第5話:黒い刺客、剛田まるお
和歌山県営球場の熱気は、夜の帳を下ろすのを拒んでいた。
三塁側ベンチ、「黒潮シャークス」のバスから降り立ったその男は、歩くたびにアスファルトをきしませるような威圧感を放っていた。
剛田まるお。
開幕戦でしみまるの軍門に降った、帝都タイタンズの主砲・剛田を兄に持つ男だ。兄譲りの広背筋はユニフォームをはち切れんばかりに膨らませ、その手には特注の、光を吸い込むような漆黒のバットが握られていた。
「兄貴をコケにした『機械人間』はどこだ……。俺の目は、偽物には騙されねえぞ」
まるおの瞳は、異様なほどに静まり返っていた。彼はこの一週間、暗闇の中で時速160kmのテニスボールを5つ同時に打ち返すという、常軌を逸した特訓を重ねてきた。狙いは一つ。機械が生み出す「分身」の揺らぎを見抜くための、動体視力の極限突破だ。
一方、プラムスのベンチ裏。
しみまるは、明日香が徹夜で調整した緊急冷却ユニット『氷結・システム』を右腕に装着していた。
「いい、しみまる。この高圧冷却液が切れたら、あんたの腕は内部から溶解して爆発するわ。残弾は3回分。それまでに試合を決めるのよ」
「3回分……十分です。ありがとうございます、明日香さん」
しみまるは、冷気を帯びた鋼の指先を一つずつ確かめるように動かした。
試合は中盤、シャークスの強力打線に捕まったエース・竜神が3点を失い、プラムスは2対3と再び一点を追う展開。だが、今のプラムスには、敗北を拒む「うねり」があった。
6回裏、1番の熊野が泥にまみれたヘッドスライディングで内野安打をもぎ取ると、2番の梅林が職人芸の送りバントで繋ぐ。主砲・南紀のタイムリーで同点に追いつくと、ベンチからは怒号のような歓声が上がった。
「野郎ども、繋げ! しみまるの居場所を作るんだ!」
ベテランの那智が、ボテボテの進塁打を放ち、一塁へ必死に走る。その執念が、チームの魂を一つに束ねていた。
そして運命の8回表、2アウト満塁。
バッターボックスには、漆黒のバットを長く持った怪物、剛田まるお。
場内のスピーカーが、その名を、その戦慄を告げた。
「ピッチャー、梅干に代わりまして――しみまる」
マウンドに上がったしみまるの右腕からは、以前のような白煙は上がっていない。しかし、内部では明日香の仕込んだ冷却液が、激しい駆動音と共に超高速で循環していた。
「待ってたぜ、鉄屑」
まるおが不敵に笑う。
「俺の『黒潮の目』からは、逃げられねえ」
第一球。
しみまるは、挨拶代わりに「分身投法」を解禁した。
右腕がナノ振動を開始し、白球が空中で三つに分かれる。
だが、まるおの瞳は微動だにしない。
「……見えた。空気の揺らぎが一番小さい、左下が『実体』だ!」
凄まじい風切り音。
ガキンッ!
金属音が夜空に響き、ボールはレフト方向へ強烈なファウルとなった。
ベンチの明日香が、顔を蒼白にして立ち上がった。
「分身を見破った……!? そんな、人間の動体視力を超えてるわ!」
しみまるの網膜に、再び赤い警告が走る。
(見破られたんじゃない。……彼は僕の『予備動作』を読み取っているんだ。駆動系が振動を開始する、コンマ数秒のラグを!)
第二球。
しみまるは「多段階関節」をフル稼働。肩を180度以上しならせ、リリースポイントを直前で強引に数センチずらす。
しかし、まるおのバットは磁石に吸い寄せられるように、正確にボールの芯を捉えにかかる。
(負けられない。僕には、泥にまみれて繋いでくれた仲間がいる。待っていてくれる、母ちゃんがいる!)
生身の心臓が、限界を超えた血流を送り出し、視界が真っ赤に染まる。
機械のスペックではない。しみまるの「執念」が、右腕の全回路を限界まで繋いだ。
第三球。
しみまるは、禁断のオーバーロードスイッチに指をかけた。
「――出力、120%開放ッ!」
冷却ユニットが悲鳴を上げ、白い蒸気が高圧噴射される。
放たれたのは、分身すらしない、純粋無垢な一本の「真っ直ぐ」。
だが、それは超高回転によって、打者の手元で「加速」し、空気を焼き切る死神の鎌だった。
「おおおおおおお!!」
まるおの渾身のスイングが空を切る。
あまりの衝撃波に、キャッチャー白浜の後方の砂煙が舞い上がった。
「ストライィィィィクッ!!」
審判の絶叫がスタジアムを支配する。
まるおは、バットを握ったまま、石像のように立ち尽くしていた。
「……加速……した? 物理法則すら……捻じ伏せやがったのか……」
しみまるは、熱く焼けた右腕を抑え、膝を震わせながらも、力強くマウンドを踏みしめた。
ユニットからは残量わずかな冷却液が漏れ出し、彼の足元を濡らしている。
まだ、戦いは始まったばかりだ。
紀伊プラムスの19番。その鋼の腕には、仲間の夢と、壊れかけの、しかし誰よりも熱い人間の鼓動が刻まれていた。




