不思議なこと その4
寺岡は、首だけ振り向いて、足音の主の姿を認めた。それから、体ごとそちらへ向けて、そのまま佇んだ。彼はこういうとき、どういう挨拶が適当なのか知らなかった。それで、ただ、相手の目を一瞥してから小さく会釈をした。その瞬間には、相手は全くの無表情、無感情だった。しかし、相手もつられて会釈をした後、その顔にはっきりとした笑みが浮かんだ。それに対して寺岡は、実にうっすらと、白黒に写せばロールシャッハ・テストの題材になりそうな微笑を返した。その微笑みの奥で、彼は理由も分からず混乱していた。
「寺岡、君?」
彼女は聞いた。まだ口元には、先刻の笑みが尾を引いていた。
「ええ、そうですが」
そう答えながら、寺岡は、目の前に現れた、彼の高校の制服を着る女子高生の容姿を、怪しまれないように観察した。
「あなたから受け取るものがあるって聞いてるんだけど」
そのように言う彼女の表情はどことなく硬い、というよりも、変化に乏しいように見えた。ゆっくりと微笑みが消えていった口は小さく、唇は薄い。鼻は未熟な桜桃の一連なりのようにほのかに赤くふくらんで、目は大きく、瞳は、寺岡が盗み見た限りでは、彼女の長髪の色と同じような、透き通ったブラウンだった。
「はい。昨日、これを渡すように言われたので、待ってました」
寺岡は、ポケットの中をまさぐりながら、少女の前へ近づいていった。その間中、彼の眼はずっと、彼女の肌の色に釘付けになっていた。何より、彼女の肌は白かった。形質の問題ではなく、血の気が退いた、病気じみた色の白さだった。小さな鼻に灯っているかすかな赤みだけが、そこに歴と血が通っていることを示していた。彼は、自分よりも肌の白い相手を久しぶりに見つけた。
寺岡は、ポケットの入り口に引っかかっていたそれをようやく取り出すと、そのまま、それを少女の前に差し出した。それは何かが入った、親指と人差し指の間を広げたぐらいの長さの、細くて薄い木製ケースだった。もちろん彼はその中身を開けてはいなかった。それでもある程度の察しはついたが。
「ありがとう」
そう言って、少女はそれを受け取った。やはり、伸ばされた彼女の腕や手先も、同様に曇った氷のような色をしていた。それは、この公園に立ち込める薄暗い光のせいではないに違いなかった。
それから、少女は両手でそのケースを大切に持ち、迷うことなく開けた。そして、その中から取り出されたものは、一本の、特注品かと思われる小洒落たペンだった。寺岡の予想は当たっていた。そもそも、ケースの長さや重さから、それ以外には考えられなかった。彼も、一歩顔を近づけてその贈り物をまじまじと見つめた。胴体は光沢のある黒色で、ペン先やクリップは真鍮か何かで金色に輝いている。ペン先を押し出す部分はなく、胴体を回してネジでペン先を出すものらしい。その回す部分には、ステンドグラス調の飾りが巻かれている。
それだけならば、それは単に気の利いたプレゼントだった(それでも寺岡が間に入る意味は不明だが)。しかし、そのうちに不思議なことが起こった。寺岡がペンから目を離すと、一瞬彼は目の前の景色が突然変わったような感覚に襲われた。驚いて冷静に辺りを確認すると、何が変わったのかは、すぐに判然とした。朝日がどこかの隙間から差し込んで、公園の一角を照らしだした。それと同時に、少女の肌の色が、見る見るうちに彩度を増していくのだ。
寺岡は目を見張った。彼女の肌は、鮮やかなインクが水を満たした試験管に注ぎ込まれ、均等に拡散していくように、全身日本人らしい茶褐色の色合いになった。それはもちろん、陽が彼女のいる場所を照らしたからだけではなかった。そして、彼女はそのまま、健康的な肌色をした、ありふれた女子高生の姿態に変貌してしまった。その間、彼女は自分の身に起こった変化に全く気づいていないかのように、手の中でペンを転がしては、その細かい意匠に見入っていた。
「あの」
寺岡は、思わず声を掛けた。すると、少女はハッと顔をあげて、
「あ、ごめんなさい。これは……交換、みたいなものなの」
と、聞かれてもいないことを答えた。
「交換、ですか」
寺岡は聞き返す。
「でも、どうして僕なんでしょうか。金森くんは僕以外に適当な人がいないと言っていましたが」
その問に、少女は困った顔をして、しばらく考え込んだ。
「それは、私にも分からない。でも、とにかく時間がないの。本当は、もう時間切れなんだけど」
「時間切れ?」
「そう。時間切れ」
少女は繰り返した。さも当然のことを言うような口ぶりだった。風が二人の頭上を吹き抜け、どこかでヒョウヒョウと擦れ合う音をさせた。
「それじゃあ、私はもう。これ、ありがとう」
少女は受け取ったペンを顔の横に持ちながらもう一度てら岡に微笑むと、くるりと踵を返して、駅前の方へ向かっていった。寺岡は、その様子を、彼女の姿がコンビニの陰に隠れてしまうまでずっと眺めていた。それでもどういうわけか、彼はその後を追ってみようという気にならず、その場に立ち尽くしていた。
時が経ち、どこからか差し込んでいた朝日は再び何かに遮られた。そして、もう一度、公園の一角に、静穏な時間がやってきた。その一部始終を見届けたとき、寺岡は歩き出した。腕時計は、8時ちょうどを示していた。




