10.さようなら、愛しい人
「フィリベルト、お願い。婚姻は少し待ってほしい」
「理由を聞こうか」
王宮の一画にいたフィリベルトを探し出し、リリーは呼び出した。
近衛騎士と訓練していた彼がいた事は、リリーにとって幸いだった。
「キリアン様との婚約を解消するわ。私じゃ、守れない」
「先日の刺客の件を聞いたのか?」
フィリベルトの問いに、リリーは頷いた。
苦虫を噛み潰したような表情の彼に何も返せずリリーは俯いたままだ。
「あれは武官派の過激派が勇み足になったせいだ。アウムフォビアから苦言を入れている」
「でも、他にもキリアン様を狙う輩が現れるかもしれないわ」
「そのための近衛だろう? どうしたリリー。今更怖じ気づいたのか?」
フィリベルトの問いにリリーは唇を噛み締めた。
「キリアン様に危険が迫るなんて思わなかった。もし死んでしまったらと考えると……。私じゃ守れない。でもルイナ様なら守れるのでしょう?」
リリーの鬼気迫る勢いにフィリベルトはたじろいだ。
何事にも関心を示さないリリーが、焦って感情を顕にしている。その事が彼の中で珍しいと思っていた。
「大丈夫だ、リリー。殿下はお前を愛しているだろう? 確かに騎士たちには劣るが、殿下はご自身の身を守る術をお持ちだ。近衛だっている。だから心配する必要は無い」
「でも……」
「リリー」
フィリベルトの服を引っ張ったところでキリアンがやって来た。
ずんずんと近寄り、リリーを抱き寄せフィリベルトを睨み付け牽制する。
「何をしている」
「あー……、先日の刺客の件を知ったようで、心配しているのですよ」
「そうなのか?」
キリアンはリリーを己に向かせ、潤んだ瞳に口づけた。
「よくお話し合いください。不安に思っているようですよ」
フィリベルトはそれだけを言うと踵を返して訓練に戻った。
キリアンは震えているリリーを抱き締め、髪に口づける。
最近はどれだけ思いを伝えても、伝わらない焦燥を感じていた。
いつかこの手からすり抜けてしまうのではないかと思うと、一刻も早く結婚して手中に収めたかった。
「リリー、大丈夫だ。私はきみを裏切らない。もうすぐ兄上が王太子殿下になられる。父上がようやく決意してくださったんだ。そうすればリリーの卒業を待って結婚できる」
「キリアン様……」
「どうしたらリリーの不安を拭える? やはり心変わりした私では嫌かな?」
「そん、な! そんな事はありません。私は……私はキリアン様を愛しています。キリアン様が私と共にいて下さる事が幸せで……」
望んでいた愛だった。
だがそれは得られないと諦めていた。
しかし魅了のおかげでキリアンの愛を得られた。その優しさに触れられた。
優しくされる度、魅了を使って気を引いた事が苦しくなった。
偽りの愛で満足できなくなった。
キリアンの命を守るためと言いながら、自分が満足するために魅了を使用し、キリアンの幸せを考えていなかったと自嘲する。
「大丈夫だよ、リリー。私はきみを逃さない。きみが嫌だと言っても、絶対に、永遠に……」
キリアンの瞳が闇に濁る。
魅了の精神的な負担も相まって、すぐにでも解除しなければ、と思った。
だがそんな時に限ってキリアンから甘く囁かれ、リリーの理性が溶けてしまう。
啄むように口づけられ、抗えずに応じてしまう。
簡単に陥落してしまう自分への甘さに嫌気がさしていた。
結局、キリアンに捕まり、その日は一日中室内に閉じ込められてそばにいさせられた。
だがもう魅了を使用しないように、目を合わせないようにとリリーは必死だった。
数日後、国王からの正式な発表として、第一王子バルトロメオを王太子にする旨が通達された。
近々任命式が行われる。その場にリリーも婚約者として出席するように、と言われた。
「その日に正式に婚約者として発表するから」
揃いの衣装、キリアンの色を入れた宝石。準備は進んでいくのに、心が追い付かない。
『今更戻れはしないだろうけど』
先日聞いた第一王子の言葉が重くのしかかった。
数日後、ルイナとフィリベルトが辺境へ旅立った。
ルイナのもとに 返す事は叶わなかったが、リリーはキリアンを自由にしてやりたかった。
少しずつ、魅了を解除するため一瞬目を合わせ解除していく。
魅了は掛ける時は見つめるだけでいいが、解呪は少しずつ解除しないと精神的な負担が大きいため根気がいる作業だった。
魅了を解除されているキリアンは、リリーへの思いに戸惑っていた。
愛しさは確かにあるのに、自分でも信じられない程リリーへの憎悪が湧いてきた。
愛している、許さない、殺してやる、抱き潰してめちゃくちゃにしてやりたい──そんな相反する感情に支配され、リリーに会う度それが増幅し、押さえるのに必死だった。
