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a.m.7:30-8:10  作者: 春井 武修
2月上旬
13/95

静かなことと、不思議なこと その2


 ”倉庫”の鍵を開けると、いつもの教室のそれとはまた違った重みが、指先でガタリと回った。軋むでもなく大きな音を立てる戸を開けると、すでにかぎなれている、ほこりと乾いた塗料のにおいが鼻を突く。僕は入ったすぐの右側の壁に照明のスイッチを探して、明かりを点けた。こまごまとしたものが散乱している部屋の様子が、蛍光灯の白い光に照らし出される。僕はやれやれとため息をつきながら、その中に入っていった。

 特別棟の三階にあるこの部屋は、一応、我らが小説同好会の部室だ。しかし僕らはこの部屋のことを「倉庫」と呼んでいるし、実際ここは生徒会のいくつかある倉庫のうちの一つでもある。春岡先輩が、同好会立ち上げのときに、少し無理を言って使わせてもらうことになったという。それでも、この部屋が小説同好会の部室だということを知っている人はこの高校に数えられるほどもいないと思う(そもそも、この同好会の存在自体を知ってる人自体がそうはいない)し、僕らもあまりこの部屋を使うことはない。所詮、金森が書いて僕が読むだけの活動しかないのだ。まあ、普段はほとんど誰も使わないから、ふと一人になりたくなったときにはちょうどいいかもしれない。


 カタリ、という物音が部屋の奥でして、僕は瞬間息を呑んだ。理由はすぐに知れた。奥の窓が少しだけ開いていて、その隙間から風と雨粒が吹き込んでいるのだ。僕は、床に転がっているガムテ―プやら段ボ―ルの看板やらをよけながら窓の前まで行って、それを閉める。いつから開いていたのだろう。ここのところこの部屋には入っていなかったから、僕が閉め忘れたということはないはずだが。ここは三階で、窓の外に誰かの進入経路になりそうなものはないから、窓が開けっ放しでもそれほど不用心ということもないだろうけれど、いざ開けっ放されているのを見ると、どうも後ろめたい気がする。


 窓を閉めると、外の雨音も消え、部屋の中の音は空っぽになる。それと一緒に空っぽになっていた自分の頭を起こして、僕は目的のものを探した。

 この部屋は、生徒会の倉庫であると同時に、春岡先輩の倉庫でもある。彼が小説同好会として書いた文章の原稿はもちろん、書道部や美術部での作品、果ては図書館から借りっぱなしの本などがそこかしこにしまって(隠して)ある。その事実は生徒会のメンバ―も知っているらしい。もちろんこれは褒められたことじゃないが、最終的に担当の先生に知られなければお咎めを受けることはない。そして第一に、隠しているのは先輩なのだから、僕が心配すべきことは何一つない。


 先輩の絵は、窓のある壁の、向かって右側のロッカ―の上に積まれていた。部屋の中を一回りして、諦めかけてまた窓の前に戻ったときに、ふと顔を上げると、木枠に付けられたままのキャンバスの角が見えたのだった。

 僕は三枚積み重なったキャンバスを慎重に降ろす。枠の大きさで、どれがダムの絵かはすぐに分かった。その絵は、一際大きなキャンバスに描かれている。僕は、キャンバスを覆っていた布をはがし、部屋の真ん中に一つだけある机にそれを置いた。



 精密な筆致で描かれたそのダムの夜景は、細部まで描写されればされるほど、動きを捨て、夜の暗がりにひっそりと沈んでいくように見えた。水は、いつか見たのと同じように、静かに澱んでいる。どの向きからのぞき込んでも、水面に映るものは何もなく、まるですべての光が吸い込まれ、水面下で消滅しているようだ。そびえ立つコンクリ―トの堤防も、人気がなく、ところどころに黒々とした斑を浮き立たせながら、全体を淡い闇にとけ込ませている。

 この絵がどこのダムをモデルにして描かれたものなのかは知らないが、もし実際に、夜のこのようなダムを上空から見降ろしたなら、きっと異様な胸騒ぎとか、畏ろしさとかを感じるだろう。けれど、眺めているだけで、水面下の得体の知れないもやもやに心が浸かっていくような吸引力は、不思議と僕に安心感を与えてくれる。何かが充満した空間に身を包まれるような感覚だ。そして、そこに沈殿しているものは何者でもないから、せわしなく循環し続ける必要もない。だから、僕はこの絵を見ていると、どこまでも静かな気持ちになる。混じりけのない静かさだ。あるいは、すべてを沈み込めるような水の質量も、あらゆる動きを捨てたダムのたたずまいも、僕が先輩の絵に何かしらの意味を見つけようとして、自分の想像力で補ったものなのかもしれない。しかし、この絵を前にしなければこの静けさを得られないことも、確かなことだった。


