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二月二十七日 夕方と、夜の間
目下、フェンスの向こうに広がっているグラウンドは、日没を後にして、ひっそりと静まりかえっていた。普段は、練習を終えてだらだらと引き上げていく野球部やら陸上部やらの話し声、器具を片付ける音がひっきりなしに聞こえる時間のはずだが、今日はそれもない。それに、この寒い中では、のんきに物陰で何かを囁きあうカップルの姿もない。金森は、このタイミングを狙っていたのだ。
僕は、彼に言われたとおり、普通棟の端とグラウンドとに挟まれた―いつか、春岡先輩と一緒に話をしていた―場所の茂みで、校舎の壁にもたれかかり、時間が経つのを待っていた。隣に金森はまだいない。かなり前に、用事ができたから先に待っていてくれというメールが来た。その時にはもう、僕は約束の場所に着いていた。
彼はなかなかやって来なかった。太陽の姿が完全に地平線の下へ隠れてしまった頃には、彼がもう、僕を待たせていることを忘れてしまったんじゃないかとも思われてきた。それでも僕は、鈍くくすぶっている空を眺めながら、ぼんやりと待ち続けていた。待つのには、慣れている。
あまり美しい夕暮れではなかった。
僕は、いつの間にか感傷的になっていた。独りでぽつねんと日が沈むのを見ていれば、誰だってこうなるのだ。夜が更け切れば、いずれそれも収まるだろう。
「待たせたな」
空が一面に暗くなった頃、金森が来た。
「まあ、これからもどうせ待つことになるんだが」
そう言って、彼は僕の右隣の壁に背をつける。そして、寒そうに何度か手をこすった。
「こっちに来ようと思ったら、ちょっと知り合いに捕まってさ。数学を教えてたんだ。まったく熱心なもんだね。テストも終わったっていうのに。で、待たせたお詫びと言っちゃなんだけど」
金森は、制服のポケットから小さな何かを取り出して、僕の胸元へ放り投げた。カイロだった。それは既に、少しだけ暖まっていた。
「今夜は寒くなりそうだから。駅前のコンビニまでひとっ走りして買ってきたんだ」
「ありがとう。でもその割には、全然息が弾んでないようだけど?」
「うん、ゆっくり走ったからね。申し訳ないけど、時間はたっぷりある」
彼は自分のカイロをくしゃくしゃと握る。僕もそれに倣う。
「もう一度聞くけど、タイムマシンがどうのこうのっていうのは、本当に、本気でいってるのかい」
「本気だよ。そうじゃなかったら、わざわざこんな寒い夜に、外で待ち続けていようなんて思わないさ」
「でも、それだけなら僕を呼ぶ必要もなかったろう?」
僕の問いに、答えはなかった。彼が答えられないことは初めから分かっていた。それでも、彼を困らせてみようと思ったのだ。彼の表情は、横から見たのではよく分からなかった。夜は、人に仮面を被せる。
風は凪いでいた。しかし空気は染み徹るほど冷たく感じられた。息を吸い込むごとに、冷気が喉を通り、全身を巡っていく。ズボンのポケットに突っ込んだ手のひらの中で、カイロは申し訳程度の温もりを放っていた。
「君とこの時間までいるのは、この前の修学旅行以来だ」
僕は言った。修学旅行は、去年の秋だった。泊まったのは駅前の大きなビジネスホテルで、部屋は二人部屋だった。僕と金森はクラスが違うから、部屋は一緒ではなかったが、消灯時間までは、そういう部屋割りは概して無意味だった。僕と相部屋だった奴が退屈になって出て行った後で、僕も部屋を出て、金森のところへ行った。彼は、ルームメイトが出て行った後の部屋で、ベッドに腰掛け、一人静かに本を読んでいた。僕もその横で、静かにマインスイーパーをした。特に会話はなかった。思い出と言うには、あまりにも味気ない思い出だ。
「あのときも君は何も話さなかったね」
「何か話して欲しかったのかい」
金森は静かな声で聞く。
「さあ?」
「俺は、話したかったよ。でも、話すことがなかった」
「別に気にしちゃいないさ。よくあることじゃないか」
金森は沈黙する。やけに、静かだと思った。
「ねえ、もし仮に、君の予定通りタイムマシンがこのグラウンドにやって来たら、君はどうするつもりなんだ」
僕は聞いた。金森が来てから小一時間ほどは経ったが、グラウンドには何も起こらず、風も凪いだままだった。金森は、その“予定”の時間を教えなかった。
「ああ。どうしようね」
彼は、投げやりな口調で言う。
「もしかして、何も考えてなかったのか」
「いや、考えはしたさ。でもね、考えたところで、何が出来るわけでもない。たとえ未来や過去にいけたって、それで何かを変えられるわけじゃないってのは相場が決まってるから」
「でも、最初からそう決め込んでたら何も面白くないと思うけどね。試してみる価値はあるんじゃない?」
「さあ、どうだか……」
どこか遠くで、犬が遠吠えをしているのが聞こえた。それはたった一度きりだったけれど、やけに耳に染み付いた。
「怖いのかい」
僕は言った。返事はなかった。
いよいよ夜は深まってきた。あたりはいっそう暗くなり、その反対に、グラウンドの向こうは街の明かりでうっすらと白くなった。夜空には、根気よく眺めていれば数えきれるだけの星々が、弱い光をちらつかせている。こんな街中でも見られるような星なのだから、きっとどれも名前のついた星なのだろうが、しかし僕がその名前を知っているものはほとんどなかった。月は見えない。時折遠くの騒音が耳に届くが、それも沈黙の静けさを引き立たせる程度のものだった。
金森は、瞬きも惜しんで、グラウンドのどこか一点を見つめていた。彼の瞳は、街の明かりを反射して、時々鈍く光った。横から彼の真っ直ぐな視線を見ていると、本当にそのうち、彼の見つめる先の宙が割れて、得体の知れない物が姿を現すんじゃないかというような気にさえなった。
「実は、話すことならあった」
金森は言った。
「知ってる」
僕は言った。
「でも、話せなかった」
「分かるよ」
金森が、一度、深く深呼吸をする音が聞こえた。と同時に、今までなかった風が出てくる。冷たい空気と共に、茂みがざわざわと音を立てた。まるで獣道だ。何が出てくるかわからない。
「話してもいいかい」
金森は聞いた。
「それは、僕が決めることじゃないから」
僕は言った。
夜話。
長くて面倒な話は、決まって夜に語られる。そして、タイムマシンはやってこない。




