エピローグ いつもの場所で
翌日。
新宿三丁目の雑居ビル五階。田所探偵事務所は、何事もなかったかのように静まり返っていた。
その静けさを破るように、扉が開く。
山岸が入ってくる。
「村井真理が全て白状したよ」
開口一番の報告。
田所は椅子に座ったまま、わずかに視線を上げた。
「そうか。それは良かった」
特別な感慨もなく、淡々とした返答。
山岸は苦笑する。
「また一歩も外に出ずに解決したな」
「出る必要も無かったしな」
その一言に、山岸は肩をすくめる。
「流石だよ」
そのタイミングで、夏野がコーヒーを淹れて戻ってくる。
いつものように、湯気の立つカップを差し出した。
「でも、何で真理さんは警察に捜索願を出したり、先生に行方調査に来たりしたんでしょう?」
カップを置きながらの問い。
田所は迷いなく答える。
「自分が夫を殺害したんじゃないと思わせる為と、臨時株主総会の前に遺体を発見させて株主総会の主導権を握りたかったからさ。だろ?」
山岸が頷く。
「ああ、そうだ。妻は被害者が浮気してるのに気付いて興信所を使って調査していた。被害者は経営方針の違いで弟と不仲だったから、財産は全て妻に残すという遺書を用意していた上で、臨時株主総会で弟を排除しようとしていた。それを知った妻は臨時株主総会の前に夫を殺して遺体を発見させて夫の株を引き継いで、かねてより関係のあった夫の弟に会社を継がせたという訳だ」
夏野が小さく息をつく。
「遺体を冷蔵庫に入れたのはアリバイ工作ですか?」
「そうだ。自宅でエチレングリコールを飲ませて殺害した後、車で冷蔵倉庫に運び入れて遺体を冷蔵し、倉庫のカメラの映像を削除した。そして警察とここに夫の捜索を依頼しに来た。それから臨時株主総会の前日の夜から深夜にアリバイを作り、冷やされた遺体を遺棄した。遺体が冷やされていたことにより死亡推定時刻がアリバイのある時間帯になったんだ。田所が気付いてなきゃ解決しなかったかもな」
山岸はコーヒーに口をつける。
その表情には、素直な敬意が浮かんでいた。
夏野が笑顔を向ける。
「お手柄ですね」
田所はカップを手に取りながら言う。
「自白してくれて良かったよ」
山岸が頷く。
「遺体遺棄は状況証拠のみ、殺害に関しては何も無かったからな。それでも自白を引き出したんだから流石だよ」
「まぁ、勝算は有った。被害者の弟を本当に愛してるのなら会社を潰すような真似はしないだろうとね」
夏野が少し驚いたように目を見開く。
「じゃあ、先生は奥さんが弟さんを本当に愛しているという確信があったんですね」
田所は首を横に振る。
「そうじゃなければ、わざわざ弟に会社を継がせずに自分が社長になってただろう」
理屈は簡単だ。
だが、その結論に辿り着くのは簡単ではない。
山岸が感心したように言う。
「そこまで読んでたのか。大したもんだ。九女島の事件もお前に頼めばよかったよ。そうすればあんなに被害者が出なかったかもな」
田所はわずかに肩をすくめる。
「おいおい、無理を言うな。俺は人の嘘を見抜いたり行動を予測したりはできるが、人間サイズの寄生蜂の事など分からんよ」
山岸が目を見開く。
「お前、何でそんなこと知ってんだ!?極秘事項だぞ!?」
田所は口の端を少しだけ上げた。
「俺は名探偵だからな。それくらいは知ってるさ」
山岸は呆れたように笑う。
「本当に流石だよ。じゃあ、俺はそろそろ行くよ」
そう言って立ち上がりかけるが、ふと思い出したように振り返る。
「田所。事件も解決したし、今晩は祝杯をあげようじゃないか」
「そうだな」
田所は即答する。
そして、いつものように続けた。
「じゃあ、夏野君。後で買い出し頼むよ」
「分かりました」
夏野はすぐに頷く。
山岸が呆れたように言う。
「また、ここなのか?お前は本当に出不精だな。ちょっとは出かけろよ」
田所は当然のように返す。
「良いじゃないか。夏野君の手料理、旨いだろ?」
山岸は少し考えてから、苦笑する。
「まあ……確かに……。分かった。また夜にここに来るよ」
「待ってるぞ」
短いやり取り。
だが、その中には奇妙な安心感があった。
事件は終わった。
だが、この部屋でのやり取りは、きっとまた続く。
椅子に座ったままの名探偵と、その隣にいる秘書と、時々訪れる刑事。
外に出ることなく、世界はここに運ばれてくる。
そして――
また次の“嘘”が、ここに持ち込まれる。




