変人のことと、夕焼けのこと
…………………………………………
ナオヤは、花田から手渡された絵筆をしまい終わると、再び元のように、キャンバスの前のイスに座って、花田とキャンバスとのちょうど中間あたりの方を向き、腕を腹の前で組む。花田から見える左側の横顔は、考え事をするようにやや俯角に傾いているが、口元はむしろ微笑んでいた。
「先輩、これから何やるんすか。まさかずっとマインスイーパー、って訳じゃないっすよね」
ナオヤは、一瞬、眉をひそめる。
「まあ、俺はそれでも全然問題ないんだが。実際しばらくの間はここで時間を潰すことになる。ちょいとね、暗くなってからの絵を描くつもりだから」
「じゃあ、そこにあるのが今描いてるやつっすか?」
花田は、ナオヤの顔の奥にある、布を掛けられたキャンバスに指を指す。都合、ナオヤの顔を人差し指の延長線が貫通することになるが、それを気にするような人間はこの場にはいなかった。
「ああ。まだ、人に見せるような段階じゃないけどな。今日は勘弁してくれよ」
しかし、そう言われても、花田はつかつかとキャンバスの横に歩み寄る。どれだけ近寄っても、布をはがさない限りは見えそうになかったが。
「今回のは大作っすね。何の絵っすか?」
「うむ、まあ、大雑把に言えば水の絵だな。静かな水たちの絵」
「へえ」
それを聞いた後も、花田はキャンバスの横でしばらくキャンバスが透けて見える角度を探していた。ナオヤも、自分の絵が人の興味を引いているのは悪い気がしなかったから、そのままにしておくのだった。
と、花田がキャンバス台の足下に視線を降ろしたとき、彼は、わっと声をあげた。
「先輩、これ」
そう言いながら、花田は身を屈めて、“これ”を手に取る。それは、ティッシュ箱ほどの大きさの、側面に何やら文字の書かれた木箱だった。
「ん、ああ、その妙な貯金箱か。この前そこの廊下に落ちてたから、とりあえず拾ったんだが……お前のか?」
そう聞かれると、花田は頷くよりも速く、嬉々とした声で言う。
「おれのですよ、え、マジですか、いやほんとにマジで探してたんすよ。うわー、よかったぁ」
花田は、その賽銭箱型の貯金箱を両手で大事そうに持ち上げて、耳の横でじゃらじゃらと振った。
「先輩、中身取ってないっすよね」
「誰が取るか、ボケ」
「なんか減ってるような気がするんすけど。気のせいか。でも先輩が持ってたんすね。どうりで見つからないはずだわ」
「ところどころ人聞きが悪いぞ。そのうち職員室にでも届けに行こうかと思ってたんだが、ついつい忘れてたんだよ。まあ、よかったな」
「ほんとっすよ。結構大事にしてたんすから、これ。え、そこの廊下に落ちてたんすよね。最近ここ通ってねーのに」
花田は、暫時その貯金箱を不思議そうにいろいろな方向から見回して、それから、思い出したように尻のポケットから財布を取り出し、小銭入れから十円玉を何枚かつまみ出して、賽銭箱の投げ込み口に落とし込んだ。ナオヤは、その一部始終を物珍しげな顔で見つめていた。
「お前も、そういうことやるんだな」
「俺だって貯金ぐらいはしますって」
そう言いながら、花田は大げさに柏手を打ってみせる。
「いや、それも意外なんだが、それより、そういう神頼み的なことを、お前もするのかと思ってさ」
「別に、神頼みって訳じゃないっすけど、やっぱりこういうのがあった方が貯金のし甲斐があるじゃないっすか」
「ふうん、そういう物か」
ナオヤは、感心したような顔をする。
「先輩は、あれっすか、こういうの信じない人ですか」
「信じないって訳じゃないが、特別あてにしようとも思わないね。一々そういうことを神様の責任にするのはフェアじゃない」
