1.偽りの愛が終わる時
「これは……一体どういう事だ……?」
いつもの逢瀬の場所で、ソファに座ったままの彼は、目の前にいる婚約者を見上げた。
常に婚約者を見るときは慈しみに溢れていたはずが、彼の目 は瞬時に憎悪に変わる。
失敗してしまったのだと痛感すると同時に、彼女の表情は強ばり、けれどもどこか安堵が含まれていた。
「俺に何をした? 答えろ、リリー・ソフィーナ・ストラベル!!」
このように叫ぶ人では無かった、とリリーは目の前の人物をじっと見つめたまま動かない。
彼女の中の婚約者は、常に穏やかで優しい人だった。彼の口から怒声 など聞いた記憶が無い。荒々しく言葉を発する人ではなかった。
変えてしまったのは自分なのだと俯き目を伏せる。
こんなはずではなかった、もっと上手くやれていれば、と押し寄せるものに苦虫を噛み潰すように唇を引き結ぶ。
だが、己の罪に向き合うように、ゆっくりと顔を上げると自分を憎しみの目で見る愛しい人を見つめた。
「キリアン・ライト・ラングドール第二王子殿下。あなたにかけていた魅了の魔法を、解きました」
瞬間、キリアンのサファイアのような瞳が見開かれた。
魅了魔法は禁忌。人の心を意のままに操り、己を盲信するように仕向けられるその魔法は古代に封印されたはずだ、と顔を顰める。
王族である彼はその魔法がいかに危険であるかを知っていた。
「それがどんなものかを知っていて……俺にかけたのか?」
「……ええ。あなたをルイナ様から引き剥がすためには、そうするしかなかったの」
リリーは表情筋を最大限に動かし、余裕があるように見せかけるため妖しく微笑い、彼女なりに精いっぱい強がってみせた。
予定は多少狂ったが、許容範囲ではある。これは計画の内だから大丈夫。──会えるのは最後になるだろうと、目の前の愛しい人を目に焼き付ける 。
元々この関係は魅了で成り立つ危ういものだった。
魅了がなければ、キリアンはリリーに見向きもしなかっただろう。
ルイナという相思相愛の婚約者がいたのだから。
二人は政略結婚として婚約が結ばれたが、幼い頃から仲睦まじく年を経るにつれて互いに思いやり、慈しみ合う仲となっていた。
だがリリーからすれば、ルイナの存在は目の上の瘤だった。
どうしてもキリアンが欲しかったリリーは、彼に魅了 魔法をかけた。
──つい先程、魅了は解いてしまったが。
キリアンは顔を歪め、歯を食いしばる。
自分が目の前にいる憎しみを抱く女に心変わりをし、婚約者を裏切ってしまった事、目の前の女に慈しみ、愛を囁いてきた記憶が脳裏を過ぎる。
苦い物が口内に遡るが、隙を見せないために何とか呑み込むしかなかった。
「……婚約、破棄だ。魅了によって成り立つものなど、無効だ」
辛うじて言葉を絞り出し、拳を強く握り締める。
彼も自分で抑えきれない程の感情が溢れ出そうになるのを必死に堪えていた。
「承知致しました」
リリーは静かに受け入れ、深く頭を下げた。
彼の怒りをこれ以上強めないためにも今はこうする他無い。噛み締めた唇からぷつりと血が滲む。
仕方がなかった、あなたのためだった、などという言い訳じみた言葉は今の彼には通用しないだろうと、溢れそうになる言葉を全て呑み込んだ。
だがキリアンはリリーの下げられた頭を見ながら溜飲を下げるどころか神経を逆撫でされた気持ちでいた。
魅了し、相思相愛の婚約者と別れさせてまで自分を手に入れたはずなのに、感情任せに出た婚約破棄をすんなり受け入れた事を不満に思い、そんな自分に戸惑った。
自分を愛していたのではなかったのか。
愛し合っていたのではなかったのか。
全てが特別だと思っていたのは幻だったのか。
ではなぜ魅了を使ってまで自分を誘惑したのか。
濁流のように溢れる感情はキリアンの中に黒く渦巻き、安堵以上に絶望をもたらした。
そんな感情が湧き出る事が一番不可解だった。
「何か言う事は無いのか」
追い縋れ、許しを請え、「あなたを愛している」と求めろ──
そんな内なる声が聞こえるのは、どこかで期待していたのだろうか。
リリーが頭を上げ、小さく微笑んだところで胸が高鳴った。
「いえ、ございません。魅了を使い、ルイナ様と第二王子殿下の婚約を解消させてしまった事は申し訳なく思います。ですから、申し開き などせず、己の罪を受け入れ償うつもりでおります」
魅了魔法の使用が公になれば、リリーとて無事ではいられないだろう。
それを理解しての言葉なのか。
キリアンは己の望む答えではなかった事に苛立ち、リリーをじっと睨んでいる。
リリーは最後に見るのが笑顔ではなく残念に思ったが、それは致し方ない事と割り切っていた。
二人の婚約は解消される。
魅了も解き、元通りになれるだろう。
ルイナにも償わなければいけない。
残された時間は少ないだろうが、自分がしてきた事の償いはするつもりだった。
「王宮の部屋は退去いたします。婚約破棄の書類は、ストラベル公爵家へお願いいたします。兄が処理してくれるでしょうから」
全て、この日のために準備してきた。
今更自分が何を言っても、彼はリリーを許す事などしないだろう。
「さようなら。どうか私を憎んでください」
リリーはもう一度カーテシーをすると、キリアンの怒りの表情を瞳に焼き付けて退室した。
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