2月25日 1
7時40分
「今日ってもう二次試験の日なんだよね」
ユウは言った。彼女の机の横に立っていたミサは、そうねー、と、あまり気の入っていない声で頷く。
「あと一年したら自分も、って考えたら、こんなんでいいのかなぁ、って思わない?」
「ふーん、ユウもそういうこと考えるの」
「考えるよー」
「でも、危機感持ってるだけじゃだめなんじゃない?」
「う、確かにおっしゃる通りです……」
明かりの点いた教室には、後部のユウの席にこの二人が、そして前方には篠原がいた。学年末テストも明けた朝の教室には、お決まりのこの三人を除いて、わざわざ早朝登校しようとする者はいなかった。篠原は、自分の席で黙って英語の教科書の今日授業でやるページを開き、そこの英文を読み流しつつ後ろで起こっている会話に耳を傾け、時々はっとして英文に視線を戻しても、また始めから読んでいるうちに意識が後ろに持っていかれる……ということを繰り返している。だったら意地を張ってないでその会話に参加したらいいだろう、と言うところだが、彼は彼で、他所で始まった会話には首を突っ込まないという理由のよくわからないルールを貫いているのだった。
「先輩たち受かるといいな」
そう言って、ユウは珍しく深刻そうな顔をする。彼女の言う「先輩」たちの結果に、自身の一年後を占うような意味合いを込めていないでもないようだ。それを言えば、合格実績だけで高校や塾を選ぶのも占いのようなものだ。
暫く教室に沈黙が訪れた。その間、三人は三人とも、別々の「先輩」を頭に浮かべていた。ユウは、吹奏楽部の、やたらたくさんいる先輩たちを、その顔と名前を一致させるのに少し手間取りながら(名前よりも、それぞれの担当楽器の方がよほど思い出しやすかった)。ミサは、彼女が秋波を送る“特別”な先輩たちのことを。篠原の場合、彼が思いつく顔は一つしかなかった。そして、彼はそのことについてどう心配していいのか、そもそも心配する必要があるのかどうか知らなかった。それで、すぐにその顔は彼の頭から消えた。その代わりに、もし同好会に来年も新入部員が入らなかったら、自分が入試の時にこうやって心を砕く後輩なんて一人もいないんじゃないかと、ある意味で暢気なことを考えていた。
「あ、ちょっとごめんね」
沈黙を破ったのはミサだった。彼女はそう言ってユウに目配せすると、小走りに廊下へ出て行った。ユウは、その目配せの意味が分からず、暫時呆気にとられてから、まあいいか、と机に勉強道具を広げた。
ミサは、廊下に出ると、正門側の階段の方向を凝視した。ユウの席の横で、廊下側を向いて立っていた彼女は、教室の前の戸の向こうにちらりと姿を現した影をしっかりと捉えていたのだった。その影は、ミサたちが教室にいることを見ると、振り返って戻っていこうとした。けれども、ミサはここ数日で最大の関心事を見す見す帰してしまうほどお人好しではなかった。
「Sちゃん」
ミサは、ゆっくりとした足取りで階段へ向かうSの後を小走りに追いながら、その背中に呼びかけた。Sは、足を止めて振り向く。そしてミサの姿を認め、少なからず面倒そうに顔をしかめた。しかしミサはそれくらいでは怯まない。
「ねえねえ、ちょっとお話したいんだけど、いい?」
「………うん」
そう答えると、Sは再びゆっくり歩き出す。話は道すがらにしてくれということだろうか。
「教室はだめ?」
ミサの質問に、Sは黙って頷いた。
「そっか。……そうそう、Sちゃんって部活はなに?」
「まだ、入ってないよ」
「まだ? ということは、これから入るの? どこに?」
ミサの質問攻めに気圧されたのか、Sは口を開かない。
「うちの写真部も大歓迎だよ」
「…ごめんなさい。もう決まってるから」
「そうなんだー、残念。んー、じゃあどこなんだろ。文化部だよね」
Sは頷く。そこで二人は二階へ降りる階段にさしかかった。
「もしかして美術部? この前の朝、美術部のナオ君と一緒にいたでしょ」
ミサは言った。彼女はナオヤのことを“ナオ君”と呼ぶ。先輩としての敬意は、ない。
と同時に、彼女は自分の言葉の後にSの目が一瞬見開かれたのを見逃さなかった。
「違うけど……見てたの?」
Sは、穏やかな、あるいは平静を装った声で聞く。
「うん、たまたまね。でも、それなら何の話をしてたの?」
ミサの問いはようやく核心に迫ろうとしていた。つまり、Sとナオヤがどういう関係なのかについて。しかし、Sは口を閉ざして、一歩下の段に視線を落としたままだった。階段を一階分降り切る間、二人の小さな足音だけがこつこつと響いた。そして、一階の踊り場に着いた時、Sは不意に、吐き出すように、
「役割のこと」
と小さな声で言った。
「え?」
突然の言葉に、ミサは聞き返す。が、その直後、Sは急に咳き込み始めた。ミサは最初その場しのぎでSがわざとやっているのかとも思ったが、その発作は次第に激しくなり、間断のない咳の中に嗚咽が頻りに混ざるようになって、Sは踊り場の壁に寄りかかり、うずくまった。
「大丈夫?!」
ミサはSの縮まった背中に手を当てる。発作は長くは続かなかったが、それが演技でないことは明らかだた。
「………ごめんなさい。まだ身体が追いついてきてないの」
そう言って、Sはまた一つ咳をする。
「いいよ、もう喋らない方がいいよ。変なこと聞いてごめんね。保健室、すぐそこよ。一緒に行こ」
「ありがとう」
Sは、悪い汗を一杯にかいた顔を上げて、壁にもたれながらふらふらと立ち上がる。肌の色も、見違えるほど青白くなっていた。




