3 父の真実は
嫌な予感というものは当たるものだ。
父サイラスが、依然と同様に家にいるようになったあの日から半月後、ソフィアは従姉サーシャを家の廊下で見かけた。
久しぶりに見たサーシャは、なんだか疲れ果てていた。
髪もボサボサで、後ろで一つにまとめている。目の下にクマを作り、侍女も付けずにふらふらと歩みを進めている。
その姿に驚くとともに、声をかけようとして、ソフィアは思い止まった。
だって――何を言えばいいというのだろう。
(……なんで、ボロボロなの? ご両親が亡くなったから、ずっと伏せっていたの?)
ソフィアはふと、サーシャが両親を失ってから何をしているのか、何も知らないことに気が付いた。
だって、サーシャは元々、子ども部屋に現れない。居間にも現れない。彼女は、ソフィアの生活圏に居ない人だ。
――従姉なのに?
――同じ家に、住んでいる人のはずなのに?
――両親を亡くしたばかりの、サーシャ姉さん。そんな彼女の、一番近い親族なのに……?
ソフィアは、頭の奥で鳴る警鐘を抑え込む。
気がついてはいけない。
多分、それはとても、ソフィアに都合が悪いこと。
だから、何も言葉が出てこない。
父と母を失って、ボロボロの彼女に、ソフィアはかける言葉を持っていない。
そう思って、けれども逃げ出すこともできなくて、廊下の陰からただひたすら彼女を見ていると、サーシャは居間にいる父サイラスを見つけたようだった。
そして、小さく、しかし怒りを込めた声で「叔父さん」と呟いた。
ソフィアは、自分が責められたような気持ちになって、びくりと体を震わせる。
しかし、サーシャの怒りを帯びた声は、それだけでは済まなかった。
サーシャと父サイラスの言い争いが始まってしまったからだ。
「サイラス叔父さん、何をしてるの? 領内はこんなに仕事が積み上がってるのに」
「うん? クビになったから自分の時間を楽しんでいるんだよ」
「クビ!?」
何やら、父サイラスによると、彼はあまりにも仕事を混ぜ返すので、どの部署からも弾き出されたらしい。
ソフィアは唖然とした。
父は、仕事は終わったと言っていなかったか。
できる人に引き継いだと。
(できる、人……)
――その『できる人』に、もしかして、父は含まれていない……?
「こ、こんな事態なのに! 子爵代理が、そんな……」
「私もな、面目ない限りだ。でもなぁ、できないものはできないんだよ。まあ、お前の資産管理だけはやるから安心しなさい」
へらりと笑うサイラスに、サーシャは唖然としていた。
ソフィアも、廊下の奥で固まっていた。
父は、一体何を言っているのだろう。
子爵代理が『クビ』になって、そんなふうに笑っていていいのか。
尊敬する父のやることに、ソフィアは初めて疑いを抱いた。
そもそも、父は普段、何をしている人なのだろう。
ソフィアは、両親が日中、何をしているのか何も知らないことに気が付いた。
漠然と、領主一族なのだから、領地経営や、当主夫婦の手伝いをしているものだとばかり思っていた。
けれども、父は『クビ』になったらしい。
ソフィアの思考は、ぐるぐると渦のように回転し、そのまま真っ黒な沼に嵌っていく。
だって、どうすればいいのか。
ソフィアはまだ、たった七歳だ。ただの子どもで、幼児を抜け出したばかりの、まだ小さく幼い娘。
けれども、サルヴェニアの一族の血は、ソフィアに知らないでいることを許さない。
サーシャの言うことが、父の言ったことが、どういうことを意味するのか、分かってしまう。
ぐらぐらと視界が揺れ、目の前にある二つの選択肢に、息が詰まりそうな思いがする。
一つ。悪い人である父を、退治する。
ソフィアの中の、正義を守ろうとする人が、そうすべきだと囁く。
大人なのに、お仕事をさぼってのうのうと過ごしていいはずがない。
それがたとえ、ソフィアの父親であったとしても。それがたとえ、働くことを拒絶した父サイラスの収入を奪い、ソフィアの人生を転落させる結果になるとしても。
一つ。悪い人である父を、見過ごす。
ソフィアの中の、ソフィアを守ろうとする人が、そうすべきだと囁く。
正義を守って、誰が褒めてくれるというのだろう。
お仕事をさぼっている父サイラス。ソフィアがそれを指摘し、父と喧嘩をするだけで終わるならいい。けれども、ソフィアがサーシャに味方し、騒ぎ立てたことで、父がお金をもらえなくなったら? そうしたら、家族はどうなるのか。
自分を守る。ソフィア自身の、人生を守る。そのために、一番効率的で――楽な方法は、何?
それは、伸び伸びと育ち、沢山の学びを得て、正義感に溢れ、ただ真っ直ぐ前を向いてきたソフィアの根底を揺るがす選択肢だった。
どうしよう。
どうしたら。
そう思っているうちに、足が、一歩、後ろに下がった。
自然と、体が下がる。
彼女から目を逸らすように。
都合の悪いものから、遠ざかるように。
そのままもう、止めることができなかった。
何も考えることはできなくて、ただ、自室に戻り、扉を閉める。
閉めた扉に背を預けて立ちすくんでいると、なんだか寒いような気がして、ソフィアは自分の体を抱くように、腕をさすった。
(私は、悪くない。私は何もしてない。私は)
心の内で唱えたその言葉は、しかし、ソフィアの気持ちを軽くしてくれなかった。
何かが汚れてしまったような気がして、ソフィアはただ、ずっと自分の腕をさすっていた。
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