a.m.8:00
「やっぱりここにいたね」
僕は、金森に背後から近づきながら言った。彼は頷きもせず黙っている。
彼のいる方から、清かな向かい風が僕の顔に当たる。まだ冷たい。けれど、どこか春の香りがする。生命の萌芽と波瀾を抱くにおい……もちろんそんなものを僕は知らない。知っているのは、蕾を膨らませた街路樹の下を一人で歩く時のにおいだとか、靴紐を結ぶために片膝ついたときにふっと鼻を撫でた土のにおいだとか、そういう類のものだ。
しかしここは車通りの少ない並木道や、都会の一角に造られた緑地ではない。コンクリートで支えられた、学校の屋上である。僕は、どこからこのにおいがやって来るのだろうと思った。空の明るさ以外、ここから見える景色は年中変わらないように見える。グラウンドは背の高い常緑樹に囲まれ、その向こうには朝日を受けてやけにきらきらした町並みがならんでいる。ぎざぎざに切り取られた地平線より下は、長かった冬の間と何一つ変わらない。一方見上げる空は、よく晴れ渡って、いやに遠くの方で青く透き通っている。これを写真で見せられて、五月の昼下がりの空だと言われても、別段疑ったりしないだろう。それには少し、白さが勝りすぎている気がしないでもないが。
僕はぽつりと金森の横について、それを眺めている彼を横目に見る。僕は、彼がどうしてここにいるのかなんてことは知らないが、何をしているのかと聞けば、どんな答えが返ってくるのかは分かる気がした。というよりも、朝空に向かって一心に直立している彼の横顔は、あからさまなデジャブだった。僕はこういう横顔を一つ、あるいは二つしか知らない。
しばらく僕が彼と並んでいる間も、金森はまったく微動だにしなかった。グラウンドに面した屋上の端だ。僕の心は俄に粟立つ。彼の顔からは血の気が退いていた。
「あのさ、君が書いてたやつ……つまり、今僕が書いてるやつの原稿って、どこにある? さっき倉庫の机の一番下を見てもなかったから。君が動かしたのかい」
僕は聞いた。金森は、何か考える事があったのか、それともただ、僕の言葉が頭で理解されるのに時間がかかっただけなのか、しばらくしてから答えた。
「俺は、場所を動かした覚えはないよ。ずっと同じ場所に置いてる」
「じゃあ、他の誰かあ勝手に持ってった、っていうこと?」
「さあ」
「さあ、って」
「いいさ。どうせ、原稿のデータは俺のパソコンの中にも残ってるんだし、欲しい奴がいるならくれてやればいい」
「そうかもしれないけどさ」
それっきり、金森は再び沈黙した。いや、もうそれは沈黙ですらなかった。僕は彼の横で、自分が空気と同化して、質量のない何かになってしまっているんじゃないかという気になった。そうでなければ、彼が風の一部になって、とにかく僕と彼の間で共通の言葉がなくなってしまったような感じがした。
「さっき電話をしたんだけど、電源を切ってるのかい」
金森はやはり、故意にか偶然にか、たっぷりすぎる間を置いて答える。
「うん。邪魔を入れたくなかった」
「そうか。これは申し訳ないね。それにしても、昨日の夜といい今朝といい、感傷的過ぎやしないか?」
その問いに、彼は答えなかった。答える必要もないというふうだった。なるほど、これは、イエスかノーでしか答えないというやつか。これもデジャブだ。とはいえ、彼に二択で答えさせられるほど僕の頭のなかで問いは具体的な形を持っていなかった。ただの漠然とした疑問が、もやもやと飛蚊症のようにうごめいている。所謂、ソフィスティケートされていないというやつだ。口に出すとこっ恥ずかしくなるけれど。
「どうやったら、みんなをがっかりさせずに幕引きができるだろう」
不意に言葉を発したのは、金森の方だった。僕は驚いて、彼の横顔に目を向ける。彼の視線はまっすぐ地平線を見つめている。彼の言葉が僕に向けた質問だったのか、それとも僕でないだれかに向けた質問だったのか、それともただの独り言だったのか、僕には判然としなかった。
「こんなところで言われると悪い冗談家何かかって思っちゃうんだけど」
僕は言った。それから、落下防止の手すりの直下で朝練の生徒や登校ラッシュの雑踏を想像した。そして、そんな喧騒が少しも届いてこないこの場所のことを考えた。ここは、思っているよりも高いのだ。
「別に、そういう終わり方だってあり得るだろう。でも、さすがにそれは面白く無い。滑稽ではあるかもしれないが」
「僕は冗談のつもりだったんだけど」
「うん。冗談だよ」
彼は言った。僕らの後ろ側から、生暖かい風が一つ、さあっと駆け抜けていった。
「本当はもう、終わり方は決まってる」