 ―いつも何かにつけて文句を垂れたり、口を開けばくだらない冗談ばかり言ったり、壁に向かってやれやれとため息をつくぐらいしかできない僕にも、えらく気分のいい朝というのは存在するし、それと同じだけ、静かな気持ちになりたい朝もある。そこらへんのしみったれた機微については、僕の口から語られるのを聞くよりも、そこらにありふれている横書き小説でも読んだ方が、よっぽど詳しいし、心を叩く表現で書いてある。別に僕が書きたいのは、そういうことじゃない、と思う。けれど、僕の書くべきものは深い水底にぼんやりと見えるだけで、僕がそこにたどりつこうとしても、密度の大きな何かの層が邪魔をするのだ―


 ふと何かに目を逸らして、もう一度視線をダムの水に戻したとき、僕はその水の色が、いや、絵全体の夜の色合いが、わずかに薄まっているような気がした。明度を増したと言ってもいい。もちろんそれは気のせいかもしれないし、蛍光灯の白い光の下で、絵の具が色褪せて見えたのかもしれない。僕は再びキャンバスに布をかけて、絵を机の上からどかした。僕の心には、すでに十分なだけの何かが満ちていた。


 これでもう、絵を元の場所に戻して教室に帰ってもよかったのだけれど、僕は妙に、ダムの絵と一緒にロッカ―から降ろした二枚の絵が気になった。そのうちの一枚は、何の絵か分かっている。この前の朝、僕が先輩に会ったときに彼が描いていたグラウンドの絵だ。僕は横長のそれを持ち上げ、さっきと同じように机の上に置いて、覆い布をはがす。ダムの絵とは正反対の、染み入るような朝日が注がれている。そして、その真ん中には、例の、野球ボ―ル大の穴が、不自然に机の木目をのぞかせていた。


 うむ、と思って、僕は最後の一つに取りかかる。それまでのものとは、二回りほど小さなキャンバスにそれは描かれていた。金森が、先輩が人物画を描いていた、と言っていたのを思い出す。それは、茶色がかった長髪の女の子の、横顔の絵だった――僕は、それが誰の横顔なのか、すぐに分かった。しかし、どうしてここにその横顔があるのか、僕にはまったく理解できなかった。それは、あの日、並んで朝焼けを眺めていた時に見た、精霊さんの横顔だった。




 ケ―タイの時刻表示は、デジタル文字で8時05分を浮かび上がらせた。雨の音は渡り廊下の中に響き、僕の頭の中では、かみ合わないいくつかの歯車がぎちぎちと音を立てていた。僕の思考回路はひどく混乱していた。それこそ、僕の頭を突き抜けて、勝手にどこかへ飛んでいってしまいそうなぐらいだ。

 渡り廊下を渡った目の前には、いつかの進路指導室がある。僕は、ふと振り返って、今やってきた渡り廊下の特別棟の方を見るが、誰もいないし、誰も横切らない。いろいろな記憶といろいろな感覚とが、間違ったもの同士繋げられているような気がした。


「あ、篠原君」


 後ろから声をかけられて、僕は、はっとそちらを向く。


「あ、中里さん」僕は言った。ベルギ―さんが、指導室の横の階段を上ってくるのが見えた。僕には、少し自分の表情がこわばっているのが分かった。

「また会っちゃったね。雨で練習できなくなっちゃったから、図書館にでも行こうって思って。……篠原君は?」ベルギ―さんは言った。

「え?、ああ、うん、ちょっとね。……あ、そうだ」僕はまだ頭の整理がついていなかったが、その乱れに任せて、あるいは何か言うことができるんじゃないかと思った。ただ、それが何であるのか、僕はとっさに思い出すことができなかった。

「え、なに?」

「……いや、うん、明日は、晴れるといいね」

「そうだね。でも、まだ気が早いんじゃない? あはは。――じゃあ」そう言って、ベルギ―さんは階段を上っていった。


 結局僕は、何も言うことができずに階段を下りて、教室に向かった。


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