第一章 早すぎる依頼
新宿三丁目の雑居ビル五階。田所探偵事務所は、昼下がりの鈍い光に沈んでいた。窓の外では車の音が途切れず流れているが、その喧騒は厚いガラスに遮られ、室内にはコーヒーの香りと、キーボードを打つ微かな音だけが満ちている。
田所雄三は椅子に深く腰掛けたまま、モニターに視線を落としていた。片手にはマグカップ。中身はコーヒーだが、色はすでにほとんどミルクに近い。砂糖も例によって三本分入っている。
その隣、二、三メートルほど離れた席で、夏野和泉が資料を整理していた。視線は紙面に落とされているが、耳は常に周囲の気配を拾っている。
その静寂を破ったのは、扉をノックする音だった。
夏野が立ち上がり、入口へ向かう。ドアを開けると、そこには一人の女性が立っていた。
黒のスーツに身を包み、髪はきちんとまとめられている。年齢は四十前後。整った顔立ちだが、その表情には抑えきれない焦燥が滲んでいた。
「田所探偵事務所で間違いありませんか?」
「はい。どうぞ、お入りください」
夏野は女性を応接へ案内する。女性は一礼して中に入り、指示されるままソファに腰を下ろした。その動作は落ち着いているようでいて、どこかぎこちない。
田所はゆっくりと顔を上げると、そのまま応接へ視線だけを向けた。
ややあって立ち上がり、向かいのソファに腰を下ろす。
夏野がコーヒーを差し出すと、女性は軽く頭を下げた。
「村井真理と申します」
「田所です」
短く名乗り、すぐ本題に入る。
「それで、依頼内容は?」
真理は一瞬、言葉を選ぶように視線を落とした。
そして顔を上げる。
「夫を探してほしいんです」
田所はわずかに眉を動かした。
「警察には?」
「先ほど行ってきましたが……いなくなってまだ一日しか経っていないので、受けてもらえませんでした」
「確かに成人男性が一日いなくなった程度では動きませんね」
淡々とした口調。だがその視線は、真理の細かな仕草を逃さない。
「それで、こちらにお願いに来たんです」
「一日だけなら、飲みに行ってそのままどこかに泊まった、という可能性もある。わざわざ探すほどでもないと思いますが」
真理はすぐには答えなかった。
指先でカップを持ち上げかけて、止める。
視線がわずかに揺れた。
「……今まで、こんなことはありませんでした」
そこで一度、言葉を切る。
「愛人の存在は知っていますが……そちらにもいないようなので」
田所は一拍置いた。
愛人。
そして“いないと確認している”という点。
だがその違和感を表には出さない。
「分かりました。そういうことでしたら引き受けましょう」
真理の肩が、わずかに落ちた。安堵のようにも見える。
田所は机の方へ視線をやる。
「夏野君、申込書と誓約書を」
「はい」
すぐに書類が用意される。
「ご主人の行動範囲と、愛人について分かっていることを教えてください」
「分かりました」
真理は持参していたメモを取り出し、田所に差し出した。
そこには整然とした文字で、勤務先、行きつけの店、愛人の名前と住所が書かれている。
あらかじめ用意してきたものだ。
田所はそれを一瞥し、机の上に置いた。
「何か分かれば連絡します。そちらも変化があればすぐに知らせてください」
「はい……よろしくお願いします」
真理は深く頭を下げ、席を立つ。
その背中を見送りながら、田所はわずかに目を細めた。
扉が閉まり静寂が戻る。




