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a.m.7:30-8:10  作者: 春井 武修
2月上旬
14/95

ゴリラと賽銭箱のこと


   ―やれやれ― 僕は言った。



 一夜明け、昨日とは打って変わってからりと晴れた朝がやってきた。久しぶりの朝焼けもあった。目覚めたときに、カ―テンの隙間から差し込んだ朝日が、天井の端を橙に染めていたのを思い出す。目覚まし時計がセットした時間に鳴るまで、僕はずっとそれを見つめていた。それに加えて、軽い頭痛があった。えらく気分のいい朝がやってきた翌日に頭痛がぶり返したのは、これが初めてだった。まあ、生きてればいろんなことがある。その頭痛に響くだろうから、僕は、直接朝日の光を見たくはなかった。


 このごろはだいぶ日の出が早くなって、学校に着く頃には、もうほとんど空の赤みは抜けきってしまっている。それも清々しいといえば、清々しいのかもしれない。しかし、どこか自分が置いていかれている気もする。前にも書いたが、まだ、今年が来たという感覚はないのだ。たぶん、それも気のせいだとは思うけれど。

 しかし、気のせいで済ませられないこともたくさんある。たとえば頭痛とか。どうして頭痛がぶり返したりしたのかと言えば、昨晩遅くまで寝付けなかったからだというのは分かっているし、どうして寝付けなかったのかの理由も、残念ながら、しっかり覚えている。


 どうして春岡先輩の絵に、精霊さんの横顔が描かれていたんだろう。しかも、僕が彼女の横で朝焼けを眺めていた時の、そのままで。いや、冷静に考えてみれば、春岡先輩が、何かを眺めている精霊さんをモデルに絵を描いたというだけの話なのだから、論理的にも別に問題がある訳じゃない。生きていればいろんなことが起こるのだ。そういうことが起こる可能性だって否定できないし、現に起こっている。それでも、僕の中で何かが納得していないような、この感覚は何なのだろう。

 そもそも、僕はまだ、精霊さんの顔を知らない。なんて馬鹿げているんだろう。”なんて馬鹿げているんだろう”。この前渡り廊下の向こうを歩いていく姿を見て以来、後ろ姿さえも見ていない。そして僕自身も、こうして思い出さない限り、何も不思議に思わずに彼女のことを忘れているのだ。

 もちろん精霊さんの横顔はしっかり頭に刻まれている。けれど、その横顔を二つにコピ―してひっつけてみても、いまいちうまくつなぎ合わせることができない。何かが欠けているような気がする。


 そこまで考えて、僕は頭を抱え、自分の机に突っ伏した。朝7時30分の教室はいつも通りに静かで、開けた窓の隙間から風がひゅうひゅうと入ってくる音だけが聞こえる。静かな方が考え事に向いているのは確かだが、筋道の立たないことを考えているときには、思考を遮るものがないと、かえって空回りに歯止めがかからなくなる。人はその状態をショ―トと呼ぶ。


 そもそも――そもそも、僕の手元にある手がかりが少なすぎるのだ。推理ゲ―ムのように、歩き回っていればヒントが見つかるようなものでもない。それに、いろいろと大事なことを忘れているような気がする。今まで精霊さんのことをすっかり忘れていた僕のことだし。あの絵を描いた春岡先輩に話を聞ければ一番早いのだけれど、三年生は二月に入ってから、授業が終わってしまって登校してこない。メ―ルを送りもしたが、今のところ返信はない。先輩のことだから、ケ―タイの電源を切っているのかもしれない。


 やれやれ、と僕は言った。壁に向かって言ったのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。


 そうやってくよくよとしていると、廊下に足音が聞こえて、そしていつかのように、教室の後ろの戸がガタガタと叩かれた。僕は、やれやれとため息を吐いて立ち上がる。また、鍵を開けるのを忘れていた。


「うっす、シノちゃん」花田は、教室に押し入りながら言った。

「よう。今日も朝練なしか」僕は聞いたが、花田はそれを無視して自分の席に歩いていく。例の野球部バッグが、床を引きずられてザラザラと音を立てた。相変わらず目一杯に何かが詰められている。そして、それは僕の机の横で止まった。


 以前、僕は可能性の話をした。僕らの人生とゴリラとの関わりについての、統計的な可能性の話だ。それで結果的に――それは望まれぬ予言となってしまった。そう。生きていれば、ゴリラと隣の席になることだってある。僕はそれについて、もう多くのことを語りたくはない。


 僕は、後ろの戸の前で突っ立っているわけにもいかないから、仕方なく、自分の席に戻った。隣では、花田が野球部バッグをガサガサとまさぐっている。と、急に彼は、手をバッグに突っ込んだまま動きを止めた。


「シノ、十円玉五枚持ってる?」花田はこっちを見て言った。

「なんだよ、いきなり」

「いいから、あんのか、ないのか」野球部共通の坊主頭をこっちに近づけながら、花田は手をぐいと僕の胸元に突き出す。もちろん僕はいい気がしないが、このまま放っておいても面倒なことになるだろうから、渋々自分の財布をポケットから出した。

「……ん、あるぞ。五十円玉もあるけど」

「十円玉がいるんだよ、っと、サンキュ」そう言って、花田は僕の手から十円玉を引ったくる。そして、バッグの中から木箱を取り出した。それは、見たところ賽銭箱を模したもののようだった。しかし、木肌の色が明るいせいで、本物の重々しさはまるでない。僕は、それが取り出されるのを見て即座に嫌な予感を覚えた。花田は、何の躊躇もなく、僕の十円玉をその賽銭箱に落とし込む。

「おい、どうするつもりだよ」僕は慌ててその賽銭箱をつかむが、花田はひょいとそれを持ち上げて、僕の手を振り払う。

「バチが当たるぜ。賽銭泥棒は。……ほらよ」

 呆気にとられている僕を後目に、花田は自分のズボンのポケットから出したものを僕に投げた。銀色の光を反射させて、回転しながら僕の手に飛び込んできたのは、一枚の五十円玉だった。僕は、その穴の開いた硬貨と花田の顔とを、交互に見つめる。


「……? お前は何がしたいんだ」僕が聞くと、花田はいかにも当たり前だろ、という風に、「十円玉貯金」と言った。

「十円玉貯金?」僕は聞き返す。「なんでまた?」

「お前には関係ね―よ」そう言って、花田は賽銭箱をバッグの中に戻す。僕はいらっとした。

「おいおい、こっちだって出資者なんだ。何に使うつもりなのかぐらいは聞いたっていいだろ」僕は言った。

「うるせ―な。十円玉貯金は貯めることに意味があるんだ。そんなことも分からないのか、シノちゃんは。まだまだ若いのう」花田は、坊主頭の丸顔をいっぱいにニヤニヤさせながら、僕の頭をごしごしとなでる。僕はいらついたままその手を払う。そして、

「ゴリラが貯金なんて、地震でも起こるんじゃないか」と、ありったけの嫌味を込めて言った。僕にもそれくらい言う権利はある。しかし、花田はまた僕の言葉を流して、「用事を思い出した」と言って教室を出て行ってしまった。彼はいつも何かしら用事を忘れている。


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