今日のこと
空の赤らみが完全に抜けきった頃、再び、廊下で誰かの足音がやってくるのが聞こえた。僕は教室の時計に目をやる。―7時45分―まだ、教室が賑やかになるには早い。
「おはよう」
「あ、おはよう」
僕は、たった今気がついたふりをして振り向いた。この時間に来るのが誰かはだいたい分かっていた。
「・・・・・・ん、永井さん、髪切ったんだ」
「あ、分かります? ありがとう。うん、昨日ね」
そう言って、たいやきさんは笑った。たいやきさん―僕は永井さんのことをこれからそう書くことにする。理由を書くつもりはない。彼女は僕に対してしばしば敬語を使う。その理由は多分書く必要がない―は、冬休みの前から部活の朝練がなくなったらしく、それ以来ほとんどいつも僕の次に教室にやってくる。最初は挨拶をするぐらいだったが、このごろは簡単な世間話をするようになった。そのまま他の人が来るまで話し続けることもあるし、すぐに切り上げて、それぞれの作業に入ることもある。
「今日は――さん来てないんだね」
自分の机に荷物を下ろしながら、たいやきさんは言った。彼女が口にした名前が、昨日のあの子のことだと分かるまで、僕には時間がかかった。昨日、僕は結局、たいやきさんが教室に入ってきてやっと我に返ったのだった。朝焼けの精霊さんはその後もずっと、赤みの抜けた空を見つめていた。もしかしたら、彼女が見つめていたのは朝焼けだけじゃなかったのかもしれない。
「ああ、うん。昨日は特別だったんじゃないかな」
「ふ―ん。あの人ってよく分からないよね」たいやきさんは言った。僕も大きく頷いた。
世の中には分からないことがたくさんある。あるいは、本当に彼女は精霊か何かなのかもしれない。
精霊さんについての話はそれだけで終わった。たいやきさんはそれ以上精霊さんのこと、たとえば昨日彼女が何を見ていたのか、とかには興味がないようだった。僕にしたところで、彼女がどんな顔をしていたかなんて聞く訳にはいかない。だとしたら、僕は何を聞けばいい?
窓の向こうからは,相変わらず野球部のかけ声が聞こえていた。その中にはいくつか,知り合いの声も混ざっているようだった。
「・・・そうだ、永井さんって、二月二十九日生まれの知り合い、いる?」僕が聞くと、たいやきさんはその質問の意味を量りかねるように首をかしげた。
「二月二十九日って、えっと、あの四年に一回しか来ない日のこと? う―ん、いたかなぁ。・・・・・・有名人だったら何人か聞いたことあるよ。赤川次郎とか、飯島直子とか、あ、あといきものがかりのボ―カルの人とか」
「ふうん。よく知ってるね」僕は率直に感心した。
「うん、これマメ知識。でも、どうしてですか?」たいやきさんは聞いた。バックの中の荷物をあさる音が止まる。
「ん、別に大したことじゃないんだけど、そういう人って、誕生日はいつになるんだろうって思ってさ」
「そういえば、そうだね。どうしてるんだろ。まさか四年に一回ってわけじゃないと思うけど」たいやきさんは言った。どうやら彼女も、僕と同じくらいの認識しかないようだった。そもそも、当事者以外はそんなに考える必要がないのも間違いない。
「でもさ、四年に一度だったら、それはそれでいいんじゃないかな。誕生日のありがたさが増すと思う」それに、何かと話の種に困らないという特権がつく。
「え―、だめだよ、そんなの。誕生日は毎年祝ってほしいよ」そう言って、たいやきさんは笑った。僕も笑った。たいやきさんは、よく、きれいな歯並びが見えるくらい口を開けて微笑む。褐色に近い顔に、混じりけのない白色がよく映える。たいやきさんは白餡なのかもしれない。僕はどっちかといえば漉し餡が好きだ。
「そうかもね。まあ、実際にそうなってみないと分からないかもしれないけど」
これで、この話は終わったように見えた。少なくとも僕には、これ以上この話を広げていくつもりもその術もない。結局は他人事である。僕らはお互いに顔を逸らして、自分の支度に専念しようとした。すると、不意にたいやきさんは顔を上げた。
「そう言えば、篠原君の誕生日っていつ?」
「僕の?」
僕は一瞬考え込んだ。僕の誕生日はいつだっただろう。「別にいいよ。そんなに面白い誕生日じゃないから。それにもう過ぎてるし」きっと、自分でも思い出すのに時間がかかるくらい、つまらない日付なんだろう。人から誕生日を尋ねられるのも久しぶりだった。
「え―、言ってくれればよかったのに」たいやきさんは残念そうに言った。社交辞令という風ではなかった。
