギ」という名前が浸透して試しに「ノギ」という名をつけた人だけを集めたら、教会がいっぱいになるような村があった。
ロシア領フィンランド
マンネルハイムはフィンランド独立の志士として有名である。彼は、帝政ロシア軍の騎兵旅団長として日露戦争時には奉天会戦に参加したが、この会戦の敗北を見て、たとえ日本のような小国家でも国民が団結すれば大国のロシアにでも勝てると思い、ロシア革命の混乱を利用して宿願であったフィンランドの独立を達成した。
戦後フィンランド国内で東郷平八郎にちなんだ「トーゴー・ビール」が発売されたのは有名である。




