当たり前のこと
「夏の大会までには間に合うのか」
僕は聞いた。教室から保健室までの道のりは長い。それを花田と無言のまま歩くのは、気詰まりというよりもむしろ不気味に感じた。彼は静かな歩幅で僕の横を黙々と歩いていた。
「当たり前だろ。それよりも、大会までにまたやらかさないようにしねーと」
「そうだな」
言われるままに頷いてはみたが、そもそも捻挫以上の怪我をスポーツで負ったことなどないのだから、彼がどれほどの意味を込めて当たり前と言うのかは量りかねた。
「まあ、今のうちは、かえって勉強に集中できるんじゃないか」
「ハハ、確かに」
花田は、腰のことを考えてか、控えめに喉だけで笑った。いつも通りの冗談は通用するようだが、しかし今の彼にはデリケートな領域があるのではないかと思うと、僕の口は重くなった。思い返してみれば、あれほど何の気兼ねもなく言葉をぶつけられるのは彼ぐらいのものだったのだ。こういう時にならなければ考えもしないが、結局は僕も彼もお互いさまである。
「そう言えば、あの十円玉貯金はどうなったんだ。この前、貯金箱が置きっぱなしになってるのを見たけど」
結局、あのとき花田の賽銭箱を掃除道具入れの上に戻した後、その場所に放置したままで、それからどうなったのかは知らなかった。僕は、その話題を怪我と関係ないものとして選んだつもりだったけれど、それを聞かれた花田は、「ああ、まあな」と口を濁しただけで、答えらしい答えをよこさなかった。あるいは、答え方を考えているうちに、何を聞かれたのか忘れてしまったのかもしれない。詰まるところ、僕は質問の答えを得られなかったし、再び二人の上に沈黙が覆い被さってきた。花田は自分から口を開こうとしなかった。
保健室は開いていた。当然、保健室自体はもっと早い時間から開いているのだが、そこへ着く寸前まで人気のない廊下を黙って歩いていると、使われていない建物の中に忍び込んだような不安感があった。だから、経験的に、校舎の奥まったところにある保健室も、堅く閉ざされているような気がしたのだ。しかし、廊下を曲がった先にあるそれは、特にこれという異様もなく、無造作に戸を開け放って、電灯の明かりを廊下へ漏らしていた。
僕は、何をするとのあてもなく、花田の後ろに着いてその戸をくぐった。
「あら、おはよう。今日はどうしたの花田君」
僕らが入室する音を聞きつけて、部屋の奥から出てきたのは、いつもの養護の先生だ。一月ぐらい前に金森と来たときもこの先生だった。他の担当者がいるのかどうかも僕は知らない。その点、先生の口からすぐ名前が出てくるところを見ると、花田は相当の常連みたいである。こういうのに限ってでたらめに怪我をしてよくやって来るのだと思うと、保健室の仕事も楽ではないのだと改めて思う。
「コルセットの具合が悪いんで、調整して欲しいんですけど」
「ああ、はいはい。じゃあ、ちょっとそこに座ってて」
先生は、やはり手慣れた様子で言う。花田もおとなしくそれに従った。
「付き添いさんは記録用紙埋めておいてねー」
僕も言われたとおり、机の上に置かれた記録用紙に、横の鉛筆立てから一本取って書き込む。理由の欄をどう書けばいいのか少し迷ってから、「コルセットの調整」と記した。ふと気がつくと、二つ上の名前欄にも、昨日の日付で花田の名前があって、「腰痛」と理由が書かれていた。その前にもいくつか、「花田」と「コルセット」が横に並んだ組がある。
けれども、花田の処置が済むまでの暇に眺めた記録用紙の中で僕の目を奪ったのは、そんな記述ではなかった。再び僕は、未だにこの眼で捉えることの出来ない後ろ姿を、垣間見ることになった。
「先生、――さんって、昨日保健室に来てたんですか」
「え? ああ、その子ね、ええ、よく来てるわよ」
先生は、花田の腰に巻かれた、黒ずみの目立つコルセットに腕を回しながら、顔だけこちらに向けて答えた。その時、一瞬だけ、花田の表情が硬くなっているのを僕は見逃さなかった。
「その子、生まれつき体が弱いみたいでね、特に冬の間は体調が悪くて、ほとんど一日中ここで過ごすか、昼になってから登校するか、休むかっていう感じね……って、あなた、同じクラスじゃなかったかしら?」
「ああ、はい、まあ」
そう言われて見てみると、彼女―精霊さんの名前は、ほとんど毎日記録用紙に書かれていた。理由の欄も、もはやすべて空白になっているのは、いかにも常連だということを示している。なるほど、それなら、僕が彼女に会った記憶のほとんどないのも頷ける。少々お誂え向き過ぎる理由のような気もするが。しかしそれが本当なら、彼女にまつわる謎の半分ぐらいは解消する。どうやら、物語は動いているのだ。




