第8話:精密なる緩急、からくりカーブ
一回表、先頭打者ホームラン。
その白球が描いた残酷な放物線は、紀伊プラムスのベンチを氷河のように凍りつかせた。しかし、マウンドの中央に立つしみまるの瞳に、絶望の濁りはない。
むしろ、彼の右腕――『義腕・ナンバーナインティーン』は、かつてないほど繊細に、かつ熱く脈動していた。
「……計算外でした。高校生の執念が、僕の演算を上回るなんて」
しみまるは、自身の鋼の右腕をじっと見つめる。指先のサーボモーターが、微かな、しかし規則正しいビートを刻んでいる。
智和学園の打線は、しみまるの145km/hの直球と、視覚を惑わす「分身投法」に完全に照準を絞っていた。彼らは分身の「揺らぎ」をあえて無視し、中心に潜む「一球の本質」だけをチーム全体で共有し、最短距離で叩く。聖地の継承者たちが血の滲む練習で培ってきた、驚異的な組織破壊打法だ。
(直球と分身という『縦の攻め』だけじゃ、この荒波は止められない。……もっと、打者の『タイミング(時間軸)』そのものをハッキングしなきゃダメだ)
しみまるは、網膜ディスプレイに表示された設定を「精密駆動モード」へとフリックした。
狙うのは、これまでの剛球とは真逆のベクトル。
右腕の多段階関節のテンションを意図的に緩ませ、内部のジャイロセンサーを「逆回転」へと同期させる。
二回表、一死走者なし。
バッターボックスには、先ほど阿修羅のようなスイングで本塁打を放った黒潮海斗。
しみまるは、天を仰ぐように大きく振りかぶった。
――キィィィィィ……。
右腕から、これまでにない低く、重厚な駆動音が漏れる。
放たれた一球。それは、時速わずか90km/h。
春の空に浮かぶ白い雲のように、ふわりと、あまりにも無防備に、そして頼りなげにマウンドから放たれた。
「――っ、ナメるなッ!」
黒潮が牙を剥き、獲物を屠る獣の如きフルスイングで迎え撃つ。
しかし。
ボールは打者の手元で、まるで急ブレーキをかけたかのように減速した。右腕の精密モーターによって、ボールの回転軸が空中で三段階に強制変化させられたのだ。
球筋は、物理法則の隙間を縫うように「カクン」と一段階沈み、さらにそこから重力に引きずり込まれるように、鋭く、深く、縦に割れた。
「……えっ?」
黒潮の視界の中で、時間が引き伸ばされたように錯覚する。フルスイングしたバットが空を切り裂く、その遥か後方を、ボールが嘲笑うように通過していく。
ドサッ。
正捕手・白浜砂織のミットが、地面を這うような低軌道でその「からくり」を飲み込んだ。
「……ストライィィィクッ!!」
球場全体が、しんと静まり返った。
145km/hの剛球を脳に焼き付けられた直後に投じられた、90km/hの**「絶望的スローカーブ」**。
それは単なる変化球ではない。打者の脳内時計を狂わせ、神経伝達をバグらせる「時間差の暴力」だ。
「……これが、僕の新しい『回答』です」
しみまるが静かに呟く。
緩急。
145km/hの直球が、このスローカーブの残像によって、打者の体感速度では160km/hを超えて襲いかかる。逆に、スローカーブは空中で静止しているかのように錯覚させる。
智和学園の打者たちのタイミングは、ドミノ倒しのように次々と狂い始めた。
「……すげえ。しみまるの奴、マウンドの上で『進化』してやがる」
ベンチで竜神豪が、感嘆に近い溜息を漏らした。
エースとしての本格派の矜持と、しみまるの変則的な技術。二人の個性が、紀伊プラムスというチームの中で美しく溶け合い、化学反応を起こし始めていた。
五回を投げ抜き、許した安打は初回の本塁打一本のみ。
しみまるは、自身の「生身の心臓」の鼓動と、「鋼の右腕」の駆動音が、初めて一つの旋律として調和していく感覚を味わっていた。
だが、試合終了を告げるサイレンが響いた瞬間。
バックネット裏の薄暗い観覧席で、一人の男がタブレットを閉じ、不敵に笑った。
「……なるほど。意志で制御するスローカーブか。だが、しみまる君。君のその『心臓』、いつまで保つかな?」
男の黒いジャケットの胸元には、次なる対戦相手「紀州ブラックベアーズ」の不気味な紋章が刻まれていた。
しみまるの新たな武器は、さらなる過酷な、そして「死」を予感させる戦いを引き寄せる呼び水に過ぎなかった。




