2月25日 2
16時20分
Sは、再び教室の前に来ていた。左手には青い鞄を提げている。今朝は教室にいた顔ぶれも顔ぶれだったために、結局入ることはできなかった。そもそも始めから入れるとは思っていなかったが、あの後すぐに発作が起こったことを考えれば、退いておいて正解だったのかもしれない。けれど、そのおかげで作業はすっかり遅れてしまった。体調はその分戻ったけれど……彼女は、夕焼けにはまだ早い時刻の廊下を歩く道々、そのようなことを考えていた。空気はうっすらと冷えてきている。まだ二月だ。ここから夜までは短い。
教室には、前の方の席に集まって何か歓談している女子数人の他は誰もいなかった。それを確認すると、Sは視線を落としながら後ろの戸を開けた。女子たちはSに目を向けるが、彼女の姿を見ても何とも思わずに、そのまま会話に戻っていった。たいてい、目さえ合さなければ他人同士には他生の縁すら介在しない。
Sはロッカーに沿って歩き、教室を横に半分ほど歩いたところで止まった。左向け左をすると、そこのロッカーの上には、花田の貯金箱が未だ置き去りにされている。彼の頭のなかには、使い終わった貯金箱も、使い道のない十円玉もとっくに存在していないのだった。Sはその貯金箱を手に掴むと、無表情に、なるべく音をさせないように、左手に持った手提げ鞄の中へしまった。
そして、踵を返し、Sは教室を出た。相変わらず前方の女子たちは他愛もないことで盛り上がっている。教室の後ろで起こった小さな変化には気づこうともしない。壁を挟んでその横を通り過ぎる間、Sはそんな彼女らのあり方に不意な羨望を感じた。彼女は少し早足になった。
「ごめんください」
十分ほどの後、Sは生徒会室の戸を開けた。開けた部分と戸の窓から、夕日の差し込む生徒会室の様子が見える。といっても、入口の前に横長の棚が置いてあって、狭い部屋の下半分はほとんど隠れているが。棚の上には書類やらファイルやら、マスコットキャラクターの粘土細工や果てには手慰みの玩具までがところ狭しと並んでいる。その棚の奥で、二人の男子生徒が机の上のパソコンに顔を寄せていて、壁には張り紙や飾りが余白を惜しんで貼り付けられている。
「はーい」
棚の後ろから、役員の一人だと思われる女の子が一人出てきた。それほど高くない棚にもすっかり隠れてしまうくらいの背丈だ。Sは下目遣いになるのをどこか居心地悪く感じながら、用件を言う。
「原稿用紙を買いたいんですけど」
「あ、分かりました。……池くーん、原稿用紙だってー」
そう部屋の奥に向かって大声で呼ぶと、女の子は棚の後ろに下がっていった。そして、代わりにパソコンの前に座っていたメガネ男子が、面倒そうな顔をしてから立ち上がって、戸までやって来た。
「はい、原稿用紙をお買い求めでしょうか?」
池君と呼ばれた彼は、やけに改まった口調で聞く。会計担当だろうか。彼は身長がさっきの女の子と打って変わって180以上はあるように見えたが、細身のせいか、幾分貧血患者のような物腰をしているせいか、あまり威圧感はない。
「はい」
Sは池の顔を見上げながら答える。
「五十枚一組で二百十円です」
「十組お願いします」
「十組、ですか? ……そんなにあったかな。在庫を確認するのでちょっと待っててください」
そう言うと、池は背を丸めて部屋の奥へ入っていく。それからしばらくして、彼は両手に原稿用紙の小分けされた袋を抱えて戻ってきた。
「ちょうど最後の十組でしたよ」
彼はなぜか自慢気に言う。
「こんなに一気に買わない方がよかったですか?」
最後の、と聞いて、Sは遠慮がちに言う。
「いえ、需要の少ないものなので、ご心配なく。合計で二千百円です」
Sはこくりと頷くと、鞄から徐ろに巾着袋を取り出した。ずっしりと重みのあるそれは、予め必要なだけ数えて分けておいた十円玉だった。
「これでお願いします」
「えっと、これって全部十円玉、ですか?」
池の表情に驚懼の色が浮かぶ。Sは申し訳ないような、おかしいような気分になったが、表情を変えないように努めた。
「はい。ちゃんと二百十枚数えてあります。心配なら数えなおしてもらってもいいですが」
「……いや、オーケーです。お釣り用の小銭が足りなくなってたところなので」
そう言って、池もなんとか体面を保つ。
「では、これに学年と組、名前を」
Sは言われるとおりに貰った紙に書き込んでそれを返し、原稿用紙を受け取ると、池に礼を言ってその場を離れた。池は、しばらく戸口に立ちつくし、渡された巾着袋の重みを持て余していたが、パソコンの前に座っていたもう一人の仲間から呼ばれて我に返ると、そそくさと部屋の奥に戻っていった。




