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a.m.7:30-8:10  作者: 春井 武修
2月中旬
22/95

嘘のこと その2


「篠原君って、もう進路決めてるの?」

 僕は一瞬考えたが、結局、それについて聞かれた時にいつも返している答えしか思いつかなかった。

「うん、どこの大学かはまだ決めてないけど、とりあえず文学部とかかな」

 とりあえず文学部。我ながらなかなか不誠実な言いぶりだ。しかし、今のうちから「確実に」という言葉を使うのも、それはそれで不誠実な気がした。

 元々、今までの進路も直感的な印象でほとんど決めてきた。少なくとも、打算的な選択をしてきたつもりはない。そして、そういうスタンスでやっていく限りは、自分の決定について後から当たり外れを考えるようなこともしないつもりだ。自分が決めたことに一々文句を言いたくはないし、実際今の環境に文句はない。そういう意味では、僕はそこそこお得な人間なのかもしれない。あるいは、今までの運が良かっただけかもしれない。


「ふーん、そうなんだ。男子で文学部志望してる人って、あんまり聞かない気がするけど」

 ベルギーさんは意外そうに聞く。

「そうかもね。でも、まあ、そういうところの方が気は楽だよ。需要だってそれなりにあるだろうし」

 僕は口元に自嘲のような笑みを含ませながら言った。どうも僕には、やはり直感的に、いわゆる世間の潮流とは離れた方向に惹かれる習性があるらしい。別に、競合する相手は少ない方がいいとか、そういうことを考えている訳じゃない。後付けならいくらでもできるだろうが。どっちにしても、そういう風に行く先を選んできて、今のところは問題なくいっている。

「編集者とか、コピーライターとかになれれば満足かな」と、勢い聞かれていないことまで答えてしまった。まあ、はばかるようなことでもないが。

「えっと、中里さんは?」僕は聞く。ベルギーさんも、少しの間小さな声でんー、と言い悩むような様子をしてから答えた。

「やっぱり大学はまだ決めてないけど、学部は法学部がいいな」

 眩しそうに目の前の青空を眺めながら言うベルギーさんの横顔は、どこか誇らしげに見えた。そういう風に聞こえただけかもしれない。僕は、法学部と聞いて、少し意外に思ったけれど、自転車を押す歩みをにわかに早めた彼女の後ろ姿を見ていると、それも彼女には似合っているかもしれないと思い始めた。なんとなく。

「へえ、中里さんらしい、のかな。・・・・・・ということは、将来は弁護士とか、裁判官とか?」

「うん、そんなとこかな」そう言って、もう一度横に並んだ僕に、ベルギーさんはニコリとする。

「でも、大変そうだね。司法試験もあるし、ドラマとかでも見るけど、裁判っていろいろと大変そうだし」少なくとも、文学部と法学部を並べれば、同じ文系の中でも文学部の方がよほど平和に見える。たぶん、誰が何と言っても実際にそうなのだろう。

「わたしもそう思うけど、でも、そういうの向いてるんじゃないかって」そう言うと、今度は少し締まった顔になる。

「やっぱり、まじめだね」

 僕が言うと、締まった顔はすぐにほころんだ。

「あはは、そうかも。だけど、篠原君の方が真面目じゃん」

「え、なんで?」僕はきょとんとする。僕はお世辞にもまじめな人間ではない。

「だって、毎日この時間に来て勉強してるし」

 ベルギーさんの言う理由は思ったよりも単純だった。僕は内心少し安心して、苦笑いにも見えるような微笑みが自然と浮かんだ。

「いや、別にまじめとかじゃないよ。この時間にも勉強しに来てるって訳じゃないし」

「えー、そうなの。それじゃあ、どうして?」ベルギーさんは、いかにも意外というふうにぱっと顔を変える。

「んー、まあ、いろいろと」

 そう、いろいろと。僕は、今度はしっかりと苦笑いをした。

「そうなんだ」

「うん」僕はうなづいた。そんなにあっさりと納得されても、それはそれでショックなのだけれど。しかし、事実なのだからしょうがない。


 それから、ベルギーさんは例の複雑そうな顔をした。


 複雑そうな顔。僕はそれ以上の形容を知らない。悩み顔というのでもないし、落ち込み顔でもない。彼女がそういう顔をしているとき、彼女が何を考えているのかについて推し量るなんてことは僕にはできない。もちろん、それはベルギーさんに対してだけのことじゃないが。いずれにしても、僕にできるのはいくつかの希望的仮定を立てることだけだ。



 強い風が一度ぴゅうと吹いて、葉のない木々をざわざわと揺らした。いや、現実にあるのは枝がこすれ合う音だけで、ざわざわというのはもっと別のところから聞こえているのだろう。空はきれいに晴れていて、一歩足を進めるごとに、朝日の白々しさが透き通っていくようだった。見渡す限り、そこに複雑なことは何もない。そうでなければ、そこにはどんなものも、何一つない。


 僕の頭の中にも、何一つ浮かんではいなかった。ただ真っ青な虚空が広がっているだけだった。こんなにピンポイントな情景描写もそうはないな、なんてことをぼんやりと考えていた。

 信号を待つ、ほんの数十秒。並びながら、お互いにかける言葉もなかった。もうどっちも複雑な顔はしていない。しかし、言葉が見つからなかった。見つけるつもりもなかったのかもしれない。

 いや、僕の中には、確かに言葉があった。この前、結局言うことのできなかった言葉である。けれど、今、それを言うべきなのかどうか、僕には分からなかった。あるいは、もっと他に言うことがあるんじゃないかという気がした。それが何かは、思いつかなかったが。


 

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