a.m.7:50
僕は花田と一緒に保健室から教室に戻った後、一人で再び教室を出た。時計はよく確認しなかったけれど、まだ8時にはなっていない。廊下には人影がまばらだ。特に急いでいるわけではないが、自然と早足になった。
普段から一人でいる人間は、歩くのが早くなるらしい。確かに道理にかなっているが、間違いなく余計なお世話だ。けれど、僕は普段から一人でいる割に、歩くのは遅いほうだと思う。だからどう、ということもないけれど。
とにかく僕は、早足で廊下を進み、階段をのぼり、生徒会室へと向かった。“倉庫”の鍵を取りに行くためだ。いくつか、そこで確認したいことがあった。たいしたことじゃない。春の部祭に出す部誌の原稿についてだ。いや、僕にとってはたいしたことだ。企画運営を全部僕任せにしている金森にとってはそうでもないだろうが、全部任されている僕にとっては実にたいしたことだ。まず、彼に原稿を催促するだけでも一苦労だし、それで渡されたものにルビを振ったり体裁を整えたりする作業もかなり手間がかかる。まあ、金森に言わせれば、無から有をひねり出す作業のほうがよほど労力がいるそうだが。
そのようなことを考えていると(あるいは少し口に出ていたかもしれない)、すぐに生徒会室の前に着いた。戸は半開きになっていて、部屋の明かりはついていない。どうやら出払っているらしい。僕は気にせず、部屋の中へ入って、入ったところにある棚の上の生徒会が管理している部屋の鍵置き場を見る。しかし、そこに“倉庫”の鍵はなかった。おや、と思いその周りも確かめるが、どこにもない。また誰かが先に開けたのだろうか。
そこへ、足音が近づいてくるのを感じて、僕は身体を戸の向こうの廊下へ向けた。
「何か御用ですか……あ、篠原か。どうしたんだ?」
やって来たのは池だった。彼は生徒会執行部の会計係だ。生徒会選挙前の立会演説会ではいつも有名人の演説の真似を器用に真似する愉快な人だ。僕も一応客なのだが、鍵を取りによくここへ来ているうちに、限りなくプライベートな対応をされるよになった。僕もそのほうが気楽だから文句はない。
「うん、倉庫の鍵を取りに来たんだけど、もう誰かが開けてたみたいだ。そっちで使ってるのかい?」
僕が尋ねると、池は「全然」と首を横に降る。それから、
「そういえば、小説同好会はいつのまに部員が増えたの」
と、不思議なことを言う。
「え? 増えてないけど、どうして」
「ああ、じゃあ勘違いか。この前、大量に原稿用紙を買い込んでいった女子がいてね。原稿用紙なんて買うのは、君らのところぐらいだから。悪いことを聞いちゃったねぇ」
そう言って、池はにやりとする。彼の高身長で上からにやつかれると、メガネの反射と顔のかげりが相まってあまり快くない。
「人が死んだみたいに言うなよ。にしても、確かに珍しいね、原稿用紙なんて。こっちでもたまにしか使わないのに」
「だろう? しかも、全部十円玉で代金を払ったんだ」
「十円玉? なんでまた」
「さあ?」
池は肩をつぼめる。僕も、十円玉、と言われて何かがひっかかった。しかしそれが何かは思い出せない。
「じゃあ、もう用は済んだから」
僕は、両手を壁と戸に突っ張って入り口を塞ぐ池の身体を押しやるようにして外に出た。彼も他に用事はないらしく、黙って生徒会室に入っていった。
“倉庫”の鍵は開いていた。むしろ、この状況では開いていなかったらかえって問題である。しかし、昨日金森と来た時のように、鍵を開けたのであろう誰か、は中にいないようで、明かりも点いていない。生徒会が使っているのでもないなら、いったい誰が、と思いながら、戸を開けて中へ入る。確かに、そこには誰かがいた気配があった。
気配……少し前までは、物音だとか被視感だとか、第六感的な物のことだろうかと思っていたが、その一部は人から発せられる静電気が原因らしい、と最近知った。少し興ざめな気がするが、まあ、そうなのだろう。毛深い人の方がよりその“気配”を感知しやすいそうだ。動物にもそれが当てはまるなら、なるほど、彼らが人の近づくのに敏感なのも分かる。
とにかく、気配などなかろうと、ここにさっきまで誰かがいたのは確かなことだ。今は別に気にすることじゃない。僕は右側にある棚からいくつかのクリアファイルに挟まれた原稿を取り出して、ホチキスで留められているごとにその題名を確認した。全部で十数タイトルあるが、すべてを部誌に載せるわけにはいかない。
全部の題名をざっと見て、かつてそれらを読まされた時の記憶を掘り起こしていると、ふと、アレのことが気になった。彼が僕にバトンタッチするまで、飽きもせずに書き続けていた文章だ。確か、窓の前の机の、一番下の引き出しに、編集用のノートパソコン(僕の自前)と一緒に金森は保管していた。
もちろんアレを部誌に載せるつもりはない。あまりにも長いし、それに、なんというか、不適切だ。あそれとは別に、なんとなく、読みなおしてみたい気がした。
けれど、引き出しの中にそれはなかった。僕のノートパソコンが居心地悪そうに収まっているだけだった。はて、僕が知らないうちに金森が場所を移したのだろうか。それとも他の誰かが?
どうでもいいはずのことが、急にどうでもよくなくなってしまった。とりあえず、後者の可能性よりは、前者の方があり得るだろう。そう思って、金森の携帯に電話してみたが、向こうが電源を切っているらしく、つながらなかった。
恐らく、電話は大事なときにつながらないようになっている。マーフィーの法則的に。とすると、これは実は重大なことなのだろうか。
僕は、やはり早足で“倉庫”を出た。