そう言い放ったナオヤを、花田はしげしげと見返す。次第にその口元はにやついていった。
「先輩って、やっぱり変人っすね」
「お前に言われたくはねぇ」
「馬鹿にしてる訳じゃないっすよ。あと、言っときますけど、俺は変人じゃなくて気分屋なだけですから」
「案外分かってるじゃないか。可愛げがないな。ま、そういうことはそのアホらしいもの剥がしてから言えよ」
ナオヤは、自分の額を指さして、にやりと笑う。
「これは、あれっすよ、人は見かけで判断しちゃいけないんすから」
「ふん、シュールレアリズムみたいな顔しやがって」
………………………………
「俺、もう帰ります」
時刻は4時半を過ぎていた。この時期の日没は5時前だから、既に外は夕暮れの光に包まれている。薄暗かった美術室も、紅色の西日を受けて、ぼんやりと色めいていた。そこら中に並んだ額縁やら、セメント像やらが、不気味なぐらいに引き延ばされた影を壁にもたれさせている。部活の声もなく、静かな夕暮れだった。
「おう。もう落とし物はしてくなよ」
花田は、自分のバッグの中身をもう一度見て、あたりを念入りに確認してから、ナオヤに背を向ける。
「賽銭箱、あざっしたー」
そう言って、彼はあっけなく出て行ってしまった。彼の足音も、すぐに聞こえなくなる。
「こっちもそろそろ頃合いか」
そう呟いて、ナオヤは立ち上がり、窓の外の空を見つめて、目を細める。穏やかな夕暮れだった。もう、空の一番高いところでは、夜の紺青と夕の赤とが互いに境界を侵して、そこに幾重もの色相を織りなしていた。ナオヤは、そこに現れる色の名を、知っていたような気がした。
夜が、やって来る。
ナオヤは、ふと思い出して、バッグの中から、あの絵筆を取りだした。その贈り主は、もう明白だった。しかしながら、その贈り主のこととなると、謎は一層深まり、あの夜と夕の狭間のように、曖昧模糊とした不透明なベールに包まれてしまう。ナオヤは、それ以上考えることを止めた。そして、今度会った時には、何か礼をしなければならないと思った。この、静かな18度目の記念日に、ささやかな、しかし思いがけないプレゼントをくれた、彼女に。
……………………………………………
「やっぱり、今日は曲がって行こっかな」
ついに二人が地下鉄の入り口の前に差し掛かったとき、中里はぽつりと呟いた。
「篠原君は、どうするの?」
「えっと、僕にはどういう選択肢があるのかな」
篠原は、どぎまぎしながら聞き返す。
「んー、例えば、そこまで一緒に夕焼け見に行ってから帰る、とか」
「え、あー、いや、それは、遠慮した方がいいのかな。うん、じゃあ、気をつけて」
「うん、またね」
そう言ってお互いに手を振ると、中里は自転車に跨り、ゆっくりと、空の明らみ始めた方向へ漕ぎ出していった。篠原は、しばらくの間、その場から立ち去れないで、中里の姿が小さくなっていくのを眺めていた。その間に、何度か二人の視線は合ったように見えた。
あるいは、言われたとおり、夕焼けを見にひとっ走りするのもよかったのかもしれない。篠原は、地下鉄の構内へ降りる階段を一歩一歩下りながら、ぼんやりと考えていた。おそらく、彼が再び地上に出るとき、世界は既に夜に覆われてしまっているだろう。そして彼は、黙って朝がやってくるのを待つ。
何か、言うべきことを言い忘れたような感覚。それは、篠原にとってはいつものことだった。しかし、これも、あるいは、今すぐにでも駆け戻って、夕日を目掛けて走り続けながら、叫び続けなければ済まないようなことなのかもしれない。それは、彼には分からないことだった。彼にとって、あまりに未知の感覚だった。
そして、また一歩、彼は階段を下りた。




