昨日のこと
この小説及びこの小説に登場する人物,団体等は恐らくフィクションです
――何見てるの―― 僕は聞いた。
寒い朝だった。分厚い手袋をはめた両手を、さらに制服のポケットに突っ込んでも、まだ指先がかじかむほどだった。
地下鉄の出口から校門までの坂道を歩く間、僕はずっと、使い捨てカイロを持ってこなかった自分を責めていた。冬が来てからまだ一度も、使い捨てカイロを使っていなかった。そして、今日使いそびれると、もう冬が終わるまで使う機会はないように思えた。もちろん、それを使う必要がある訳じゃないが、しかし妙に、損をしてしまった心地がする。
そんなことを考えながら歩いていた。一月。つい先日年が明けたらしい。しかし、”新しい年”などというものは、少なくとも僕の家の戸を叩き忘れていったらしかった。だから今でも、我が家の玄関には注連縄飾りが飾りっぱなしになっているし、台所の食器棚の上には模造の鏡餅が出しっぱなしてある。いや、あの鏡餅は一昨年から出しっぱなしだったかもしれない。どちらにしろ、僕はまだ、去年の感覚を引きずっているらしい。これは今までにない不思議な感覚だった。閏年の二月二十九日に生まれた人が、自分だけ四年に一度の誕生日を待つ感覚も、これに近いかも知れないし、全然違うかもしれない。しかし、そういう人も必ずどこかにはいるはずである。そういう人は、実際問題として誕生会をいつ開いているんだろう。
その答えを考えるには、坂が余りにも短すぎた。何も考えていなくたって、歌を一曲口ずさむのにも短いぐらいの坂だ。そして,去年のことを引きずるには,今年もまた短すぎる。
空は既に、丘のてっぺんから顔をのぞかせている朝日の光をとかし込んで、煙ったような白色を照らし出している。高校の向かいの、調理学校の時計台は、7時25分を指していた。ちょうどいい時間だ。校舎は、7時30分よりも少し早いくらいに開く。ここのところは、受験間近で朝勉に勤しむ三年生が増えたから、その時間は少し早まっている。そう思うと、別段急ぐ用事はなかったが、ふと僕は足を速めた。昨日のようなことを、少しは期待していたのかも知れない。
けれど、職員室に教室の鍵を取りに行って、まだそこに鍵が残っていたのを見て、しかし僕は少し安心した。安堵と落胆は本質的によく似ている。
教室の鍵を開ける。ずいぶんと大げさな音のする鍵で、冷たく澄んだ廊下に、重い歯車が動き出すような音が響く。しかし、戸を開けて、閉めれば、またすべては止まる。その間中聞こえているのは、どこかの部活のかけ声と、野球部の金属バットが何かを叩く音だけだ。教室の中はわずかに生ぬるく、黴のにおいがした。
僕は電灯のスイッチを点け、自分の机に荷物を置いた。特に描写することのない、いつも通りの朝、七時三十分の教室だ。そのまま自分の机に立ち尽くしていると、革靴の廊下を叩く音が聞こえて、そしてそれは横の廊下を通り過ぎ、隣の教室の鍵が開く音がした。僕は少し落胆した。
窓の外には、昨日のような朝焼けは見えなかった。二階の教室から見える空の多くは、体育館の流線型をした屋根に切り取られている。そして、グラウンドの方、町並みと空とがいびつな境界を為しているあたりでは、厚みのない層雲が、申し訳程度に色づいていた。
それは、あまり理想的な朝ではないように見えた。まあ、そうそう毎日、素晴らしい朝が来る訳じゃない。そんなことを言っているのは缶コ―ヒ―の宣伝ぐらいだ。
僕は暫く、窓の前に立っていた。誰も教室に入ってこなければ、僕はずっとそのままでいたかもしれない。別に、目の前の景色に見入っていたのではなく、ただ、昨日の朝のことを考えていた。
――「なにを見てるの」僕は聞いた。
――「朝を」窓の外を向いたまま、彼女は言った。静かな声だった。
それが、多分その女の子と喋った最初だったと思う。同じクラスだったのにも関わらず、はっきりと存在を意識したのもそれが初めてだった。それまで彼女は、いったい教室のどこにいたんだろう。そもそも、向こうがこっちのことを知っているかどうかさえ怪しいのだ。そう思うと僕は混乱した。きっと、誰かがタイムスリップをして過去を変えてしまったとして、現在が変化する前の記憶を引きずっていると、こんな感覚に陥るだろうと思う。このたとえには少し自信がある。
――「いつもより早いね」僕は言った。もちろん、僕は彼女の”いつも”を知らない。
――「篠原君はいつも早いの」彼女は聞いた。僕は、自分の名前が呼ばれただけで、どきりとした。やはり彼女は、窓の外を見つめたままだった。
――「うん、最近は、だいたいこの時間に来てる。特にすることはないんだけど」
――「そう」
そして、会話は止んだ。むしろ、はじめから会話なんてしていなかったのかもしれない。彼女の茶色がかった長髪は、今までぴくりとも動かなかった。やれやれ、と僕は心の中で呟いた。
彼女の顔がどうしてもうまく思い出せなかった。本当のことを言えば、彼女の名前さえも、自分の記憶に自信がなかった。―名前なら名簿を見れば分かる。しかし、今、彼女の顔を確かめたいと思った。今を逃せば、彼女の存在はまた、記憶の淵に流れていってしまうような気がした。
机を一つ挟んで彼女の横に立ち、ちょうど今しているように窓の外を眺めた。彼女は、僕に何の注意も払っていないようだった。そして、僕もまた、目の前に広がる朝焼けに目を奪われた。
久しく見たことのない、燃えるような朝焼けだった。いや,炎にしては余りに冷たく、しかし心を鷲掴みにして、強く奮い立たせる赤。朝日に切り刻まれたような幾重もの巻雲は、一つ一つが微妙に異なる模様をもったキャンバスとなり,その目に染みるほどの朱色と暗く翳った部分との境目で、何かが始まりそうな予感をはじけさせていた――
結局僕は、その朝焼けに見とれて、彼女の顔を覗くのを忘れていた。我ながら馬鹿げたことだと思うけれど、本当についさっきまで、彼女のことをすっかり忘れていたのだ。僕は一度何かに夢中になると、それまでのことをすべて忘れてしまうきらいがある。おかげで、彼女の記憶はいまだに顔を持たないまま、ふらふらと僕の頭の中をさまよっている。今日も彼女が早くに来ていればと思ったが、どうも今日は来ないらしい。このまま記憶が上書きされなければ、彼女は朝焼けの精霊みたいなものとして僕の頭に住み着くことになるかもしれない。




