話の種のこと
グラウンドに訪れた暗がりは、ほんの一瞬間の後にはどこかへ消え去っていた。わずかな間、偶然密度の濃い雨雲が、太陽の前を横切ったとでも言うところか。目の前のグラウンドは、一つの波紋も残さないまま、元の静かな枯山水に戻った。しかし、その一瞬を皮切りに、雨粒が周りの草木に当たるぽつぽつという音が聞こえ始めた。予報よりも、だいぶ早い。
気がついたときには、すぐ横の駐輪場に、雨に打たれまいと校門から自転車に乗ったまま急いできた何人かの生徒がいて、彼らが慌てて昇降口に向かうのに続いて、僕も校舎の中に戻った。
ゆっくりと薄暗い廊下を歩いて教室に向かう途中、僕はあの一瞬間にグラウンドが見せた変化の一部始終を何度も思い返した。いや、一部始終と言っても、毎度注意が集中するのは、あたりが暗くなりきった場面だ。その刹那、グラウンドは全く別のものに見えた。見覚えのある何か、決して朝にあり得る光景ではない何かに。そしてその景色には、不思議と静かな安らぎを感じた。ほんの一瞬のことではあったけれど。
教室に着くと、さっき出るときに閉めた戸は開いていた。僕が出ている間に誰が来たのだろうか。まあ、ある程度候補は絞られるが。
「おはよう」
「あ、おはよ」
永井さんは、いつものようにきれいな白い歯を露わにしながら微笑む。こういう風に永井さんとあいさつをするのは久しぶりのような気がした。
「なんだか、久しぶりだね」
「え?」
永井さんはあからさまに不思議そうな顔をする。そうじゃないんだ、たいやきさん。久しぶりじゃないけど、久しぶりなんだ。
「あ、いや、この時間に会うのは久しぶりじゃない?」
「そうだね、確かに。最近朝はのんびりしてましたから」
そう言って、彼女はサボりを見とがめられてしまったという風に笑う。それから、僕の様子をしげしげと見つめて言う。
「ちょっと濡れてるね。外にいたの?」
永井さんの言うとおり、自分の制服をあちこちなでてみると、思ったよりも多くの水滴が染みこんで、湿った斑点ができていた。
「うん、ちょっと見たいものがあってさ。結局収穫はあんまりなかったんだけど」
収穫がなかったという訳ではないけれど、果たしてあれが収穫と呼べるものなのかどうかは分からない。
「そうなんだ。残念だね、よく分からないけど。でも、こんなに早く降ってくるなんて思ってなかったぁ」
永井さんは窓の方に顔を向ける。雨脚はさっきよりも強くなってきていた。そのうち本降りになるだろう。一番の登校ラッシュに合わせて降り出すとは、なかなか意地悪な天気だ。帰りは駐輪場に自転車を置いていくつもりでやってくる自転車通学者にはたまらないだろう。
「永井さん、傘は持ってきてる?」
「うん、ご心配なく。篠原くんは?」
「一応、小さい折り畳み傘なら持ってきてるんだけどね。まあ、今から降り始めたなら、たぶん、帰る頃には止んでると思う」
という予想は単なるでまかせだったが、しかしその予想にはなんとなく自信があった。そういうことはたまにある。たいがいは、雨が降るか降らないかについてであるけれど。虫の知らせというやつか。永井さんは、そんな、朝のニュースバラエティーの占いコーナー並みの的中率を誇る僕の予言に対して、さして疑いを差し挟む様子もなく納得しているようだった。まあ、これの答えなら今日の帰りに分かる。
それから僕らは、いつものように会話の種が尽きてしまって、互いの準備に取りかかる。よほど僕の目が悪いせいかもしれないが、話の種というのはなかなか見つからないものだ。その代わり、不用意な咳払いとたいした意味のないため息ならいくらでも足に引っかかってくる。あるいは、その話の種とやらをどこからでも探し出してくる人も、それなりに苦労をいているのかもしれない。どんな小説家だって、書けと言われていつでもすぐに物語が思いつくわけじゃないように。のんびりと座ってあたりを見回して、何もないことにため息をついているようじゃ、確かに何の発展もあるまい。というわけで、僕の話は発展しない。
「そういえばー」
今回も、話の緒は永井の方だった。
「そういえば、もうすぐあの日だね」
「え? あの日って?」
僕は僅かながら焦る。どれくらいかというと、ある青年がつきあい始めて数年目の恋人から「今日は何の日?」と嬉しそうに聞かれて、その答えが思い出せないでいるときの焦りの五分の一ぐらいだ。もちろんこれも、雑誌の裏に載った星座占いほど適当な話だ。あるいはこの説明すら蛇足かもしれない。
「ほら、前に話してた、“四年に一度しか来ない日”」
そう言われて、僕はなるほどと首を縦に振りかけ、止める。
「今年は閏年じゃないから、二月二十九日は来ないよ」
「でも、その日生まれの人の誕生日は今年もくるんですよ?」
「む、まあ、確かに」
確かにそうだ、と、妙に腑に落ちてしまった。そう言う話の振り方もあるのである。実に奥が深い。
「それにしても、よくそんな前に話したことを覚えてるね」
素直に感心して聞く。もしかしたら野暮な質問だったかもしれない。
「ウフフ、そういうことはけっこう覚えてるの。他のことはよく忘れちゃうけど」
これは笑っていいところなのだろうか。
自分の支度はすぐに終わったが、いくら支度を終わらせたからといって、それからやるべきことがあるわけではなかった。永井さんは既に自分の作業に入っているようだから、自分よりも後ろの席にいる彼女の方を向いて邪魔するというのもうまくない。結局、しばらくの間はぼんやりと前方を眺めることになる。そこに至ってようやく、椎名さんの机の上に、彼女の通学バッグが乗っているのを発見した。ということはつまり、彼女は既に、そして僕がこの教室を出ていた間にやって来ていたのだ。だからどうしたということもないが、それならば自転車通学の彼女は濡れずにすんだのだろう。
と、そんなことを考えているときに、ズボンのポケットでケータイが震えた。