とは言っても、誕生日なんて自分から言い出すものではないと思う。少なくとも、誰かに誕生日を告白されたという経験はあまりない。もっとも、僕の周りの人は、僕が人の誕生日をそこまで祝う気がないのを知っているのかもしれない。
窓の外の音が止んだ。そろそろ部活の朝練が終わる時間だ。
「うむ、過ぎたことはもういいとして、そう、どうして誕生日ってそんなに大切なんだろう。その日が来ないと年を取らない訳じゃないのに」僕が言うと、たいやきさんはひどく意外そうな顔をした。僕も、言ってしまってから少し後悔をした。きっとこんな質問は馬鹿げている。けれど、たいやきさんはそれなりに真面目に考え込んだようだった。
「そうやって言われると難しいですね。でも、お母さんにに産んでくれたことを感謝する日だっていうのは聞いたことあるな―」彼女は言った。
「確かにそうだろうけど、それって、自分が祝ってもらうのとは関係ないんじゃない?」僕は言った。それに、それでは父親が蚊帳の外だ。
「ん―…今思ったんだけど、誕生日って、その人が産まれてきたことに感謝する日? っていうか、その人が今いることにありがとう、っていう日、とかかな。……産まれてこなかったら、その人は今いないんだから、うん、だから、いてくれてありがとう、とか、そういう気持ちをひっくるめて、えっと、その、誕生日をお祝いするんじゃないかな、って思います」そう言って、たいやきさんは気恥ずかしそうに口をもぞもぞさせながら下を向いた。
「なるほど」なるほど。僕はまた彼女に感心させられた。いたく感心させられた。たいやきさんは、たまにこういうことを言う。
「えっと、篠原君はどう思いますか?」たいやきさんは、うつむいたまま聞いた。
「うん、永井さんの言うとおりだと思うよ。それなら、僕があんまり誕生日を聞かれないのも説明がつくし」
「いやいやいやいや、だから教えてよ、誕生日」たいやきさんは慌てながら身を乗り出して言う。僕はあははと声を出して笑った。彼女も顔をゆるめて笑った。白い歯が揺れる。
――笑うことは忘れることだ。愛想笑いでないかぎり、笑っている間は何も考えないですむ。だから、つらいときに笑うのは、とても理に適っている。すべてを忘れるぐらい笑えば、笑い終わった後にはそれなりの疲労がある。酸素の供給量が減って脳の働きが悪くなると、眠くなる。そして一度眠ってしまえば、目覚めたときには大概のことを忘れている。それが人間だ。
けれど、それでも忘れられないこともある。それは、眠りにつこうと目を閉じたときにやってくる。だから、笑いすぎて失神するでもしない限り、それから逃れることはできない。
最近の僕について言うなら、それは、自分が誰も幸せにすることができないんじゃないかという漠然とした疑念だ。別に確証がある訳ではない。確証があれば、むしろそういうものなのだと諦めがつくかもしれないが、まだどこかで方向転換をすることができるかもしれないという希望が残っているせいで、話がややこしくなる――
――「うん、いいけど、それじゃあ永井さんのも教えてよ。聞いてもらうだけって訳にもいかないから」僕は言った。少し照れているように見えたかもしれない。
「もちろん、いいですよ。それじゃあ、せ―の、で。……せ―」
「いやいやいやいや」今度は僕が慌てる番だった。たいやきさんは、たまに本気か冗談か分からない。
にわかに廊下が騒がしくなってきた。そろそろ皆が来る時間のようだ。僕は、たいやきさんの誕生日を予定帳に書き込んだ。それ以上のことは、何も考えていなかったが―
時計の針は、8時10分を指していた。
誕生日についての追記
後になって調べたことだが、閏日つまり閏年の二月二十九日に産まれた人は、多くの場合三月一日に誕生会を開くらしい。確かにそっちの方が切りは良さそうだ。ちなみに日本では、法律上、閏年じゃない年の閏日産まれの人の誕生日は二月二十八日とみなされる。その場合,年齢が加算されるのは、二月二十八日と三月一日の間の零時零分ちょうどらしい。要するに、たとえ閏日に産まれていたって、生物学的にも法律的にも四年に一度歳を取るなんてことはない。夢のない話ではある。
閏日産まれの人も、希望をすれば毎年誕生会を開いてもらえるわけだが、やはり困ることもあるらしい。たとえば、何かの申し込みの時、個人情報を取り扱う機会が閏日を認識できない型だと、エラ―が起こって登録できなかったりするとか。「閏日産まれの会」なんていうのが国際規模であるぐらいだから、それ以外にも問題や苦労はあるのだろう。彼らの苦労がいつか報われる時が来るといいと思うし、彼らの誕生日が―四年に一度であれ、一年に一度であれ、愛と感謝に満ちたものであればいいと思う。