同時に、ルイナへの罪悪感、フィリベルトと共に旅立ってしまった絶望も感じ、己の醜さに吐き気をもよおしてもいた。
そんなある日。
この日は王太子任命式の衣装をどうするのか、話し合っていた。
「リリー、これなんかどうかな」
「……よろしいのではないでしょうか」
キリアンの提案にふい、と目を逸らす。それだけで彼の中のナニカが切れ、ぐいっとリリーを引き寄せた。
「最近どうしたの? 全く目を合わせてくれないね」
「……そうでしょうか」
鼻先が触れ合う距離で見つめられ、目が離せない。
「何か隠してる?」
「何も……」
「では、何をしている」
必死に目を逸らそうとするリリーに苛立ったキリアンは、無理やり顔を向けさせ噛み付くような口づけをした。
「んんっ!?」
何が起きたか分からないまま口内を蹂躙され、リリーは息苦しさを堪えていた。
苛立たしさを押さえ、けれども溢れんばかりの愛おしさと憎らしさは、リリーをどうにかする事で解消できるのではないかと、キリアンは夢中で口づけた。
だが、息苦しさに耐えかねたリリーは、徐々に解除しなければならない魅了魔法を誤って一気に解除してしまった。
バチン! という音と共に、それまで口づけていたキリアンが目を見開き勢いよく離れた。
「これは……一体どういう事だ……?」
最初から解除するつもりで掛けた魔法だった。
劣情を含んでいたキリアンの瞳が憎悪に変わる。
愛しいと言っていた熱は、霧散してしまったかのように消えていた。
リリーは乱れていた衣服を整え、息を呑んだ。
「俺に何をした? 答えろ、リリー・ソフィーナ・ストラベル!!」
リリーは目の前の愛しい人をじっと見つめたまま動かない。
キリアンの変わり様に、リリーは自分がしてしまった事を反芻するかのように脳裏に描いた。
魅了の解除は慎重にせねばならなかった。
穏やかだったキリアンは、誰かを憎悪するような人ではなかったと今更ながらに後悔が押し寄せる。
リリーは顔を上げると、キリアンを見つめた。
一度魅了を解除された彼に、もう魔法は届かない。
「キリアン・ライト・ラングドール第二王子殿下。あなたにかけていた魅了の魔法を、解きました」
キリアンの瞳が見開かれる。唇が戦慄き、端正な顔が悲痛に歪んだ。
魅了魔法は禁忌。人の心を意のままに操り、己を盲信するように仕向けられるその魔法は古代に封印されたものだ。
王族である彼はその魔法がいかに危険であるかを知っていた。
「それがどんなものかを知っていて……俺にかけたのか?」
「……ええ。あなたをルイナ様から引き剥がすためには、そうするしかなかったの」
リリーはせめて自分の意思でしたと強調するように微笑ってみせた。彼女なりに精いっぱいの強がりだった。
予定は多少狂ったが、許容範囲ではある。これは計画の内だから大丈夫。──だが会えるのは最後になるだろうと、目の前の愛しい人に焼き付ける。
元々この関係は魅了で成り立つ危ういものだった。
魅了がなければ、キリアンはリリーに見向きもしなかっただろう。
魅了があっても、キリアンの心には常にルイナがいた。
リリーを大切にするとは言っても、「愛している」はくれなかった。
結局、どうしたって自分は愛されないのだ。
だから魅了を解いた。──慎重に解くはずだったのに一気に解除してしまったのは誤算 だったが。
キリアンは顔を歪め、歯を食いしばる。
自分が目の前にいる憎しみを抱く女に心変わりをし、婚約者を裏切ってしまった事、目の前の女に慈しみ、愛を囁いてきた事が脳裏を過ぎる。
苦い物が口内に遡るが、隙を見せないために何とか呑み込むしかない。
憎悪が勝っているが、愛しいと思ってしまう事が一番腹立たしかった。
「……婚約、破棄だ。魅了によって成り立つものなど、無効だ」
辛うじて言葉を絞り出し、拳を強く握り締める。
ともすれば今にも儚く消えそうな彼女を抱き締めたい衝動に駆られてしまう。
彼もまた、自分の感情が溢れ出そうになるのを必死に堪えていた。
「承知致しました」
「何か……言う事は無いのか」
アッサリと了承したリリーに焦燥を募らせる。
だが彼女は柔らかに微笑んだ。
魅了魔法を解除すると決めてから、王宮に与えられた部屋は既に片付け終えているため、すぐに退去する事を告げる。
「さようなら。どうか私を憎んでください」
リリーはもう一度カーテシーをすると、キリアンの怒りの表情を瞳に焼き付けて退室した。最後に見たかったのは笑顔だったが、贅沢だと自嘲する。
残されたキリアンは、思い切りソファを叩き付けた。




