これまでのこと
翌朝。僕は教室の鍵を開けると、自分の机に荷物を置くだけして、少し早歩き気味に教室を出た。廊下には誰もいない。いつもより静かな朝だ。これは、予め考えていたことではかった。ただ、いつもより静かな校舎に響く自分の足音が、どういう風にかは知らないけれど、僕の心をせき立てた。
つい今し方歩いてきた廊下を、階段を、空っぽの頭がそのまま宙に浮き上がって行ってしまわないように、それだけに気をつけながら逆進する。足音は単調なリズムで鳴り続け、増えないし、減らない。普通棟の昇降口にたどり着くまで、ついに誰ともすれ違わず、そして昇降口にも、他に人の気配はなかった。あるのは、自分の息づかいと、朝の気配だけだ。
靴を履き替え外に出ると、一度校舎の玄関の周りから見える景色ー正面にある校門と、その向こうの調理学校の校舎、右を向くと見える、普通棟と特別棟とをつなぐ各階の渡り廊下、そして特別棟、左側には、少し坂を下ったところにある教員用の駐車場ーを見回す。校門の前の坂を車が下っていく以外は、人並みの大きさのものが動く様子は見られない。静かな朝だ。今日はこの学校の皆が、目覚まし時計の鳴る時間を五分遅らせたのかもしれない。違和感はあるが、まあ、こういうこともたまにはあるだろう。
妙に納得した気持ちになると、正面の校門から振り向いて、普通棟の校舎に沿って中庭を歩く。足音は中庭を囲む校舎の壁に閉じ込められ、その間を抜ける湿った風にかき乱されて、少しばかり不気味な響きを作り出している。どこかで聞いた覚えのある音だった。
空は厚い雲にその多くを占領され、ほんの一部の青色が、ちぎれちぎれに安息を求めてさまよっている。あまりいい感じはしない。もう少し経てば降り出しそうに見えたし、天気予報では午後から降り始めるとも言っていた。どちらにしても、今のところ降り出さないのなら問題はない。そう自分に言い聞かせる。しかし、雨が降るとどう問題があるのかは分からない。
グラウンドと校舎の壁とに挟まれたその場所は、前に来たときと同じように、訳の分からない植物やらが茂り、年中校舎の影に隠された、舗装もされていない土の地面は、ぬかるまない程度に湿っていた。フェンスも同じ高さのままで立っている。昨日林野の写真で見たのとも変わらない。どうしてここに来たのかは結局はっきりと答えを出せなかったが、とりあえず、あの写真の中で精霊さんがそうしていたように、フェンス越しにグラウンドを眺めた。
今朝はグラウンドまでも閑散としている。どの部活も朝練はオフのようだ。いつもそこらへんを走り回っている野球部員の声も、姿もない。他の陸上部やらハンドボール部やらの姿が見られないのも珍しい。テストももう終わったわけだし、どこの部活もオフになるような行事なんて聞いていないのだが。どちらにしても、校舎がいつもより静かに感じたのは、このせいだろう。
三日前の早朝、彼女はここで、いったい何を見ていたのだろう。彼女はいつも何かを見つめている。一月前の教室でも、林野の写真の中でも、そして春岡先輩の絵の中でも。
「なにを見てるの」僕は聞いた。
「朝を」窓の外を向いたまま、彼女は言った。静かな声だった。
(実質的な意味で)初めて精霊さんに出会ったとき、彼女はそう言った。そして確かに、そのとき彼女の目の前にあったのは、間違いなく、燃えるような朝だった。はずだ。だとすれば、彼女が三日前のここで見つめていたのも、あの日のような朝だったのだろうか。
いや、それは違うように思う。なぜなら、“朝”はもう終わってしまったのだ。それだけははっきりしていることだ。どれだけ早く、光の始まる時間を待ったとしても、やってくるのは目覚めの時間に過ぎないのだ。
けれど、もちろん、精霊さんにとっての朝が、僕にとってのそれと同じように終わってしまったと言い切るのは、少々強引だ。なにせ、彼女は朝焼けの精霊なのだから。彼女には彼女なりの朝が見えて当然である。ただ、それだけじゃない。そんな気がする。
そういえば、これももう一月前のことになるが、渡り廊下の向こうを横切る精霊さんの後ろ姿を見かけたこともあった。すぐに渡り廊下を渡って追いかけたが、ついにその姿を捉えることはできなかった。あのときの精霊さんも、やはり何かを見つめていたのだろうか。彼女が元いた方向には特別棟の校舎の突き当たりのテラスがあった。しかし、あのテラスからは朝日の昇る方角は見えない。……テラス?
そこまで考えると、僕の頭は軽くショートしてしまった。こんな朝っぱらからそうそう頭が働くものではない。それに、精霊さんのことを焦って考えたところで誰かが答え合わせをしてくれるわけでもなし、ご褒美をくれるでもなし、急いだって仕方がない。分かるべきことはそのうち自然に分かってくるはずだ。分からないのならそれでもいい。
完全に投げやりである。僕は、未だに周囲に誰かの目がないことを確認すると、不格好にフェンスにしがみついて、腰から上の体重をすべて投げ出した。もしこのフェンスが十分な高さがない上に安普請だったとしたら、僕の体はフェンスごと真下のグラウンドに投げ出されていただろう。そう言う予想も、行動の後にのんびりとやって来た。
グラウンドは静かだった。―グラウンドも、静かだった。7時半をとっくに過ぎた朝日は、ほんの僅かな雲の切れ間にも仰々しく朝日の光輪を滑り込ませているというのに、グラウンドの地面は、時が止まったかのように凪いでいた。まるでどこかの寺の枯山水を正座で鑑賞させられているようだ。いや、あれはあれで、見る人が見れば動きがあるのかもしれない。
そういう光景を、全身の力を抜いてうとうと眺めているうちに、目の前の景色が、にわかな変化を起こしていることに気がついた。それは単純であるけれどスケールの大きな変化だった。いつの間にか乱層雲の切れ込みは閉ざされ、地上から影と陰の区別がなくなり、そして次第に、全く異質な暗がりが、頭上からこのグラウンドの周りを覆おうとする。その一瞬、深い沈黙に落ち込んだグラウンドは、グラウンドとしての光を失って、別の何かに姿を変えた。それは、どこかで見覚えのある、広大な広がりを持った何かとして目の前に現れた―




